やすらい祭り
2010 / 04 / 11 ( Sun ) 京の三奇祭
やすらい祭り ![]() ![]() 4月の第2日曜日は京の三奇祭のひとつ ”やすらい祭り”が今宮神社、玄武神社を中心に行われました。 ![]() ![]() この祭りは民俗無形文化財にも指定されています。 祭りの起こりは、正暦5年(994年)一条天皇の御代に京の都に疫病が流行、 これを鎮静するために風流の装いを凝らし、鎮静安穏を祈願する御霊会が 船岡山で行われたのが起源とされ、やすらい祭りと名付けられたようです。 やすらいとは安らかなという意味だそうです。 以後この祭りは毎年行われるようになり、年々華美になったため、近衛天皇の 時代(久寿元年(1154年))勅使により禁止されました。 その後復活したものの応仁の乱により中絶したが、元禄7年(1694年)東山天皇の 時代に五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院殿により社殿の造営、神輿、御鉾の 寄進があり再興され今日に至っているようです。 ![]() ![]() ![]() ![]() 行列は「練り衆」と呼ばれ先立、鉾、御幣持ち、督殿(こうどの)羯鼓(かんこ) 羯鼓廻し、大鬼、花傘、音頭取り、囃子方が練り歩きます。 花傘は傘の上に花を挿し、花の精にあおられて陽気の中に飛散する悪疫を 囃子や歌舞によって追い立て、悪疫を花傘に宿らせ、紫野疫社に送り込んで 神威を仰いで鎮めるというものです。 この花傘の中に入るとその年の厄を除がれることができるといわれております。 お町内を練り歩いた後神社に詣でて、社務所前で踊りをおどりながら悪疫を退散 させます。 その時には ”いさぎよく踊れ、調子よく納め、夫婦の二千夜、やすらい花や 富草の花や、 中ぬのせきと ” と音頭取りが囃しながら太鼓、笛を 鳴らし踊ります。 可愛い鬼さんも、怖い鬼さんに交じってしっかりお勤めを果たしていました。 ![]() 又境内では人形に名前を書いて本殿に納めお祓いを受けて厄逃れをする受付 も300円でされていました。 |
哲学の道
2010 / 04 / 10 ( Sat ) 琵琶湖疏水分線
哲学の道散策 ![]() ![]() ![]() ![]() 白川通りから銀閣寺道へはいると哲学の道へと続きます。 哲学の道は若王子神社から銀閣寺までの約2kmの琵琶湖疏水分線に沿って の道で、哲学者の西田幾多郎がこよなく愛し散策したことから哲学の道と名付 けられました。 この辺りも桜が見事に咲き競うところで近年は観光のメッカともなっています。 Week Deyの午後なので人も少ないかと出掛けてみると、なんと銀閣寺へ向けて 大変な混雑ぶりです。韓国語、中国語がしきりに飛び交い、間に英語が・・・ この辺りの桜もはるばる海外から訪れてくださった方のために、思いっきり 花を咲かせておもてなしをしれくれています。 ![]() ![]() 白川通りの銀閣寺道をはいったところに白紗村荘・橋本関雪記念館があります。 ![]() ![]() 国東塔(鎌倉時代) ![]() ![]() ![]() 持仏堂 宝筐印塔(南北朝時代) ![]() ![]() ![]() ![]() 白松(白骨松)中国原産) 羅漢さん 日本画家、橋本関雪は明治16年に現在の神戸市に生まれ、明治36年に画家の 竹内栖鳳の竹杖会に入門、大正2年に京都岡崎に住まいする。 当時この銀閣寺あたりは住宅はところどころにあるだけで殆ど田圃であった のが次第に開墾され家が建ち道路が広げられ今日のように変化していきました。 関雪は一木一石は唯一の伴侶で、庭を造るのも、画を描くのも一如不二のもの として、少しづつ尺樹挙石、庭作りにも丹精込めこの白紗村荘が出来上がった のだそうです。 この白紗村荘は平成15年国の名勝に指定されたそうです。 ![]() ![]() 銀閣寺道から疏水沿いに哲学の道さ下ったすぐのところに 幸せ地蔵尊が祀られています。やさしいお顔をされた立ち地蔵尊 彌勒院というお寺にお祀りされています。 幸せが来るように若い女性に人気があり沢山の絵馬もかかっています。 ![]() ![]() 哲学の道の喧噪から離れて法然院の前を通り過ぎると広い丘陵が見えます。 ここは冷泉天皇の桜本陵があります。 冷泉天皇は村上天皇の第2皇子母は藤原安子、藤原氏権勢の時代狂気のため 譲位されたそうです。 ![]() ![]() そのすぐ先に安楽寺があります。浄土宗のお寺で 山号を住連山と号する。御本尊は阿弥陀如来 法然の弟子安楽房が開いた念仏道場から始まるそうです。 後鳥羽院の女御、松虫、鈴虫が住連・安楽のもとで密かに出家したため院の 怒りに触れ念仏は禁止、両僧は死罪、法然は流罪となり道場は荒廃してしまい ました。延宝9年(1681年)死罪になっと両僧の菩提を弔うために伽藍を 建立された。境内には松虫姫・鈴虫姫の五輪小石塔二基があるそうです。 普段は非公開ですが4月4,5,10,11桜の頃と5月1~5日つつじの頃と秋に 公開されるそうです。 ![]() ![]() 安楽寺のすぐさきに霊鑑寺門跡があります。 臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院で谷御所とも鹿ケ谷比丘尼御所とも呼ばれ 山号を円成山と号する。 御本尊は如意輪観音。 承応3年(1654年)後水尾天皇皇女多利宮が天台宗の寺として現在地の南隣に 創建されたもので、間もなく改宗し、貞亨4年(1687年)後西天皇の旧殿を賜り 現在地に移転された。本堂は徳川家斎の寄進、狩野永徳や元信の花鳥風月の襖絵 などがある門跡尼寺で非公開とされています。 霊鑑寺から再び哲学の道へ出て大豊神社を過ぎると若王路橋へ、 ここからは永観堂~南禅寺~蹴上の琵琶湖疏水へと参ります。 このように琵琶湖疏水は本線。分線ともに今日京の都に大きな遺産を 残し、現在もなお京都の市民の命とともに生き続けています。 |
明治ロマンの道
2010 / 04 / 09 ( Fri ) 明治ロマンの散策Ⅲ
琵琶湖疏水の縁の散策 ![]() 毘沙門堂から安朱橋へもどり、疏水沿いに歩を進める。 両サイドはまさに桜花爛漫の様子をみせております。 途中洛東高校では今日は(8日)入学式が行われておりました。 入学式には桜、桜は私たちの人生の節目にはいつも傍にある花です。 ![]() 疏水沿いにさらに歩を進めると、安祥寺橋へ参ります。 ![]() ![]() 橋を渡りすぐのところに安祥寺があります。 山号は吉祥山、高野山古義真言宗の別格本山 本尊は十一面観音 疏水縁に存在する最古の寺院で嘉祥元年(848年)に仁明天皇の女御 藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により創建され、その後皇室から 広大な寺領田園が寄進され貞観(859~877)末頃には山上、山下に大伽藍 をつくり塔頭700余りを数え、寺領は山科一帯に広がっていたそうです。 しかし平安末期頃勧修寺長史が安祥寺の事務を兼ね、寺領の実権を掌握 する従い、寺領は衰退し、戦国時代には荒廃してしましました。 以後高野山宝性院に属し、明治3年に独立したようです。 現在は非公開になっています。 ![]() 安祥寺橋そすぎ、水路幅が広がったあたりが安祥寺舟溜り 船頭さんの休憩や時間調整のため一時舟が休むところがあります。 さらにすすむと疏水沿いにお地蔵さんが4体見えます。 やはり疏水で溺死した兄弟姉妹の菩提を弔うために祀られた慰霊の お地蔵さんです。 ![]() ![]() さらに歩を進めると赤い本圀寺正嫡橋が見えてまいります。 橋と渡って入ると本圀寺があります。日蓮宗大本山のうちの一つで 山号を大光山と号します。御本尊は大曼荼羅 もともとは下京区猪熊通花屋町にあったのを昭和46年に移築されました。 豊臣秀吉や加藤清正らの援助を受けて繁栄し、江戸時代徳川光圀の保護を受け 本圀寺とされたと伝えられております。天明の大火で堂舎のほとんどが焼失 現在の建物はその後再建されたものだそうです。 ![]() ![]() 境内は黄金の輝きがあちこちでみられます。釣鐘、九後間龍弁財天、本堂の鯱鉾 と眩いばかりの黄金色の珍しい寺色のお寺です。 ![]() 本圀寺を過ぎると珍しい洋館の建物が見えます。 鶴巻亭(現栗原亭)で建築家 本野清吾が建てた3階建のコンクリート造りで 建築当時世界的最新技術が採用された建物とされています。 本野清吾は明治15年東京生まれ父は鍋島藩出身で大蔵省から読売新聞社の 二代目社長の要職を務めた。 清吾は東京帝国大学建築科に入学、後恩師武田五一の招聘で京都工芸繊維大学教授 となり西陣織物館の設計等日本の初期モダニズム建築にトライした建築家です。 ![]() この太鼓橋は明治37年に作られた鉄筋コンクリートの橋で国の史跡に指定されて います。別名黒岩橋とも封じ山橋とも山ノ谷橋とも呼ばれているそうです。 ![]() ![]() 太鼓橋の先に第二トンネルが見えます。 疏水本線の中では最も短いトンネルで124m、トンネルの上には井上馨の 扁額が掲げられています。 「仁以山悦智為水歓」(じんは山をもってよろこび、ちはみずとなってよろこぶ) トンネルの向かい側には 西郷従道の「隋山到水源」(山にしたがい水源にいたる)が掲げられています。 この第二トンネルから第三トンネルを過ぎて蹴上へと続きます。 今回のこの明治ロマンの道をたどるコースは十石舟巡りとセットで 京都旅行業協同組合を通じて京都観光再発見懇話会がご案内をしております。 詳細は十石舟めぐりのチラシをご覧ください。 お問い合わせは075-321-7696へ 京都観光再発見懇話会ではこの他にも京都をご案内するメニューがあります。 http://www.eonet.ne.jp/~kyotosaihakken/ |
明治ロマンの道
2010 / 04 / 09 ( Fri ) 明治ロマンの散策Ⅱ
琵琶湖疏水の縁の散策 琵琶湖疏水の縁をたどり安朱橋を渡って毘沙門堂道へ入ると ![]() 瑞光院があります。 臨済宗の大徳寺派のお寺で山号を紫雲山と号します。 もともと堀川頭今宮御旅所下がるにあったものが昭和37年にこの地に 移されました。江戸初期浅野長政の別荘を山崎家が寺院にあらためられ、 後赤穂藩主浅野内匠頭の夫人瑶泉院の縁故で檀家となったそうです。 松の廊下の事件で切腹した浅野内匠頭の供養塔をつくって菩提を弔い、 元禄15年討ち入り後は四七士の遺髪を埋葬し、墓をつくられたという 赤穂浪士ゆかりのお寺で、通常非公開となっております。 ![]() ![]() さらに参道の桜のトンネルを歩いていくと山科盆地の山腹に位置する 毘沙門堂門跡に参ります。 ![]() ![]() 毘沙門堂門跡は天台宗五箇室門跡のうちの一つ(三千院、曼殊院、 青蓮院、妙法院、毘沙門堂)正しくは護法山出雲寺と号します。 御本尊は毘沙門天(京の七福神のひとつ) 創建は大宝3年(703年)文武天皇の勅願で行基によって開山されました。 当時は出雲路(上京区・御所の北)にあったことから出雲寺と称されました。 その後度重なる戦乱から荒廃し、寛文5年(1665年)この地に再建されました。 後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してから門跡寺院となりました。 御本尊の毘沙門天は天台宗開祖の伝教大師の自作で、根本中堂の御本尊 薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられております。 又毘沙門天の使いの寅にちなみ1月の初寅の日には福笹が授与されます。 商売繁盛、家内安全に御利益があるそうです。 仁王門な寛文5年(1665年)に建立されたもので急な階段の上にあり本堂 への入り口となっております。 この急な階段では学生の部活で足腰の訓練にしきりに上がり降りしている 傍らで、お年を召した方々が端の方をこれもまた足腰を鍛えるため徒歩で 手すりにつかまりながら上っていかれます。 いずれもありがたい階段なのですね! 毘沙門堂門跡には本堂、宸殿、宸殿の襖絵(狩野益信作 どの角度から みても鑑賞者が中心となる)や霊殿、天井龍(狩野永叔主信作 見る角度 によって目の動きや顔が変化する)晩翠園(回遊式庭園「心字」) などがあります。 ![]() ![]() しだれ桜やそめい吉野が満開となっていました。 ![]() ![]() ![]() 毘沙門堂門跡から山手を上ってすぐのところにもともと毘沙門堂の塔頭 のうちのひとつであった雙林院(山科聖天)があります。 明治元年に大聖観喜天が祀られ「山科聖天」とよばれるようになったそうです。 又 お瀧不動尊も祀られています。 雙林院(山科聖天)から毘沙門堂道を戻って疏水沿いに歩を勧めます。 明治ロマンの散策Ⅲへと続きます。 |
明治ロマンの道
2010 / 04 / 08 ( Thu ) 明治ロマンの散策Ⅰ
琵琶湖疏水縁の散策 琵琶湖疏水は琵琶湖の南部三保ケ崎の取水口から山科を通って蹴上へと続きます。 その山科疏水は疏水本線約10キロメートルの内約4キロメートルを占めます。 四ノ宮から日ノ岡にかけては昭和48年頃に整備されて東山自然緑地公園と なりました。 疏水の両側には桜が植えられて、今まさに桜花爛漫の様子をみせております。 またこの疏水の縁を挟んで、由緒ある神社仏閣が点在いたします。 ![]() ![]() 京都地下鉄東西線の山科で下車し、先ず諸羽参道を通って諸羽神社へ 山科最古の神社といわれる諸羽神社は仁明天皇の第四皇子 人親親王(さねやすしんのう)が隠棲した場所と伝えられております。 祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天太玉命 (あめのふとたまのみこと)通称四の宮と称されて、この辺りの地名 にもなっています。 社殿は貞観4年(862年)の創建といわれております。 ![]() ![]() 諸羽神社の斜面を上っていくと公園になっていて、学生のジョギングや 余暇を楽しむ人々の散策の場となっております。 疏水を挟んで安朱橋へ向かって地元の方が植えられたという菜の花と 桜が満開で色のコントラストも見事でとても艶やかに咲き競っています。 近くではお花見の人々がお弁当を広げたり、バーベキューをして楽しんで おられる光景がみられます。 このあたりの疏水は水量も多く流れも速いです。 ![]() ![]() ![]() 疏水を伝っていくと安朱橋へまいります。 この疏水は昔は囲いもなく安全設備が整っていなかったため、元気な子供達が 時として落ちて命を失ったそうで、当時船頭であった善兵衛という方が何とか して子供の命を守るためにお地蔵さんを建立しようと申し出られ、安朱橋北部 の住人20余名が相談され、雄松(近江舞子)の石を使って名工の甚助さんが 精魂こめてつくられた”母子地蔵”さんが安朱橋のたもとに祀られております。 この辺りは非常にきれいに整備されていて市民の憩いの場ともなっています。 明治ロマンの散策Ⅱへと続きます。 |
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