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梅花祭 北野天満宮
2010 / 02 / 25 ( Thu ) 梅花祭 (北野天満宮)
2月25日は菅原道真公が延喜3年(903年)に薨去された祥月命日にあたります。 ここ北野天満宮では毎年この2月25日を梅花祭と定め「梅花御供」が営まれます。 今年はポカポカ陽気に誘われ、重いコートを脱ぎ捨て軽やかに、気持ちも浮き立 沢山の参拝者で賑わいました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この梅花祭は、天仁2年(1109年)鳥羽天皇のころに祭典が行われたという記述 が残っているようで、900年からの歴史ある祭典だそうです。 もともとは「菜種御供」といわれご祭神を宥めるため菜種の花をお供えして行わ れていたようですが、明治以降菜種に変わり丁度梅の咲く頃合いから梅をお供え して行われるようになり、「梅花御供」と呼ばれるようになったようです。 当日祭典にお出ましになる神職の方々は冠に菜種の花をさして出仕されます。 祭典は10時からまず祓所で神官の方がお祓いをされてから本殿で行われます。 御祭神へのお供えは四斗のお米を蒸して大小2個の台に盛りつけたもの (大飯(おおばん)、小飯(こばん)という)と男女の厄年の数だけ 白梅42本,紅梅33本を玄米を入れた器の上に立てた「紙立(こうだて、 香立とも書く)をお供えして行われるようです。 この玄米は祭典の後厄除け玄米として100円で提供されています。 ![]() また、豊臣秀吉が境内で北野大茶会を催したことから当日は上七軒の綺麗どころ (芸妓・舞妓)さんによる野点が10時から午後3時まで行われました。 ![]() 境内は春風に誘われとにかく大勢の参拝で本殿のお参りから野点、摂社のお参り とどこも長い行列で咲きかけた梅の花もびっくりしながら愛らしい花びらを ほころばせておりました。 ![]() ![]() 梅園には約50種の梅が早咲きのものは満開でこの2,3日の陽気で開花が早まり そうです。 ![]() 野点の茶会は1,500円(宝物殿等見学含む)梅園入園は600円(お菓子・梅香煎付) でした。 ![]() 北野天満宮には牛が沢山いますが殆どは横臥の状態ですが1頭だけ立牛が本殿の 上に祀られています。 ![]() 又見過ごしそうな、織部形石燈籠もあります。 茶人古田織部の墓にある形に因んで名づけられたものでマリヤ像が彫刻されて いて俗にマリヤ燈籠ともキリシタン燈籠ともいわれているそうです。 スポンサーサイト
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さんやれ祭り
2010 / 02 / 24 ( Wed ) さんやれ祭(上賀茂神社)
![]() 2月24日はさんやれ祭という行事が京の上賀茂神社を起点として行われます。 ![]() さんやれ祭とは、幸在祭、三鬼打祭、山鬼打祭、散放祭、山荒祭ともいろいろ な漢字があてられ、その起源ははっきりとは判らないそうです。 だが、遡ると寛永13年(1636年)の上賀茂神社の資料の中に記述があり、 江戸時代初期にはこの祭りが行われていたそうでかなり古くから伝わる伝統の 行事でもあります。 ![]() 男子が15歳になると「上(あがり)の子」と呼ばれ里の仕事や祭礼、町内行事 などで一人前の男子としてお仲間入りをした昔の元服にあたり、上賀茂神社 大田神社、山の神にその報告をする儀式のことをさんやれ祭と呼んおります。 本来は山の神を里に迎え豊作占いや年占い、成人戒などが混然として行われた 行事であったようです。 ![]() この祭りは上賀茂の川原町、山本町、中大路町、南大路町、東の五グループで 構成されていて、農家を中心に「サンヤレ講」が組織され当番制でお宿が決められ 祭り当日は ”小豆ご飯、鱈の入った白味噌のお汁、お煮しめ”などを戴いて この日に新調された大島紬の着物に白のマフラー手袋、黒足袋、下駄姿で太鼓を ドンドン鳴らし磨り鐘、笛を吹きながら3班で山の神、大田神社、最終上賀茂神社 へと練り歩きます。 近年子供の数が減りなかなか上がりの男子が揃わないようです。 又、どうして大島紬なのでしょうか?と関係者の方にお尋ねしたところ高価な着物 ということだったのかナ・・・このさんやれ祭で大島紬の着物を始めて着て、 死んだ時には又大島紬をきて納棺するのや。とお話をされていました。 このさんやれ祭は京都市の指定無形民俗文化財に指定されているそうです。 親子の固い絆と各町内の絆を代々に受け継ぐ素朴な神事を今日尚保存され実行 されていることに大きな意義と感銘をうけました。 (写真掲載は関係者の方より御了解を得て掲載させて頂きました。) |
五大力尊仁王会
2010 / 02 / 23 ( Tue ) 五大力尊仁王会
京の都では2月23日は五大力さんとして信仰を集めています。 五大力さんといえば醍醐寺といわれ、柴灯護摩供養が行われ、力持ち比べが 行われ多くの参拝者が訪れますが、 ![]() ![]() ![]() ここ聖護院門跡の塔頭で積善院準提堂でも今日は五大力尊仁王会が営まれました。 積善院は代々山伏を統轄した聖護院門跡の院家として鎌倉時代に開創され、 御本尊は準提観世音菩薩と不動明王を合祀されています。 ![]() その準提観世音菩薩は文化12年(1815年)光格天皇の勅使により、天台宗の 豪潮律師により造立され聖護院盈仁(えいじん)親王が開眼されたようです。 五大力菩薩とは準提観世音菩薩の隋身として人々の家を守護される憤怒の 五人の菩薩様、「国土守護の仏様」で「家を守る」ことから「盗難除け」 「災難除け」の仏様として信仰を集めております。 ![]() 毎年2月23日に秘仏「五大力菩薩」の御開帳が行われ、午前中は大般若経 六百巻を転読、午後は護摩供養が行われます。 (五大力菩薩は 金剛吼菩薩、無畏十力吼菩薩、龍王吼菩薩、無量力吼菩薩、 雷電吼菩薩の五菩薩のこと) 今日も多くの参拝者が訪れ、御札を受けておられました。 ![]() ![]() 又境内では五大力さんの力を頂く加寿汁の接待も行われていました。 ![]() ![]() 境内には崇徳院地蔵(人食い地蔵)さんというのがありました。 崇徳天皇は平安末期保元、平治の乱の時平氏によって讃岐に流され、土牢に 八年間幽閉され、京都を恋い平氏を恨みながら憤死された。 その後15年の間に京都は大火・悪病流行・大地震と続きこれは上皇の祟りと 恐れその霊を慰めるために石地蔵を加茂川の近くに祀られた。 この地蔵尊は崇徳院地蔵というが、恐ろしい思い出はその後誰言うとなく ストクインがヒトクイとなまり、「人食い地蔵」といわれてきたそうです。 明治以後積善院に祀られたそうです。 聖護院門跡へは東大路丸太町1筋上る東入る 市バス206、201、熊野神社前下車徒歩5分、京阪神宮丸太町下車8分のところです。 聖護院門跡についてはいずれ改めて。 |
伏見酒蔵の街巡りⅡ
2010 / 02 / 22 ( Mon ) 伏見酒蔵の街巡りⅡ
鳥羽伏見戦の弾痕跡 ~ 伏見銀座跡 ~ 源空寺 ~ 西岸寺(油掛地蔵) ![]() ![]() 伏見の大手筋から町並みを進むといたるところにの京の街が大きく変化した明治維新を 迎える鳥羽伏見の戦いの跡が残されています。 幕末の頃慶応4年薩長連合の新政府軍と幕府軍との間で幕府の大政奉還の奏上、朝廷の 王政復古の令と、朝廷側が決定した案に対して幕府側が怒り伏見辺りは激戦が繰り広げ られ街の南半分は焼け野原となった。 その弾痕の跡などが保存され一時代の変遷を残しております。 ![]() ![]() 銀座とは鋳を加工して一定の品位を持つ丁銀、小玉銀などを銀貨とする独占鋳造所 のこと、現代的には日銀にあたるところ 関ヶ原の戦後慶長6年(1601年)徳川家康は後藤庄右衛門、末吉勘兵衛に銀座取立 を命じこの地に屋敷を与え有力商人の座人が集められ銀座会所、座人屋敷が立ち並ぶ 町並び江戸時代の銀座の始まりとなった。 その後中京区の両替町へ移され伏見銀座は廃止されたがその地名は今も残されている。 ![]() 宝海山 法然院(源空寺) 円光大師(法然上人)二十五霊場の一つで、法然上人が大仏殿再建落慶供養の帰途 説法をしたのに始まるとされています。 もともとは宇治市にあったが、江戸初期に僧幡随意が徳川家康より伏見城の殿舎 を拝領して造られた楼門、と伏見城の巽の櫓にあった大黒天像が安置されている ところです。 ![]() ![]() ![]() ![]() 油懸山 西岸寺 浄土宗のお寺で御本尊は阿弥陀如来 天正18年(1590年)岸誉雲海によって創建されたお寺 昔山崎の油売りが当寺の門前で転び油を殆ど流してしまった。油売りはこれも災難と あきらめ残りの油を地蔵尊にかけて供養したところ商売が繁盛し大金持ちなったいわれ 今でも商売繁盛を願って多くの人が油懸けに訪れるといわれているお寺です。 松尾芭蕉もよくこのお寺に訪れ「我衣にふしみの桃のしづくせよ」という句碑が置かれ ています。またここの町は下油掛町と呼ばれています。 |
水尾の里
2010 / 02 / 20 ( Sat ) 水尾の里
![]() ![]() 京都駅からJR嵯峨野線で保津峡まで、そこは京の奥座敷ともいわれる保津川の流れる 渓流地。初夏から秋にかけてトロッコ電車で保津川まできて、舟で保津川下りを楽 しむ観光の名所ともなっているところ。 保津峡で電車をおりて約3キロ少々のところに水尾の里があります。 水尾の里は愛宕山に通じる麓で、昔から山城と丹波の交通の要所でもあった。 ![]() 江戸時代より栄えていた集落は当時は80軒ほどあったが、現在は20軒くらいに なったようです。 今は柚子の里として11月から3月にかけては、柚子風呂や鶏の水炊き、すき焼き などを楽しみ訪れる人も多い地です。 ![]() ![]() ![]() この水尾の里は平安時代初期第56代天皇である清和天皇とゆかりのある地でも あります。 清和天皇(嘉祥3年(850年)~元慶4年(881年))は藤原良房(外祖父)の後見を得て 惟喬親王を退けて皇子となったが9歳で即位したため文徳天皇の崩御に伴い良房が 実権をにぎっていた。貞観8年(866年)応天門炎上事件が発生、それを機に元慶3年 出家し、丹波の国水尾に入り苦行をし、水尾の里を隠棲の地と定め新たに寺を建立 中に病を発し粟田円覚寺で崩御された。 故にこの水尾の里、山の中腹には清和天皇陵があり今も町の方がきれいに護り継いで おられます。 ![]() ![]() 今日はお天気もよく保津峡駅から水尾の里まで約3キロ余りを山渓の道を歩いて訪れ てきました。まだ蔭に入ると山肌にはつららがキラキラと光って懐かしい光景を 楽しみ、柚子の鈴なりになっている良い匂いの漂う道を通り途中集落のおじさん と柚子の収穫状況(今は高齢化して今年は柚子も豊作でとても全てを収穫するのは 手が回らない現状)などをお聞きしながら13,081歩をハイキングしてきました。 ![]() ![]() ![]() 水尾の里(山重さん)で柚子風呂(今なお貴重なる木のお風呂)を楽しみ、柚子の お菓子、鶏の水炊きを戴き空腹と冷えた身体がすっかり温まり、お肌は柚子と鶏の コラーゲンですべすべになり満足の一日となりました。 |
伏見桃山 御香宮
2010 / 02 / 14 ( Sun ) 伏見の酒蔵の街巡りⅠ
”御香宮” ![]() 今から約1000年前、清和天皇の時代に、もともとは「御諸神社」呼ばれていた この神社の境内に大変香りのいい水が湧き出たことから清和天皇から「御香宮」 と名を賜ったとされています。 主祭神は神功皇后ほか六柱の神様をお祀りされています。 円融天皇以後社殿を造営され、伏見宮貞成親王は産土神として崇敬され、祭礼には 猿楽や相撲をご覧になったと『看聞御記』に書かれているそうです。 が応仁の乱では兵火に罹い焼失、その後は小さなお宮を建てておまつりされていた そうです。 豊臣秀吉は天下平定し伏見城を築城に際して,城中の鬼門除けの神として勧請し 城の艮に遷し社領3百石を献じられました。 徳川幕府時代の伏見は、京、大坂を結ぶ淀川舟の発着点であり、西国から江戸に下る 道中筋の人馬の割り当ての決まる宿駅でありました。 又、西国大名の参勤交代の要衝でもありました。 徳川家康は慶長10年に御香宮をもとの所に社殿を造営し3百石を献じました。 慶応4年(1868年)伏見鳥羽の戦いでは官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸い 戦火からは免れ現在に至っております。 ![]() ![]() 表門は国の指定重要文化財に指定されています。 元和8年(1622年)徳川頼房が寄進。切妻造りの薬医門、蟇股(かえるまた) には中国の二十四孝を彫った楊香、郭巨、唐夫人、孟子が物語順に並んでいます。 ![]() ![]() 本殿は慶長10年(1605年)徳川家康の命により所司代板倉勝重を普請奉行に し着手されたもので国指定の重要文化財に指定されています。 ![]() 境内にある能舞台は今も9月に行われる神能奉納で使われているそうです。 ![]() ![]() 御香宮の名水「御香水」は石井の御香水として伏見七名水の一つで 昭和60年環境庁より京の名水の代表として「名水百選」に認定されています。 柔らかい甘い感じのする名水で口当たりのとてもいいお水です。 ![]() またこちらのお庭は小堀遠州ゆかりの石庭 小堀遠州が伏見奉行に命じられた時庁舎の新築を命じられました。 寛永11年上洛した3代将軍家光をここに迎えた時、あまりに立派な庭園に感心して 褒美に5千石を加増一躍大名になったという小堀遠州にとっては出世の糸口にも なったといわれております。 御香宮へは近鉄、京阪で桃山御陵前下車すぐです。 若水神事、御弓始神事、茅ノ輪神事、神能奉納、神幸祭、御火焚祭等の神事が行われています。 |
金閣寺
2010 / 02 / 07 ( Sun ) 雪化粧の金閣寺
立春の頃から冷え込んだ京の都にこの冬初めての雪が積もりました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 京は西大路通の北大路から少し下がったところに金閣寺があります。 京の観光のメッカにもなっていて、雪化粧をした金閣寺は眩いばかりの景色です。 ![]() 金閣寺は正しくは臨済宗相国寺派の禅寺 ”北山 鹿苑寺”で御本尊は 聖観世音菩薩、1944年に世界文化遺産に登録されました。 この辺りは鎌倉時代に西園寺公経(きんつね)の別荘北山第があったところで 足利3代将軍義満が応永4年(1397年)に譲り受け山荘北山殿を造り、後小松天皇 をお招きしたり、明国(中国)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献したところ で、この時代の文化を北山文化と言われます。 義満公死後遺言により夢想国師を開山に義満公の法号「鹿苑殿」から鹿苑寺と名付 けられたそうです。 注目を集めている金閣は御釈迦様の骨をお祀りする舎利殿で第一層は寝殿造りで 「放水院」第二層は武家造りで「潮音洞」第三層は中国風の禅宗仏殿造で 「究竟頂」と呼ばれ三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と いわれております。 応仁の乱による荒廃後豊臣秀吉や徳川家康の帰依を受け、西笑承兌や鳳林承章らが 住職となり復興したが、創建当時の金閣は昭和25年(1950年)に焼失。昭和30年 に再建されました。 ![]() 庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で国の特別史跡、特別名勝に指定されて います。 ![]() ![]() 銀河泉 巌下水 義満公がお茶の水に使ったと言われる銀河泉や手を清めたと言われる巌下水があります。 ![]() ![]() 鯉が滝を昇ると龍になるという中国の故事「登龍門」にちなんだ「鯉魚石」が置かれて います。 ![]() 金閣寺垣です。 ![]() ![]() 安民沢は昔からある池の名前で中之島には白蛇の塚があります。 白蛇は弁財天の使いで、弁財天は智恵、弁舌、芸能、福徳を与える神で 家運を盛んにしてくれます。ここは繁栄を極めた西園寺家の旧跡で塚が 建てられています。お賽銭が沢山あげられていました。 ![]() 茶室「夕佳亭」は江戸時代の茶道家・金森宗和が好んだ数寄屋造りで夕日に映える 金閣がことのほか佳いということから名付けられた茶室で正面の床柱が有名な 「南天の床柱」、右の三角の棚が「萩の違棚」1997年解体修理が行われたものです。 ![]() 出口近くに不動堂があります。御本尊は弘法大師で毎年節分と8月16日に開扉法要が 行われる。霊検新たかな秘仏として信仰を集めています。 金閣寺へは市バス205、206金閣寺前下車すぐです。 |
千本閻魔堂の節分会
2010 / 02 / 02 ( Tue ) 京の都の節分会 千本閻魔堂
![]() 千本閻魔堂として京の町では親しまれているこの閻魔堂は高野山真言宗の 正式には ”光明山 歓喜院 引接寺”といいます。開基は小野篁(おの たかむら) 小野篁(802~853)は百人一首で 和田の原 八十島かけてこぎいでぬと 人は告げよ あまのつりふね 参議篁 でも知られています。 当時小野篁卿はこの世とあの世を行き来する神通力を持っていて昼は宮中に赴き、 夜は閻魔王に仕え閻魔王より現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世に迎え 供養する「精霊迎え」の法儀を授かったと伝えられております。 その精霊迎えの根本道場として、当時朱雀大路(千本通り)は風葬の地の入り口 (蓮台野)と言われていたこの地に篁卿自ら閻魔法王の姿を建立したことがゑんま堂 の始まりといわれております。 その後、寛仁元年(1017年)に比叡山恵心僧都源信の門弟定覚上人が藤原道長公の 後援を得て諸人化導引接仏道の道場として引接寺と命名され開山されたそうです。 ![]() ![]() ![]() 本堂中央には閻魔法王、右脇には司命尊、左脇には司禄尊が安置されています。 初代閻魔法王は応仁の乱の時に焼失し、現在の閻魔法王像は長享2年(1488年)に 定勢によって造られたものだそうです。 ![]() ![]() この千本ゑんま堂で2月2日3日と節分会が催されました。 さすが節分とあって今日はこの冬一番の冷え込みとなり、 名物 熱熱の ”こんにゃく煮き” がふるまわれました。 閻魔様は嘘を大罪とされ表裏のないこんにゃくが好物であったことからはじまった とされ、こんにゃくは困厄に通じ困りごとで厄除けに力を仰ぐためとして信仰を 集め、中風除け、諸病納めのおまじないとして京の町では親しまれております。 このこんにゃく煮きは400円でこぶ茶付きで戴くことができます。 又3日節分当日の午後7時30分からは”ゑんま堂狂言”が行われました。 ゑんま堂狂言は京都市の無形民俗文化財とされ、ほとんどの演目でセリフが入ることが 大きな特徴とされております。 今回の出し物は「神埼渡し」と「鬼の念仏」が披露されました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 坂東方の修行中の坊さんが境、住吉、天王寺へ参詣の旅に出かけましたが、修行中の 身で所持金もなく立ち寄った茶店で御茶代が払えません。あきれた茶店の主人は かわいそうだと神埼川の渡し賃もタダにしてもらえる方法を教えてやりました。 それはしゃれ好きの船頭のために、古の名将薩摩守平忠度(たいらのただのり)に 引掛けて歌った句「平家の公達 薩摩守 心を問わば ただのり」としゃれて船賃を ただにしてもらうというものでした。 がその坊さんは途中でふとその洒落を途中 から忘れてしまい船頭さんにあれやこれや言い逃れをし、ついには思い出して許して もらうというお話です。 ![]() ![]() ![]() ![]() 鬼の待つ六道に亡者が一人落ちてきます。鬼は亡者をせめようと鉄杖をふりあげますが 亡者のとなえる念仏の力にどうしても負けてしまいます。かなわないと鬼は亡者を極楽 へ追いあげようとしますが、亡者は念仏で地獄で苦しむ罪人を助けようと策をねります 鬼の鉄杖を捨てさせ、虎のちゃんちゃんこを脱がせ、かわりに十徳を着せ、念仏の鐘を 掛けさせ念仏を唱えさせます。そして亡者は罪人を助け極楽へ行くというお話です。 閻魔様の前で演じられ、ユーモラスでセリフが入るので解りやすく節分にふさわしい 趣のある楽しい演目でした。 この後狂言演者や関係者、虎年の人による豆まきが行われ、今年も厄を祓い 無事過ごせるようにといのりました。 千本ゑんま堂では5月にも狂言が行われます。 アクセスは市バス206、95、千本鞍馬口下車すぐです。 |
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