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洛中・洛外紅葉模様11
2009 / 11 / 26 ( Thu )
洛中・洛外紅葉模様11 ”黒谷 金戒光明寺”

京の洛中、東天王町の北に京では ”黒谷”さんとして親しまれている”金戒光明寺”があります。

門

山号は紫雲山 ご本尊は阿弥陀如来。浄土宗の京都四ケ本山の一つ。

承安5年(1175年)法然上人(当時43歳)が比叡山の修行を終えて、この地で念仏を
された時に紫雲が全山にたなびき、光明が辺りをてらしたことからこの地にあった
比叡山の白河禅房を師の叡空上人から譲られ浄土宗最初の念仏道場を開いたことに
始まるとされています。
法然上人没後に紫雲山光明寺となり、さらに後光厳天皇から「金戒」の文字が
与えられ、現在の ”金戒光明寺”となったようです。

伽藍は応仁の乱以後度々焼失したがその都度再興されました。
三重の塔は寛永10年(1633年)徳川秀忠を弔うために建立されたもので、重要文化財
に指定されています。

金戒光明寺には重要文化財として「山越阿弥陀図」「地獄極楽図」
木造の千手観音立像等や塔頭には茶室「淀看席」があります。

又この金戒光明寺は文久2年(1862年)徳川幕府が京都に治安維持のため京都守護職
を置き、会津藩主松平容保(かたもり)が家臣1000名をひきつれここに本陣を
おいたことでも知られております。


山門 鎧かけの松
山門                         鎧かけの松

山門は万延元年(1860年)に建立されたもので、楼内には釈迦三尊像、十六羅漢像
天井には幡龍図が描かれています。お天気のいい日にはここから大阪の淀川まで
一望できるとまでいわれております。楼上正面には後小松天皇の宸翰「浄土真宗
最初門」の勅額がかけられています。

境内にある立派な鎧掛けの松は平安時代末期から鎌倉時代の戦国武将
熊谷次郎直実が出家するにあたり、鎧を洗ってこの松にかけたと言われる松で
現在の松はその2代目にあたるそうです。

本殿

御影堂(大殿)は昭和19年に再建されたもので、円光大師25霊場第24番の
霊場となっています。

庭園 庭園2

         庭園4

書院前には枯山水 紫雲の庭 が法然上人の生涯を通した浄土宗の広がりを
表した庭園が、又書院横には紅葉がすばらしい庭園が見事に色づいています。
一歩庭園の中に入ると静寂で鳥のさえずりが聞こえ、爽やかな空気の流れを感じます。

茶室 茶室花峯庵
茶室 紫雲亭                       花峯庵                     


 夕暮れ

秋の夕は ”つるべ落とし”日が西に落ちかけ人恋しくなるそんな景色も味わう
ことができました。

金戒光明寺へは京都駅から市バス5、100番で東天王町下車徒歩10分
京阪三条駅から市バス203番東天王町下車10分です。
18 : 50 : 46 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
洛中・洛外紅葉模様10
2009 / 11 / 25 ( Wed )
洛中・洛外紅葉模様10 ”常照寺”

鷹ケ峰源光庵からすぐのところに吉野太夫ゆかりの日蓮宗の常照寺があります。
正式には寂光寺常照寺で御本尊は十界大曼荼羅。元和2年(1616年)に
本阿弥光悦が土地を寄進、その子光瑳の発願によって日蓮宗の中興の祖
寂照院日乾(にちけん)上人を招いて開創されました。

もともとは鷹峰壇林(僧侶の修行道場)として設立され、その名も学問所を示す
常照講寺と呼ばれておりました。
非常に戒律の厳しい僧風教育が行われていましたが、明治初期の教育改革により
廃止され、以後常照寺として今日に至ります。

       吉野門大

常照寺の山門(赤門)は吉野太夫が日乾上人の学徳に帰依し、寛永5年に自ら巨額
を投じて寄進した門で吉野大門と言われております。

帯塚

三門をくぐると、帯塚があります。
昭和44年に吉野川の自然石で重さ6トンの帯状をした帯塚が建立されました。
女性の心の象徴 ”帯”に感謝して毎年5月に帯供養や時代風俗行列が行われます

吉野窓2  吉野窓
茶室遺芳庵                    吉野窓

吉野太夫とは天正から延宝年間(1589年~1680年)に10人おられたそうです
そのうちで今日名を残した吉野太夫とは2代目吉野太夫(本名松田徳子)のことで、
慶長11年(1606年)洛東に西国の武士松田武右衛門の子供として生をうけました。
父は故あって流浪の身で徳子は六条三筋町の遊里に預けられました。
当時六条三筋町は高級社交場で太夫はその主として絶大な勢力を持っていました。
「仮視の式」の宴席には太夫の許しがなければたとえ皇族、公家などの高位の方でも
上がれなかったといわれ、それだけに太夫とはその教養、趣味、文化芸能に秀で
彩色兼美でなければなりませんでした。
徳子はそれらを兼ね備え14歳で2代目吉野太夫の名跡を継いでからは
「三筋町七人衆の筆頭」「天下随一稀代の太夫」といわれその名声をえました。

その稀代の名妓吉野太夫は26歳の時に吉野の豪商灰屋紹益に身受けされ
退廓しました。
その後東山に紹益と侘住まいをしましたが12年後38歳でその短い生涯を閉じた
と言われております。
紹益は吉野の死を悲しみ荼毘にの骨灰を飲み干したととも言われております。
吉野太夫はこの常照寺い葬られ、そのお墓が建てられております。
4月の桜の頃に吉野太夫花供養がおこなわれ、島原の太夫さんによるお練りが
行われます。

常照寺には吉野太夫好ゆかりの茶室”遺芳庵”があります。
その遺芳庵には吉野窓といわれる大円窓が切られています。
この大円窓は円形ではなく下の部分が一部切られ直線となっております。
これは一部を欠いた円を見ることにより完成されていない自分の姿を客観的に
見つめ自身を戒めることを課して精進した太夫の心ではないかと思われます。

鬼子母尊神 

境内には鬼子母尊神堂があり、子授け、子育ての神様として信仰を集めています。
もともと鬼子母尊神は子供を殺して食べる悪鬼だったが、仏の教えを聞いて懺悔し
改心し、子供を守護する神様となったそうです。

茶席

境内では誹毛氈が敷かれた茶席があり、見事に色づいた紅葉を愛でながら一服の
お茶を頂くことができます。

拝観料は300円です。
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洛中・洛外紅葉模様9
2009 / 11 / 24 ( Tue )
洛中・洛外紅葉模様9 ”源光庵”

門

市バス鷹ケ峰源光庵前で下車してすぐ目の前に源光庵があります。

源光庵は正式には鷹峰山、寶樹林源光庵と称します。御本尊は釈迦牟尼仏。
貞和2年(1346年)臨済宗大徳寺第2世徹翁国師が開山、
元禄7年(1694年)には衰退していた当寺を加賀(石川県)の大乗寺27世
卍山道白(まんざんどうはく)禅師によって再興され、以後曹洞宗にあらたまった
と伝えられています。

障子 庭園

開山堂は享保4年(1719年)の建立で、復古堂とも称し卍山禅師の木造が安置
されています。

源光庵の庭園は皐月の刈り込みと紅葉とのコントラストが非常にきれいです。

血天井 手型

本堂内には血天井と伝えられ、伏見桃山城の遺構で、慶長7年(1600年)
徳川家康の忠臣”鳥居彦右衛門元忠一党八百余人が、石田光成の軍勢と交戦
したが、武運拙く討死し、残る三百八十余人が自刃して相果てた時の傷痕だと
言われております。

悟りの窓   迷いの窓

本堂には悟りの窓と名付けられた丸窓、迷いの窓と名付けられた角窓があります。
悟りの窓は円形に、「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表す。

迷いの窓は角型で「人間の生涯」を象徴し、生老病苦の四苦八苦を表していると
言われます。

悟りの窓からも、迷いの窓からも、今は丁度紅葉がすばらしく映えておりますが
雑念を祓い、この自然の移り変わり、色変わりをゆっくりと眺めていると、やはり
円窓からは、穏やかな心和む景色が見えてくるようです。

          南庭

源光庵は今周囲どこを見渡しても燃え盛るような紅葉が一段と色鮮やかさを見せて
います。

かっての古人はこのような四季の移ろいをゆっくり味わいながら、その日、その日の
暮らしを、自然の物を大切に食し、風流に過ごしていたのでしょうね!

源光庵は拝観料400円です。
17 : 38 : 46 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
洛中・洛外紅葉模様8
2009 / 11 / 23 ( Mon )
洛中・洛外紅葉模様8 ”光悦寺”

堀川通銀杏

堀川通りの銀杏並木を通りこして更に北西へ進むと洛北のなだらかな鷹ケ峰三山
(鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰)を西に望む景勝の地へと参ります。

鷹ケ峰とはかって、毎年鷹がやってきて多くの雛を生んだことからなづけられた
とも言われております。

平安時代の鷹ケ峰は、朝廷の狩り場として立ち入ることのできなかった禁野で
あったが、豊臣政権になって、秀吉は洛中にお土居を巡らし、城壁として都を
囲い込みました。そのため洛外は寂れていました。しかし江戸時代に入ると
人々が住み始め、集落ができるようになると、鷹ケ峰は周山街道の要路となり
洛中への出入り口「京七口」の一つ長坂口として栄えるようになったそうです。

参道 鐘楼
参道                      鐘楼

その鷹ケ峰に、元和元年(1615年)本阿弥光悦は徳川家康から東西200間
南北七町の地を拝領し本阿弥一門とその家職につながる者たちを集め、
工芸集落”芸術郷”を築きました。

本阿弥光悦は本阿弥光二を父に妙秀を母に長男として生まれ、加賀前田家の
扶持二百石を父の代より受け、諸大名の御用を努め(刀剣の鑑定、砥ぎ、ぬぐい
目利き等の家職)ていた家柄であった。
光悦は世襲の家職のほかに書画、陶芸、茶の湯、蒔絵などにも目覚ましい才能
を発揮しました。

この芸術郷では、光悦始め俵屋宗達、尾形光琳、乾山などの創作活動が活発
になされ、元禄文化が開花しその素晴らしい作品が今日尚数多く残されています。

茶室 大虚庵

一方光悦は熱心な法華宗の信者でもあったそうで、光悦没後日蓮宗光悦寺として
今日に至ります。境内には残された三巴亭、大虚庵、了寂軒等七つの茶室が京都
市内を見下ろす風光明媚な地に見ることができます。

光悦寺垣2

光悦垣とも臥牛垣ともいわれる竹を斜めに編んだ垣も有名です。

この紅葉の時期は燃えたつような見事な秋の彩りをみることができます。
しかし、ここも休日ともなると沢山の観光客でゆっくり行く秋をたのしむことは
なかなかむつかしいようです。

光悦寺へは市バス北大路駅から北1番、又は市バス6番の玄琢行き
鷹ケ峰源光庵前下車すぐです。 拝観料は300円です。
19 : 33 : 11 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
洛中・洛外紅葉模様7
2009 / 11 / 21 ( Sat )
洛中・洛外紅葉模様7 ”赤山禅院”

洛北一乗寺の里、曼殊院をさらに北にあがると天台宗の赤山禅院があります。

鳥居

大きな鳥居をくぐって参道を上ると皇城表鬼門と書かれた本殿へと続きます。

表鬼門 本殿

その赤山禅院は、平安初期、天台宗の第三世座主円仁が遣唐使として入唐し、
唐より帰国する際に唐土赤山の泰山府君が船上に現れて航路を守護したので
比叡山西魔への勧請を約したといわれ、仁和4年(888年)弟子の安慧僧都が
その遺命を受けて神殿を創建し、延暦寺の別院とされたと伝えられています。

御本尊は天台守護神の赤山明神(泰山府君)。
境内には神殿、拝殿、本地堂、不動堂があります。
この赤山禅院が位置する方角は京都の東北鬼門にあたるとして法除けの神としても信仰を集めています。

猿
赤山禅院の猿

その鬼門を封じるため赤山禅院の屋根に正面を向いた猿が祀られています。
御所の北東にも築地塀の内側に切り込みをいれ角を造らないようにしてその
切妻部分にも神猿がまつられていて、赤山禅院の猿が御所の猿に向かって
魔物の動きを報告しているとも言われています

 
もともと猿を山の神の使いだとする信仰は平安京以前からあったらしく、比叡山
には大山咋神を地神とする日吉社があり、都の鬼門を護る延暦寺が創建されると
同時にその鎮守神となったともいわれていて魔を祓い去る(猿)といわれている
ようです。

御所の猿4
御所の猿

猿に網がかけられているのは、猿が夜中に屋根から飛び出して暴れまわり
その鳴き声が天皇の耳にとまったため、金網をかけたところ、それ以来
猿が暴れまわる声が止んだそうです。

又赤山禅院は商売繁盛の神ともいわれ「五日詣れば掛金の取りはぐれなし」
として信仰されています。

紅葉

丁度今紅葉真っ盛りで鳥居から参道に続く両側は見事に色づいて、古都の
秋の深まりを感じさせてくれます。

赤山禅院へは叡山電鉄修学院駅から徒歩20分、市バス、京都バス修学院
離宮道から徒歩20分です。
21 : 17 : 06 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
洛中・洛外紅葉模様6
2009 / 11 / 17 ( Tue )
洛中・洛外紅葉模様6 ”曼殊院門跡”


         標識

京都は左京区一乗寺の里に名跡 ”曼殊院門跡”があります。
御本尊は阿弥陀如来。

表門 入り口

延暦年間に天台宗宗祖の最長が比叡山に鎮護国家の道場として建立されたのが
始まりとされています。

天台宗の五箇室門跡の内の一つで、もともと比叡山西塔北谷にあって東尾坊
(とうびぼう)
と称しました。

天仁年間(1108~9平安後期)学僧,忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊
を改めて曼殊院と称されたようです。


現在地に移ったのは明暦2年(1656年)で桂宮智仁親王の次男(御水尾天皇猶子)
良尚法親王の時であると言われております。
文明年間(1469~87年)に慈運(伏見宮貞常法親王の子)が入寺して以後、
門跡寺院となりました。

良尚親王は当院を修学院離宮に近いこの地に移し、庭園・建築ともに親王の識見
創意によるところが多く、江戸時代初期の代表建築であるその様式は桂離宮と
の関連が深いと言われております。

茶室八窓軒は三畳台目の席で古田織部や小堀遠州の好みを取り入れ多数の窓
による光の演出が見事になされているといわれます。

国宝には黄不動明王像、古今和歌集曼殊院本があります。
重要文化財には庫裏、虎の間、大書院、小書院があり庭園は名勝庭園に指定
されています。

富士の間 

富士の間には狩野探幽筆の襖絵、松花堂昭乗筆の額などが見られます。

梟の蹲

小書院の縁先に置かれている手水鉢は有名な”梟の手水鉢”と呼ばれています。

紅葉 

                 紅葉2

丁度紅葉が見事に色鮮やかさを増し、樹齢400年といわれる五葉の松との
コントラストもよく、庭園はもとよりそれぞれの間に狩野探幽や永徳の画が
みられます。

又丸山応挙の幽霊図が架けられていました。注意書きとして、撮影禁止・・写真を撮ると
その人に何かのさわりがありますからご注意ください。と書かれていました。
なんだか恐ろしくてそそくさと前を通りすぎました。

このような曼殊院門跡は非常に趣深く、ゆっくりと時間をかけ建築・美術・庭園
と拝見したいものです。
拝観料600円です。

曼殊院へは叡山電鉄修学院駅下車徒歩20分、
市バス 地下鉄北大路駅から市バス北8で一乗寺清水町下車徒歩20分です。
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木津川の流れ橋
2009 / 11 / 15 ( Sun )
木津川の”流れ橋(上津屋橋)”

木津 流れ橋


京都の城陽市と八幡市に流れる木津川に通称流れ橋(上津屋橋)が昭和28年(1953年)
3月に架けられました。

全長356.5mの日本では最長級の木造橋です。

流れ橋はもともと川幅の狭いところに板を渡し、その板が流れてしまわないように
紐などで結んでおいたのが原型だと考えられているそうです。
自然の飛び石を利用したり、川幅に合わせて造った橋脚に板を渡したものが
橋に発展していきました。

流れ橋


この木津川に架かる橋の構造は、台風や梅雨時の豪雨のために水位が上がると
橋脚に連結された上部工が8分割して流れるという仕組みに造られているようです。
橋板が容易に流れることによって流木やゴミ等の漂流物が橋に引っ掛かかり
堤防が決壊するなどの被害を未然に防ぐことができ、橋板を紐で連結しておく
ことによって水が引いたときに復旧し易くなるというものだそうです。
それもただ流れるというのではなく8分割にしてワイヤーロープで繋留橋脚にがっちり
とつなぎとめられていて、洪水時には筏流しのように見え、洪水が去るとロープで
つなぎとめられていた上部工を又敷き並べ復旧するという誠に不思議な橋です。

昭和28年に架けれれてから56年間に17回ながされました。
最近では今年になってながされ、現在は8分割になったままで橋は橋脚だけに
なっています。 次の洪水が来たときに水の力を利用して掛けなおされるのだ
そうです。

市民からは上津屋橋と呼ばずに通称「流れ橋」と呼び教科書には「名橋」として
紹介されたり、今でも城陽市と八幡市を結ぶ自転車歩行専用道路として多くの
市民に利用されています。

又白砂と清流によく調和し、のどかな趣は時代劇の撮影にもしばしば
使われております。

いかに経費を掛けずに洪水による被害の少ない橋を架けるか、自然条件の
中で、自然と逆らわず共存していこうとする生活の知恵が生み出した橋といえます。


折しも今民主党が各省庁の事業について仕分けの作業がなされ、
税金の使い道が少しは明らかになるかとも思われる中で、この橋が架けられた
素晴らしい理念をもっと広く知って頂ければと願うものです。
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洛中・洛外紅葉模様5
2009 / 11 / 13 ( Fri )
洛中・洛外紅葉模様5 酬恩庵 一休寺

門

京都より奈良に至る大和街道と名古屋より大阪に通じる大道の交差する京田辺市
の薪(たきぎ)に一休禅師ゆかりの酬恩庵一休寺があります。

元々の名は妙勝寺といわれ臨済宗の高僧大応国師(南浦紹明)が、中国の唐時代
に彼地において虚堂(きどう)和尚について修行し、帰朝後禅の道場をここに創建
したのが始まりといわれております。

その後元弘の戦いで荒廃していたのを、6代目の法孫に当たる一休が復興を志し遂に63歳の時康正2年(1465年)この寺を竣工し、酬恩庵となづけられました。
が今では一休寺と通称で広く知られております。

一休禅師はこの一休寺をとても愛され、長く住まわれ、他所(大徳寺等)へ巡錫
されるにもここを本拠として88歳まで示寂されたそうです。

総門は京都府指定の文化財となっております。

参道
 
参道から唐門を抜けるまで、燃えるような紅葉が見事に色づいています。

開山堂

開山堂は大正初年に改築されたが様式は昔のままで内部には大応国師
の木像が安置されているそうです。
一休和尚が妙勝寺を再建された時に安置されたものといわれております。

一休禅師 句碑

一休禅師像と一休禅師の碑「諸悪莫作 衆善奉行」と書かれています。
悪いことはするな、善いことをせよという意味で、実行が伴わないと何の価値
もないという戒めだそうです。


方丈は慶安3年(1650年)に前田利常によって改築され、狩野探幽や狩野守信
の襖絵が見られます。

書院庭 蘇鉄

方丈の庭は北・南・東の三面にまたがってそれぞれが独立しつつ関連づけられた
南庭園は江戸初期の造庭で禅苑庭園といわれ蘇鉄は極楽鳥を表していると
いわれます。

東庭 北庭
東庭                         北庭

東庭園は十六羅漢をなぞられた庭園と言われております。

北庭園は禅院枯山水としての蓬莱庭園といわれ石川丈山、松花堂昭乗
佐川田喜六の合作と言われております。

又この一休寺は、一休寺納豆としてもよく知られております。
今もご住職が夏の熱い日に納豆の豆を天日に当て何度も何度もかき混ぜ発酵させ
て作っておられます。

一休寺へは近鉄新田辺下車約1・5k JR京田辺下車 バスで一休寺道下車約500m
のところにあります。

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洛中・洛外紅葉模様4
2009 / 11 / 12 ( Thu )
洛中・洛外紅葉模様4 ”瑠璃光院”

八背比叡山口 八背比叡山口2

洛北八瀬比叡山口から紅葉の始まった風光明媚な高野川に沿って5分ほど行くと
明治時代の公卿三条実美ゆかりの瑠璃光院があります。

門

今は浄土真宗の本願寺派に属し、無量寿山 光明寺 京都本坊で御本尊は
阿弥陀様

明治の元勲三条実美は太政大臣となり明治政府の最高官として活躍した
公卿がこの地に茶庵「喜鶴亭」と名付けて庵を建てられたのが始まりで
大正時代から昭和の初めにかけて12000坪もある広大なこの地に数寄屋造
りでは第一人者で名声の高い中村外二棟梁によって自然を借景とした数寄屋
造りに大改築されました。
以来、文化財の保護も兼ねて年2回春と秋に公開されています。

元々八瀬の地は古来「矢背」「癒背」とも記されれるように
天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子が背中に傷を負い当地の
釜風呂で癒されたと伝わり平安時代の昔から貴族や武士からこの地は
保養地として愛されてきたと伝えられます。

かま風呂 かま風呂2

その傷を癒されたかま風呂がこの瑠璃光院の中に再現されています。
当時は半円形の釜の中に10数時間青松葉や槇などを燃やし、内部の土が
充分熱せられた頃合いを見計らって火を引き,煤や燃えカスを取り除いて
そこに蓆をひき寝ころんで温まるというものであったようです。

書院2階 書院2階2

書院2階からは一面燃えるような紅葉が色づいてはっと息をのむようです。
後1週間もすればその光景がみられると思われます。

      瑠璃の庭

瑠璃の庭は30数種類の苔に50数種類の楓や紅葉が錦秋の模様を見せて
くれます。
一面苔に覆われた主庭は深い山道をさまよっているとふと一条の空間に出て
小川のせせらぎに出会う浄土の悟りの世界へと誘うと言われる庭です。

臥竜の庭2 臥竜の庭


茶室喜鶴亭 灯篭
茶室「喜鶴亭」                  室町時代の燈籠

臥龍(がりょう)の庭は今にも天にも昇ろうとする龍が瑠璃光院をとりまいて
守っている風が表してある池泉庭園で、佇む人の心を解放し昇運の兆しを
もたらすと言われます。

花鳥図   草花図
江戸期の絵師 青々其一の花鳥図      室町時代の草花図

書院を飾る屏風は室町時代の草花図、富岡鉄斎の山岳風景図などを
拝見することができます。

後1週間ほどすれば紅葉も一段と色鮮やかさを増して素晴らしい瑠璃光院が
みられます。

瑠璃光院へは叡山電鉄 八瀬比叡山口下車5分余りです。
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洛中・洛外紅葉模様3
2009 / 11 / 11 ( Wed )
洛中・洛外紅葉模様3 ”金福寺(こんぷくじ)”

表門 芭蕉庵

洛北一乗寺下がり松から約10分足らずのところに古刹”金福寺”があります。
臨済宗南禅寺派で山号を佛日山、御本尊は聖観世音菩薩。

貞観6年(864年)安恵(あんね)僧都が慈覚大師・円仁の遺志によって創建し、
大師自作の観音像を本尊として安置したといわれております。
もとは天台宗に帰依していたが、後に荒廃し、江戸中期に圓光寺の沢雲長老
の法嗣鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派になり今日にいたっているそうです。

芭蕉庵1 蕪村句碑

この金福寺は芭蕉や蕪村ともゆかりのある寺として有名であります。

芭蕉の句碑 芭蕉庵より西山

蕪村の墓

 元禄の昔芭蕉は山城(京都)の東西を吟行していたころ、当寺の鉄舟和尚を
訪れ,風雅の道を語りあい親交を深めていた。
その後無名であったこの庵を「芭蕉庵」と名付け、芭蕉の高風をいつまでも偲んで
おられた。
後になって(85年ほどして)この庵を蕪村が訪ねてきたときには荒廃していたが
村人たちは「芭蕉庵」と呼び親しんでいた。
蕪村は荒廃を惜しみ安永5年に再興し、天明元年俳文『洛東芭蕉庵再興記』
にしたため当寺に納めたとされています。
金福寺には今もその芭蕉庵が保存され蕪村の墓も守られております。

村上たか女創建の弁天堂


又この金福寺は舟橋誠一の歴史小説『花の生涯』に登場する村上たか女
縁の寺としても知られております。

井伊直弼の愛人であった村上たか女は幕府の隠密となり攘夷論者達の動向を
検索し、その情報を幕府に密報することで「安政の大獄」に加担した。
そのためにたか女は勤王方から大変恨まれ、井伊大老が暗殺されると、たか女は
勤皇の志士に捕らえられ、京都三条の河原で生晒しにされ3日後に助けられ、
文久2年尼僧となり金福寺に入り14年間の余生を送り明治9年67歳で波乱の生涯
を閉じたそうです。
金福寺にはたか女が建立した弁天堂やたか女の位牌、筆跡、遺品などが残され
ています。

その他ににも蕪村の「江戸清遊の図」、「奥の細道画巻」等重文の複製等も拝見する
ことが出来ます。

丁度紅葉が真っ赤に色づき、穏やかな洛北の里にあまり多くは知られていない
趣深い、とてもきれいにされているこの金福寺は是非一度は訪れたい素晴らしい
古刹です。

金福寺へは京都駅から市バス5一乗字下り松町下車徒歩10分弱です。
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洛中・洛外紅葉模様2
2009 / 11 / 09 ( Mon )
洛中・洛外紅葉模様2 わら天神宮

わら天神宮 天神

北区の衣笠山の近にわら天神宮があります。正式には敷地神社
ご祭神は木華咲耶姫尊(このはなさくやひめみこ)
天長8年(831年)この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀の国より移住して
この地に菅生石部神の分霊を祀り、祭神を菅生石部神の母である木華咲耶姫尊
と定められた。
応永4年(1397年)足利三代将軍義満が北山殿を山荘として造営するに、参拝に
不便となるため現在地に移転して600年余りの歳月を迎えるそうです。

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こちらのわら天神宮は特に安産のご利益で有名で毎月9日の戌の日には
お腹の大きい御母さんが大勢お参りされます。

安産のお守りや腹帯の授与もなされます。
安産のお守りの本体は稲で藁に節があれば男児・節がなければ女児と

古くから珍しい信仰が人々の人気を集めているそうです。

又摂社に六勝稲荷神社があり、試験合格、司法試験、税理士試験、公認会計士等
の試験にも御利益があり、受験シーズンには多くの参拝で賑わいます。


うぶ餅 うぶ餅2

又毎月の戌の日には境内にわら天神宮名物の「うぶ餅」を茶店で戴く事が
できます。
安産御祈祷の甘酒を配した「うぶ餅」は柔らかくきな粉がたっぷりかけられて
いて餡子入りで、京都のブランドにふさわしいお菓子として「京ブランド食品」
選定されているそうです。
お菓子を作っておられる笹屋守栄さんは西大路をはさんで向かい側にお店を
出しておられます。 「うぶ餅」は1個120円でした。

おりしも今日はその9日戌の日でお参りも多くうぶ餅も戴くことができました。

わら天神宮へは市バス50、205、101、204号 わら天神宮前下車すぐです。
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洛中・洛外紅葉模様 1
2009 / 11 / 09 ( Mon )
洛中・洛外紅葉模様1 等持院

等持院 方丈

衣笠山の麓、嵐電等持院駅から北へ行くとほどなく等持院が見えてきます。
暦応4年(1341年)に足利尊氏将軍が夢窓国師を開山として建立された臨済宗
禅刹といわれております。

       方丈前庭
       大方丈前庭

元は中京区高倉辺りに等持寺があったが、尊氏は興国2年(暦応4年)天皇のご冥福
を祈ると共に長い戦乱の間に陣没した将氏の追善のために寺院を興し、衣笠山麓に
等持寺別院の北等持寺を創立。延文3年(1358年)尊氏没後その塔所を北等持寺と
定められ、尊氏の法名から北等持寺も寺号を等持院と改められたそうです。

足利尊氏公の墓 歴代足利遺髪塔
足利尊氏公の御墓                 歴代足利将軍遺髪塔


境内には足利尊氏公の墓や歴代足利将軍の遺髪塔なども見られます。

又霊光殿には尊氏が日頃念持仏として信仰された地蔵尊(伝弘法大師作)が
御本尊としておまつりされています。 
御本尊のそばには歴代足利将軍像や徳川家康の木像が安置されています。
特にこの徳川家康像は42歳の厄除けの霊験をうけたものとして御利益があると
信仰されているようです。

池の紅葉 心字池の紅葉

庭園は夢窓国師作と伝えられ、清連池は心の一字をかたどったように見えて
心字池と名付けられたそうです。

茶室清連亭 司馬温公型手水鉢
茶室「清連亭」                 司馬温公型手水鉢

茶室清連亭は武家床の貴人席、二畳台目の席で非常に珍しいとされています。
入り口の手水鉢は司馬温公型と呼ばれている自然石でできたものだそうです。
かっては足利義政公の時代、茶道の村田珠光や相阿弥らがこの茶席で茶禅一境
を味わったことでしょう。

等持院灯篭 池の紅葉2
等持院型燈籠              心字池の紅葉

茶室の前に建てられてるこの燈籠は等持院型燈籠と呼ばれているものです。

丁度庭園の紅葉が色づき始め、紅葉のトンネルをくぐって心字池に映る紅葉の景色も
又趣深く、国師が仏菩薩が逍遥せられる所として構想築造された逍遥式庭園として
厳粛に味わうことができる素晴らしい庭園です。

等持院へは北野白梅町から嵐電等持院下車徒歩10分、京都駅から市バス50番
立命館大学前(正門)下車徒歩10分のところにあります。
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国民文化祭・京都2011
2009 / 11 / 03 ( Tue )
第26回国民文化祭・京都2011

国民文化祭が京都で2011年に京都府下から全ての地を会場として
開催されることになっています。

この国民文化祭は1986年(昭和61年)に東京で初めて開催されてより
毎年各都道府県が持ち回りで開催されているそうです。

国内外で様々な文化活動をしている方々が集い、披露し、交流する国内最大の
文化イベントで顧客、発表、出演者、ボランティア或いは企画運営など誰でもが
様々な形で参加できるというものです。

     大正琴


その2年前プレイベントとして「京都・ふるさと文化スクエア2009」が今日3日
京都駅ビル駅前広場で開催されました。

生憎の寒波に見舞われとても寒い一日でしたが、出演者はみな元気一杯で
熱気にあふれていました。

まゆまろ 舞鶴キャラクター

この文化祭のイメージキャラクター「まゆまろ」や御当地キャラクターも出て
子供たちも大喜びで握手を交わしていました。

福知山踊り キッズチアダンス

ステージでは大正琴の演奏や、福知山音頭、キッズチヤガールなどが楽しい
パフォーマンスを見せてくれ、大勢の人だかりとなりました。

京都市地域PR 丹後PR



又御当地のブースでは丹後は振袖姿で丹後の織物の案内や、京都市では
祇園祭りを楽茶碗にそめつけた37個の抹茶茶碗の展示もなされて、それぞれの
御当地をアッピールしていました。

これから2011年へ向けていろいろな地でいろいろな催しをしながら本番へと
盛り上げていくことになりそうです。 楽しみです。
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青蓮院
2009 / 11 / 02 ( Mon )
国宝 ” 青不動 ” の御開帳

青不動

京都の東山、粟田口に天台宗の三門跡の一つ”青蓮院”があります。
別名粟田御所ともいわれております。
その青蓮院で1144年の創建以来初めて国宝の「青不動明王二童子像」が御開帳
(9月18日~12月20日)されています。

絹本の2m四方の大画像で右手には魔を退散させ人々の煩悩を断ち切る三鈷の剣、
左手には煩悩から抜け出せない人々を救いあげるための縄を持ち、右目は天を、
左目は地を睨み(天地眼)、牙も上下に伸び、背後の火焔からは火の鳥がみられる
という。
右側には矜迦羅童子(こんがらどうじ)、左には制叱迦童子(せいたかどうじ)
が描かれています。

ほの暗い本堂の奥に掛けられたこの青不動はまさに宇宙のすべてをつかさどる
大日如来の使者らしく、威圧感があり、神々しさと迫力を感じます。

青蓮院の青不動は、曼殊院の黄不動、高野山の赤不動とともに三不動と呼ばれ
ています。
曼殊院の黄不動は10月3日~12日まで御開帳されていましたが今後15年間は
御開帳されないそうです。

青、黄、赤、白、黒の五色の中で特に青は方位に配せられれば中央、五大に
配せられれば三昧耶形である五輪塔婆の頂上の宝殊形となり青不動は不動明王
の中の不動明王といわれる地位も持つといわれているそうです。

平安中期に絵仏師によって国家の安泰や皇室の安寧を祈願し精魂こめて描かれた
青不動は、当初は朝廷の中でおまつりし、皇室の方々に信仰されていましたが、
平安末期に皇室と縁の深かった青蓮院に下賜されたと伝えられているそうです。

初めての御開帳で参拝者には希望により願いを書いた御札の回向をして頂ける
ようです。

庭 庭2

     屋敷

紅葉も少しづつはじまりました。

青蓮院へは市バス5,27番神宮道下車徒歩3分、京阪東山駅下車徒歩5分
今は夜間ライトアップをされていて午後5時で入れ替えがあります。
17 : 10 : 58 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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