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夏越の祓い
2010 / 06 / 30 ( Wed )
夏越の祓い

今年も早や、半年が過ぎようとしております。
一年の終わり12月の晦日は年越し(大祓い)、一年の半分の晦日は
夏越と昔の人々はよんで、形代に半年間の穢れを託して川に流したり
茅の輪を潜ってお祓いをいたしました。



茅の輪
八坂神社の茅の輪

この茅の輪潜りというのは鎌倉時代卜部兼方によって記された『備後風土記』
の中に蘇民将来のお話が伝承されております。

蘇民将来に関する逸話は祇園祭りにも牛頭天皇が一夜の宿を借りたいと
所望された時、兄の蘇民将来は貧しいながらも快く精一杯のおもなしをした。
裕福な弟の巨旦将来はこれを断った。

この『備後風土記』の神様は疫隈の国の神、武塔の神様とありますが
内容は同じもの、神様は蘇民将来にこの茅の輪を腰につけていれば疫病、
穢れから免れらむとしてその茅の輪を与えられたといわれております。

祇園祭りも疫病から人々を守るために行われた御霊会から始まったもの。

いずれも、今年も半年無事過ごすことが出来たことに感謝し、
この後の半年も無事過ごせますようにと、茅の輪を潜って祈ります。

京の都では、各神社で茅の輪が設置され夫々願う神社にお参りを
いたします。

表示 参拝方法

お参りの作法は決められております。
八の字になぞって三回くぐります。

一回目は みなづ月の なごしの祓い する人は 千年の命 のぶというなり
     といって左に回ってもとの位置にもどり
二回目は 思う事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりて 祓いつるかな
     といって右に回ってもとの位置へ
三回目は 蘇民将来 蘇民将来
     といって左に回ります。
このように三回潜ってお祓いを受けます。

はるか昔から今日までこの行事が連綿と受け継がれ、今日尚多くの
人々の参拝を集めていることに、今も変わらぬ神への拠り所を求める
心が感じられます。

そして来月は京の都は祇園祭の行事がびっしりと組まれております。
これから愈々暑い夏が訪れます。
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佛光院
2010 / 06 / 27 ( Sun )
佛光院

佛光院 佛光院本堂

小野の勧修寺のお隣に小さいながらも興味深いお寺があります。
やはり真言宗山階派に属し、昭和26年(1951年)に勧修寺の塔頭があったと
伝えられる由緒ある地に大石順教尼によって再興されたそうです。

大石順教尼

大石順教尼は大阪堀江の名妓 ”妻吉”(本名よね)といったが、
明治38年6月養父の中川万次郎の狂刃六人斬り事件の巻き添えとなって
17歳の身で両腕を切り落とされてしまった。
不幸のどん底に落とされた妻吉は数々の苦難を乗り越え求導者として
出家得度し、犠牲者の追善と共に身体障害者の救済に生涯を捧げた。
両手のないまま口に筆を咥えて、書画を描き非凡な才能を発揮、
日展に入選するなどその才能を発揮した。

又日本人として初めて世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれ
この佛光院にあって順教尼は身体障害者の母として慕われた。

昭和43年に奇しくも自分が遭難したのと同じ日に81歳の生涯を閉じた
と記されていました。
以前に報道でお見かけしたことがあったような記憶があります。

わずか17歳の若さでこれからもっともっと芸妓として磨かれ
夢もあったでしょうに、さぞ無念なことであったでしょう。

しかしどんな境遇にあっても常に前向きに、強い心をもって信念をもって
生きていけば必ず道は開けるということを見事に示された素晴らしい
方だと感銘をうけました。

佛光院庭園

お庭にはお茶室もありきれいに整備されていました。
ちょっと見落としそうなお寺ですが、印象深いお寺であります。
勧修寺のお庭を挟んでお隣にあります。
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勧修寺
2010 / 06 / 26 ( Sat )
勧修寺(かじゅうじ)

京は山科区に位置し、地下鉄東西線の小野駅から徒歩10分のところに
醍醐天皇の勅願により創建された門跡寺院 ”勧修寺”があります。

門

       玄関

山号を亀甲山、真言宗山階派の総本山、御本尊は醍醐天皇等身の”千手観音像”
勧修寺にまつわるお話は今昔物語第22巻から知ることができます。

昔、藤原冬嗣の孫で高藤という人がいて、鷹狩に出かけ、途中嵐にあい道に
迷ってしまいました。その時、郡の長官である宮道弥益という一軒の家を
見つけ雨宿りをすることになりました。その家には列子(たまこ)という
可愛い娘(13、4歳)がいて、大層心をひかれ、一夜を過ごし、結婚の約束
をして帰りました。
がその後思いは募りつつも6年の年月が過ぎ再びその家を訪れたときには
可愛い娘はみめ麗しい女性へと、そして自分に似た女の子がいました。
高藤は女の子胤子と共にその女性列子(たまこ)を妻に迎えました
高藤はその後内大臣になり、胤子は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を
生みました。宮道弥益の家は寺となり、皇室や藤原氏の庇護のもと栄えた
と伝えられております。

列子の出世から 「玉の輿にのる」という言葉はここから生まれたとも
いわれます。

又源氏物語の作者紫式部も高藤の子孫であるといわれております。

勧修寺は昌泰3年(900年)藤原胤子(醍醐天皇の生母)の願いで
藤原定方(胤子の弟)が宮道弥益の邸宅跡に開創、承俊律師を開山に迎えて
醍醐天皇の勅願寺となりました。

第7世の寛信が山階派を確立、十五世の寛胤法親王(後伏見天皇の第七皇子)
が入寺して明治維新に至るまで親王が住持する格式ある門跡寺院であります。

書院

書院は重要文化財で元禄10年京都御所から女帝であった明正天皇の御常御殿
を下賜され移築されたものといわれ、入り母屋造り、桟瓦葺き。
付け書院の上段の間には勧修寺棚と呼ばれる中央が一段と高くなっている棚が
あり、中央には天皇の冠が乗せられたようです。

床の間から襖には江戸時代初期の絵師土佐光起の近江八景図、土佐光成(光起の子)
の隅田川紅葉図
が今も色鮮やかに湖の青、松の緑、黄金に輝く素晴らしい景色を
楽しむことができます。(通常は非公開)

勧修寺燈籠  はい柏しん
水戸光圀公より拝領したと言われる勧修寺燈籠。 樹齢800年といわれる這柏槇(ハイビャクシン)

半月手水鉢 老梅
半月型手水鉢                 江戸時代御所から移植された梅
                        現在のは孫梅

観音堂 亀の墓碑
観音堂、中には観音像が安置され      亀の上に立つ不思議な記念碑
 屋根には鳳凰がのっています。           もあります。      

         標識
なかなかユニークな標識です。この先老木が折れて落ちかけていました。

水連 老杉

庭園は池泉回遊式、池は氷室の池と呼ばれ、平安時代には毎年1月2日に
池の氷を宮中に献上して、その氷の厚さによって豊作が占われたそうです。
その氷室の池は丁度この季節は睡蓮がきれいに咲いています。


睡蓮は午前中だけの花で、初日はやや色が薄く、2日目は少し濃く、
3日目には一番色濃く、4日目には沈んでいくのだそうです。
5月中旬ころから咲き始め杜若と、6月は花菖蒲・半夏生と、7月は蓮と
それぞれ共存して咲き競って訪れる人々の目を楽しませ、極楽往生の
世界を見せてくれます。
今のご住職筑波上人は自然をとても大切にされ、木には鳥たちの巣があり、
池にはマガモ、カルガモ、ゴイサギ、シラサギ、カワセミなど水鳥の
楽園が鯉も共存して保たれております。

蓮の置物
又筑波ご住職は凛とした見識の高いお方ですが、遊び心も十分発揮
され、ユニークな標識や、蓮の実や葉を使って木枯らし紋次郎
福の神、貧乏神など面白い置物もお造りになって、今回特別に拝見
することができました。

勧修寺の拝観料は400円。地下鉄東西線小野駅下車徒歩10分です。

16 : 56 : 11 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
時雨殿
2010 / 06 / 24 ( Thu )
小倉百人一首の殿堂 時雨殿


小倉山

京都嵯峨野は大匽川の流れとこんもりとした小倉山が四季折々に
その景色を変え市中から離れ風光明媚なところ。
その小倉山あたりは小倉百人一首の発祥の地といわれております。

藤原定家が約50年余りにわたって書き記した日記『明月記』の中に
文暦2年(1235年)五月の項で宇都宮頼綱(定家の息子為家の妻の父)
の依頼で嵯峨中院にあった山荘の障子に貼る色紙に和歌を染筆した
という記述があり、その編纂された色紙が(小倉山荘色紙和歌)
小倉百人一首の原型となったと言われております。

時雨殿 時雨殿玄関

その小倉百人一首の発祥の地に2006年1月に小倉百人一首の殿堂「時雨殿」
が建設されました。
ハイテクを駆使したデジタルでかるた遊びが出来、その歴史や珍しいかるた、
当時の様相などを知ることができます。

ナビ

重厚な建物の中に入ると、先ずナビが渡されます。

航空写真 かるた

ナビに従って足元に電光に浮かび上がったカルタが出てまいります。
ナビ上に上の句が読まれると足元の下の句のカルタが沢山並んでいる
所に立つて得点する。
又ナビを使って京都市内の航空写真上で自分の行きたいところを入力
するとその地点に案内してくれるというゲームを楽しむことができます。

屏風

壁面の屏風には各一首ごとの説明が書かれていてより理解を深める
ことができます。

かるた競技 謎とき

「体感かるた五番勝負」では画面に出てきた歴史上の歌人とかるた取りの
対戦をすることができます。

謎解きの井筒というゲームは百人一首に関する五つのクイズにタッチパネルで
答えて月が沈む前に難問答えられるかというゲームも楽しむことができます。

王朝絵巻

二階の大広間には王朝の歌人の人形が当時の様相を見せてくれます。
何とも優雅な装いで時の流れが忍ばれます。

この大広間では毎年女流かるた名人戦が行われております。
それは厳粛な空気が漂う中”あっと”言う間の出来事のように見事な
手さばきでかるた取りがなされます。

駒かるた 日の丸かるた

通常の開館日には様々な時代の百人一首かるたが展示されています。

時雨殿は大人も子供も楽しむことができるところです。

時雨殿へは嵐山渡月橋の袂を川沿いに徒歩5分以内です。
休舘日は月曜日 入館料は大人800円 子供500円です。
時間は10時~午後5時までです。
16 : 38 : 08 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
清閑寺
2010 / 06 / 21 ( Mon )
歌の中山 清閑寺

石標 門

清水寺の奥の院から観音千本桜を左に眺めながら小安の塔を過ぎ、
そのまま奥へ竹林を通って東山の麓を歩いて行くと、昔は大津、山科から
京都へ入るにはこの道を通ったと言われる静かな山道へ出てまいります。
その先に鄙びたお寺 ” 清閑寺 ”があります。

真言宗智山派のお寺で山号を歌の中山ご本尊は十一面千手観音菩薩
延暦21年(802年)比叡山の紹継法師によって創建されたと言われております。
当時は寺域も広く東山山中に偉容を誇っていたそうですが、応仁の乱によって
焼失してしまいました。
その後慶長年間(1596年~1615年)根来寺の性盛が再興してから天台宗より
真言宗に改められたようです。
現在は菅原道真公の御作といわれる十一面千手観世音が唯一残されています。

小督の局 宝筐印塔
                        宝筐印塔

またこの清閑寺は平家物語のヒロイン ”小督局 ”が平清盛に宮中を
追われこの寺で尼にさせられたという悲恋の物語でも有名です。

小督局は美人で琴の名手でもありました。高倉天皇はこの小督局を大層
寵愛されました。が当時の権力者平清盛はこれを好ましく思いませんでした。
局はそれを察し密かに嵯峨野に身を隠しましたが、美しい月の夜局が奏でる
琴の音によって見つかってしまいました。(嵐山には小督局の碑がのこされ
ています)宮中に戻った小督局を平清盛は無理やりこの清閑寺で尼にして
しまいました。高倉天皇は寵愛する局への慕情やみがたく、深く心を痛められ
「私が死んだら、局のいる清閑寺へ葬ってくれ」とご遺言され21歳で(養和元年)
なくなってしまいました。天皇の葬儀はこの清閑寺で営まれ、御遺体も遺言
通りこの寺の法華三昧堂に埋葬されたそうです。
清閑寺には本堂の前に局の宝筐印塔があります。

高倉天皇陵

          高倉天皇陵2

高倉天皇陵は清閑寺のすぐ近くに六条天皇陵と一緒にあります。
この高倉天皇陵の傍らに小督局のお墓もあります。
通常は非公開となっております。

釣鐘堂

又幕末の頃には清水寺の住職月照上人と西郷隆盛がしばしば勤皇の
謀議をこの清閑寺の「郭公亭」の茶室で行ったともいわれております。
その茶室は鐘楼堂の上にあったそうですが平成3年に解体されてしまった
そうです。

風景
              要石

ここからは京都の町が扇を開いたような角度で眺望されその前に「要石」
名付けられた石があります。
この石に両手をあてて願い事をすればその願いが叶うといわれ、清閑寺へ
のお参りは願い事のお寺としても信仰を集めております。
また、本堂のお不動様は霊検の非常にお強い御不動様で願懸けの御利益
があるともいわれております。

明治・大正の頃洋画家黒田清輝の代表作「昔語り」は清閑寺の風景とこの寺の
僧の物語からヒントを得て描かれたという有名な逸話も残されております。

京の隠れた古刹 ”清閑寺”は是非一度は訪れてみたいお寺です。
季節は秋が紅葉が一段ときれいで最高の眺めです。
清水寺からは徒歩約10分くらいです。ちょっと淋しい道もありますので
女性の独り歩きよりも数人でお越しいただけるといいかと思います。
18 : 12 : 34 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
伏見の三十石船・十石船
2010 / 06 / 09 ( Wed )
伏見の三十石船(十石船)

豊臣秀吉が伏見に城を築き、京都、大阪、近江を結び首都圏としたことは
有名であります。
商工業者を集め、城下町を形成、また大阪を結ぶ淀川水運の発着点と
して伏見の町を栄えさせました。
その名残が今も大名屋敷の名前が地名として残されております。
(紺屋町、材木町、魚屋町、船大工町、伯耆町、備後町 丹波橋、肥後橋等)

十石舟3 十石舟 

江戸時代になると船に米が三十石積めることから三十石船と呼ばれる
快速船が登場いたしました。
朝早く大阪を出発、夕方には伏見に到着、折り返し夜には京都を出発して
翌朝早く大阪に到着するという快速船は当時の人々にとってはそれは誠に
スピードのある最新の交通手段として生活に密着いたしました。
全盛期には六十艘以上の船が就航していたようです。

その三十石船は濠川から宇治川を通って淀川へと就航していましたが
時代とともに鉄道が発達し、幕末から明治の頃、時代の変遷を見送り
その役目を終え近年は伏見の観光にこの十石船と三十石船が再現されました。
毎年桜が咲くころ4月初めから紅葉の頃11月30日まで伏見の酒蔵から
幕末鳥羽伏見の戦い跡とともに賑わいを見せております。

十石舟めぐり 寺田屋
                        寺田屋を望む

十石舟2高瀬川
高瀬川との合流地点


十石船は長建寺前より所要時間約55分 
弁天橋を出発して伏見の酒蔵月桂冠大蔵記念館の建物~蓬莱橋~寺田屋~
角倉了以の顕彰碑~三栖閘門(水位の違う濠川と宇治川を結ぶために建設
された淀川舟運の歴史遺産)の資料館を見学後又もとのコースを帰ります。

途中濠川は高瀬川とも、琵琶湖疏水ともつながっていることを初めて
知ることができました。

宇治川
三栖閘門(濠川)から宇治川への合流地点

宇治川との合流地さすがに宇治川に出ると流れも速く水量も多くなります。

昔から水のあるところには町が栄え、人が集まり、良質の水があるところには
お米が、お酒が、野菜がと生活がどんどん広がって栄えてまいりました。
京の町はやはり豊富な水によって、先人たちの灌漑に助けられ素晴らしい町へと
発展してまいりました。

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十輪寺
2010 / 06 / 07 ( Mon )
なりひら寺 十輪寺

十輪寺

平安時代の歌人『伊勢物語』の主人公でもある在原業平(ありわら なりひら)
が晩年隠棲したことから通称なりひら寺として都の人々に親しまれている
十輪寺がやはりこの西山大原野にあります。

山号は小塩山 ご本尊は延命地蔵菩薩(伝教大師作)
嘉祥3年(850年)文徳天皇の后(染殿皇后)の安産を願って創建されたそうで
地蔵菩薩の腹帯で皇后が無事安産されたことから腹帯地蔵ともいわれ
安産や子授を願うお寺としても信仰を集めております。

十輪寺本堂 十輪寺 迷わずの鐘

本堂はやはり応仁の乱で焼失してしまいましたが江戸中期寛延3年(1750年)に
再建され屋根は鳳輦形で天井にも彫刻が施され文化財にも指定されているそうです。
ご本尊の他に花山天皇が西国三十三番札所を巡拝されたときに自作の観音さまを
背負っていかれたという草分観世音、おいずる観音ともよばれる観音様が安置されて
います。

鐘楼は寛文6年(1666年)の建立で鐘は「不迷梵鐘(まよわずのかね」といわれ
文化財に指定されています。

十輪寺 塩釜 十輪寺 業平のお墓

在原業平は美男の代名詞とも言われ、恋多き歌人であったそうで、もとをたどれば
桓武天皇の子孫にもあたるといわれております。
伊勢物語の主人公ともされる業平は二条后藤原高子との悲恋は隠棲してから
この地で塩を焼いて紫煙をくゆらせ心を慰めていました。
ある時大原野神社に二条后が参拝に来られることを知り、かの地から思いを
託し塩を焼いて伝えたところ二条后は呼応するかのように悲しみ涙にくれた
といわれ、その塩釜が今も残され、毎年5月28日には業平忌が営まれています。

歌に ”大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思い出づらむ”
と詠まれています。

境内には業平のお墓も残されています。恋愛結婚成就の神ともいわれ若者は
お参りに訪れます。
古の昔は何とも時の流れもゆるやかで風流な暮らしがあったようです。

十輪寺にはなりひら紅葉もあり紅葉の頃は真っ赤に色づきそれは見事な
古刹です。

十輪寺へはJR向日町 阪急東向日より阪急バス小塩下車徒歩でまもなくです。
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三鈷寺
2010 / 06 / 06 ( Sun )
三鈷寺

善峯寺北門から少し下ったところに 三鈷寺があります。

三鈷寺 門

山号は西山ご本尊は佛眼曼荼羅
善峯寺の開創である源算上人が承保元年(1074年)に草庵をむすんで
北尾往生院とされたのが始まりといわれております。

三鈷

その後健保元年(1213年)に法然上人門下の證空(浄土宗西山派の祖)が
不断如法念仏道場として再興され三方の山並みが仏器の三鈷に似ている
ところから三鈷寺と改められました。
法治元年(1247年)證空上人死後当地に埋葬し、連生(宇都宮頼綱)が
塔を建て観念三昧院華台廟とされました。

応仁の乱により荒廃してしまいましたが、昭和26年五十二世台龍上人
により天台・真言・律・浄土の四宗兼学の本山として今日に至ります。

三鈷寺本堂

客殿からはやはり京都市内から宇治・木津まで一望でき江戸時代に書かれた
『都名所図会』に「二大仏七城俯瞰の地」と称され絶景をみることができます。
この客殿で休憩させて頂くことが出来ます。是非善峯寺とともにこの絶景を
お楽しみ頂きたいと思います。

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善峯寺
2010 / 06 / 05 ( Sat )
西山宮門跡 善峯寺

京都盆地を囲む三山・・東山、北山、西山は京の都の人々の智と個を育んで
きたところです。そこには古刹のお寺があり、鳥たちの棲家があり、古人の
暮らしがありました。

善峰古道 表門
 

その西山の麓、大原野の辺りに西国三十三所観音霊場の第二十番札所で天台宗
善峯寺があります。山号は西山 御本尊は十一面千手観世音菩薩。

平安中期 長元2年(1029年)に源算上人によってひらかれました。
源算上人は因幡国(鳥取県)に生まれ、比叡山横川で修行を積み47歳の時に当山
に小堂を建て、十一面観音を刻み本尊となし仏法を興隆されたそうです。
長元7年に後一条天皇より国家鎮護の勅願所とされ、善峯寺と名付けられました。

燈籠 本堂

その後後朱雀天皇の時に洛東鷲尾寺の十一面千手観世音菩薩像を御本尊とし、
白河天皇によって諸堂が建立されました。

また京都青蓮院の門跡の宮様が代々当寺の住職を務められたことから西山門跡
称されるようになったそうです。
しかし応仁の乱で戦火を受け衰退していたのを元禄年間(1688~1704年)
徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院によって再興され今日に至っております。

多宝塔 経堂
多宝塔                経堂

重要文化財に多宝塔(江戸時代)大元師明王軸(鎌倉時代)等があります。

遊龍の松 松の新芽

特にこの善峯寺で有名なのが ”遊龍の松” で天然記念物に指定されていて
日本一の松といわれております。
樹齢600年の五葉松で安政4年(1857年)花山前右大臣家厚公により名付けられた松
です。全長40mあまり、新芽もすくすく育っています。

お守り お守りの由来

善峯寺のお守りは ”落ちないお守り”だそうです。
かって阪神大震災の折、高速道路が寸断されおわや落ちそうになったバスの運転手さん
がもっていたお守りが善峯寺のお守りであったとか。
大層な御利益のあるお守りで、以来試験にも落ちないお守りとして人気を得ています。

桂昌院のお墓 奥の院 薬師堂

高台には桂昌院様のお墓があり、遺髪が納められているようです。
奥の院には薬師堂があります。桂昌院の両親が祈願された開運出世のお薬師様
がお祀されていて桂昌院(お玉の方)のように玉の輿に乗れるようにと多くの
参拝者を得ているようです。

瀧

青蓮の滝 石仏不動明王をお祀りする滝で竿石は青蓮院門跡より拝領された
ものだそうです。 

市内

善峯寺からは眼下に京都市内を一望することができ素晴らしいパノラマの
景色を満喫できるお寺です。

善峯寺へはJR向日町駅下車、阪急バス(善峯行き)で約30分下車徒歩8分です。
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