洛中・洛外紅葉模様10
2009 / 11 / 25 ( Wed ) 洛中・洛外紅葉模様10 ”常照寺”
鷹ケ峰源光庵からすぐのところに吉野太夫ゆかりの日蓮宗の常照寺があります。 正式には寂光寺常照寺で御本尊は十界大曼荼羅。元和2年(1616年)に 本阿弥光悦が土地を寄進、その子光瑳の発願によって日蓮宗の中興の祖 寂照院日乾(にちけん)上人を招いて開創されました。 もともとは鷹峰壇林(僧侶の修行道場)として設立され、その名も学問所を示す 常照講寺と呼ばれておりました。 非常に戒律の厳しい僧風教育が行われていましたが、明治初期の教育改革により 廃止され、以後常照寺として今日に至ります。 ![]() 常照寺の山門(赤門)は吉野太夫が日乾上人の学徳に帰依し、寛永5年に自ら巨額 を投じて寄進した門で吉野大門と言われております。 ![]() 三門をくぐると、帯塚があります。 昭和44年に吉野川の自然石で重さ6トンの帯状をした帯塚が建立されました。 女性の心の象徴 ”帯”に感謝して毎年5月に帯供養や時代風俗行列が行われます。 ![]() 茶室遺芳庵 吉野窓 吉野太夫とは天正から延宝年間(1589年〜1680年)に10人おられたそうです そのうちで今日名を残した吉野太夫とは2代目吉野太夫(本名松田徳子)のことで、 慶長11年(1606年)洛東に西国の武士松田武右衛門の子供として生をうけました。 父は故あって流浪の身で徳子は六条三筋町の遊里に預けられました。 当時六条三筋町は高級社交場で太夫はその主として絶大な勢力を持っていました。 「仮視の式」の宴席には太夫の許しがなければたとえ皇族、公家などの高位の方でも 上がれなかったといわれ、それだけに太夫とはその教養、趣味、文化芸能に秀で 彩色兼美でなければなりませんでした。 徳子はそれらを兼ね備え14歳で2代目吉野太夫の名跡を継いでからは 「三筋町七人衆の筆頭」「天下随一稀代の太夫」といわれその名声をえました。 その稀代の名妓吉野太夫は26歳の時に吉野の豪商灰屋紹益に身受けされ 退廓しました。 その後東山に紹益と侘住まいをしましたが12年後38歳でその短い生涯を閉じた と言われております。 紹益は吉野の死を悲しみ荼毘にの骨灰を飲み干したととも言われております。 吉野太夫はこの常照寺い葬られ、そのお墓が建てられております。 4月の桜の頃に吉野太夫花供養がおこなわれ、島原の太夫さんによるお練りが 行われます。 常照寺には吉野太夫好ゆかりの茶室”遺芳庵”があります。 その遺芳庵には吉野窓といわれる大円窓が切られています。 この大円窓は円形ではなく下の部分が一部切られ直線となっております。 これは一部を欠いた円を見ることにより完成されていない自分の姿を客観的に 見つめ自身を戒めることを課して精進した太夫の心ではないかと思われます。 境内には鬼子母尊神堂があり、子授け、子育ての神様として信仰を集めています。 もともと鬼子母尊神は子供を殺して食べる悪鬼だったが、仏の教えを聞いて懺悔し 改心し、子供を守護する神様となったそうです。 ![]() 境内では誹毛氈が敷かれた茶席があり、見事に色づいた紅葉を愛でながら一服の お茶を頂くことができます。 拝観料は300円です。 |
洛中・洛外紅葉模様9
2009 / 11 / 24 ( Tue ) 洛中・洛外紅葉模様9 ”源光庵”
![]() 市バス鷹ケ峰源光庵前で下車してすぐ目の前に源光庵があります。 源光庵は正式には鷹峰山、寶樹林源光庵と称します。御本尊は釈迦牟尼仏。 貞和2年(1346年)臨済宗大徳寺第2世徹翁国師が開山、 元禄7年(1694年)には衰退していた当寺を加賀(石川県)の大乗寺27世 卍山道白(まんざんどうはく)禅師によって再興され、以後曹洞宗にあらたまった と伝えられています。 ![]() 開山堂は享保4年(1719年)の建立で、復古堂とも称し卍山禅師の木造が安置 されています。 源光庵の庭園は皐月の刈り込みと紅葉とのコントラストが非常にきれいです。 ![]() 本堂内には血天井と伝えられ、伏見桃山城の遺構で、慶長7年(1600年) 徳川家康の忠臣”鳥居彦右衛門元忠一党八百余人が、石田光成の軍勢と交戦 したが、武運拙く討死し、残る三百八十余人が自刃して相果てた時の傷痕だと 言われております。 ![]() 又本堂には悟りの窓と名付けられた丸窓、迷いの窓と名付けられた角窓があります。 悟りの窓は円形に、「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表す。 迷いの窓は角型で「人間の生涯」を象徴し、生老病苦の四苦八苦を表していると 言われます。 悟りの窓からも、迷いの窓からも、今は丁度紅葉がすばらしく映えておりますが 雑念を祓い、この自然の移り変わり、色変わりをゆっくりと眺めていると、やはり 円窓からは、穏やかな心和む景色が見えてくるようです。 ![]() 源光庵は今周囲どこを見渡しても燃え盛るような紅葉が一段と色鮮やかさを見せて います。 かっての古人はこのような四季の移ろいをゆっくり味わいながら、その日、その日の 暮らしを、自然の物を大切に食し、風流に過ごしていたのでしょうね! 源光庵は拝観料400円です。 |
洛中・洛外紅葉模様8
2009 / 11 / 23 ( Mon ) 洛中・洛外紅葉模様8 ”光悦寺”
![]() 堀川通りの銀杏並木を通りこして更に北西へ進むと洛北のなだらかな鷹ケ峰三山 (鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰)を西に望む景勝の地へと参ります。 鷹ケ峰とはかって、毎年鷹がやってきて多くの雛を生んだことからなづけられた とも言われております。 平安時代の鷹ケ峰は、朝廷の狩り場として立ち入ることのできなかった禁野で あったが、豊臣政権になって、秀吉は洛中にお土居を巡らし、城壁として都を 囲い込みました。そのため洛外は寂れていました。しかし江戸時代に入ると 人々が住み始め、集落ができるようになると、鷹ケ峰は周山街道の要路となり 洛中への出入り口「京七口」の一つ長坂口として栄えるようになったそうです。 ![]() 参道 鐘楼 その鷹ケ峰に、元和元年(1615年)本阿弥光悦は徳川家康から東西200間 南北七町の地を拝領し本阿弥一門とその家職につながる者たちを集め、 工芸集落”芸術郷”を築きました。 本阿弥光悦は本阿弥光二を父に妙秀を母に長男として生まれ、加賀前田家の 扶持二百石を父の代より受け、諸大名の御用を努め(刀剣の鑑定、砥ぎ、ぬぐい 目利き等の家職)ていた家柄であった。 光悦は世襲の家職のほかに書画、陶芸、茶の湯、蒔絵などにも目覚ましい才能 を発揮しました。 この芸術郷では、光悦始め俵屋宗達、尾形光琳、乾山などの創作活動が活発 になされ、元禄文化が開花しその素晴らしい作品が今日尚数多く残されています。 ![]() 一方光悦は熱心な法華宗の信者でもあったそうで、光悦没後日蓮宗光悦寺として 今日に至ります。境内には残された三巴亭、大虚庵、了寂軒等七つの茶室が京都 市内を見下ろす風光明媚な地に見ることができます。 ![]() 又光悦垣とも臥牛垣ともいわれる竹を斜めに編んだ垣も有名です。 この紅葉の時期は燃えたつような見事な秋の彩りをみることができます。 しかし、ここも休日ともなると沢山の観光客でゆっくり行く秋をたのしむことは なかなかむつかしいようです。 光悦寺へは市バス北大路駅から北1番、又は市バス6番の玄琢行き 鷹ケ峰源光庵前下車すぐです。 拝観料は300円です。 |
洛中・洛外紅葉模様7
2009 / 11 / 21 ( Sat ) 洛中・洛外紅葉模様7 ”赤山禅院”
洛北一乗寺の里、曼殊院をさらに北にあがると天台宗の赤山禅院があります。 ![]() 大きな鳥居をくぐって参道を上ると皇城表鬼門と書かれた本殿へと続きます。 ![]() その赤山禅院は、平安初期、天台宗の第三世座主円仁が遣唐使として入唐し、 唐より帰国する際に唐土赤山の泰山府君が船上に現れて航路を守護したので 比叡山西魔への勧請を約したといわれ、仁和4年(888年)弟子の安慧僧都が その遺命を受けて神殿を創建し、延暦寺の別院とされたと伝えられています。 御本尊は天台守護神の赤山明神(泰山府君)。 境内には神殿、拝殿、本地堂、不動堂があります。 この赤山禅院が位置する方角は京都の東北鬼門にあたるとして法除けの神としても信仰を集めています。 ![]() 赤山禅院の猿 その鬼門を封じるため赤山禅院の屋根に正面を向いた猿が祀られています。 御所の北東にも築地塀の内側に切り込みをいれ角を造らないようにしてその 切妻部分にも神猿がまつられていて、赤山禅院の猿が御所の猿に向かって 魔物の動きを報告しているとも言われています。 もともと猿を山の神の使いだとする信仰は平安京以前からあったらしく、比叡山 には大山咋神を地神とする日吉社があり、都の鬼門を護る延暦寺が創建されると 同時にその鎮守神となったともいわれていて魔を祓い去る(猿)といわれている ようです。 ![]() 御所の猿 猿に網がかけられているのは、猿が夜中に屋根から飛び出して暴れまわり その鳴き声が天皇の耳にとまったため、金網をかけたところ、それ以来 猿が暴れまわる声が止んだそうです。 又赤山禅院は商売繁盛の神ともいわれ「五日詣れば掛金の取りはぐれなし」 として信仰されています。 ![]() 丁度今紅葉真っ盛りで鳥居から参道に続く両側は見事に色づいて、古都の 秋の深まりを感じさせてくれます。 赤山禅院へは叡山電鉄修学院駅から徒歩20分、市バス、京都バス修学院 離宮道から徒歩20分です。 |
洛中・洛外紅葉模様6
2009 / 11 / 17 ( Tue ) 洛中・洛外紅葉模様6 ”曼殊院門跡”
![]() 京都は左京区一乗寺の里に名跡 ”曼殊院門跡”があります。 御本尊は阿弥陀如来。 ![]() 延暦年間に天台宗宗祖の最長が比叡山に鎮護国家の道場として建立されたのが 始まりとされています。 天台宗の五箇室門跡の内の一つで、もともと比叡山西塔北谷にあって東尾坊 (とうびぼう)と称しました。 天仁年間(1108〜9平安後期)学僧,忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊 を改めて曼殊院と称されたようです。 現在地に移ったのは明暦2年(1656年)で桂宮智仁親王の次男(御水尾天皇猶子) 良尚法親王の時であると言われております。 文明年間(1469〜87年)に慈運(伏見宮貞常法親王の子)が入寺して以後、 門跡寺院となりました。 良尚親王は当院を修学院離宮に近いこの地に移し、庭園・建築ともに親王の識見 創意によるところが多く、江戸時代初期の代表建築であるその様式は桂離宮と の関連が深いと言われております。 茶室八窓軒は三畳台目の席で古田織部や小堀遠州の好みを取り入れ多数の窓 による光の演出が見事になされているといわれます。 国宝には黄不動明王像、古今和歌集曼殊院本があります。 又重要文化財には庫裏、虎の間、大書院、小書院があり庭園は名勝庭園に指定 されています。 富士の間には狩野探幽筆の襖絵、松花堂昭乗筆の額などが見られます。 ![]() 小書院の縁先に置かれている手水鉢は有名な”梟の手水鉢”と呼ばれています。 ![]() 丁度紅葉が見事に色鮮やかさを増し、樹齢400年といわれる五葉の松との コントラストもよく、庭園はもとよりそれぞれの間に狩野探幽や永徳の画が みられます。 又丸山応挙の幽霊図が架けられていました。注意書きとして、撮影禁止・・写真を撮ると その人に何かのさわりがありますからご注意ください。と書かれていました。 なんだか恐ろしくてそそくさと前を通りすぎました。 このような曼殊院門跡は非常に趣深く、ゆっくりと時間をかけ建築・美術・庭園 と拝見したいものです。 拝観料600円です。 曼殊院へは叡山電鉄修学院駅下車徒歩20分、 市バス 地下鉄北大路駅から市バス北8で一乗寺清水町下車徒歩20分です。 |



































