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安井金毘羅宮
2010 / 09 / 27 ( Mon )
安井金毘羅宮の櫛祭り

鳥居 本殿

京は八坂神社を南へ下がって行った、東山安井に安井金毘羅宮があります。
ご祭神は崇徳天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政

この安井金毘羅宮の起こりは
藤原鎌足が一堂を創建し、藤を植えて藤寺と号した。その後崇徳天皇はこの藤
を大層好まれ堂塔を修造された。治承元年(1177年)大円法師がこの堂を訪れた
際崇徳天皇の残影が表われ、往時の盛況を示された。
それをただちに後白河法皇にお伝えし、詔によって建治年間(1275年~77年)に
建立され光明院観勝寺とされたのが起こりとされています。

応仁の乱により荒廃し、元禄8年太秦安井にあった蓮華光院を当地に移設し、
崇徳天皇を、又讃岐の金刀比羅宮より大物主神と源頼政を勧請したことから
安井の金毘羅さんとして京では親しまれるようになりました。
第2次大戦後その名称を安井金毘羅宮とされました。


絵馬の道 絵馬

この安井金毘羅宮には江戸時代からの絵馬が奉納され多くが保存されています。

御神籤塚 御神籤塚2

安井金毘羅宮では今若い人達に人気を集めている縁切り縁結び碑(いし)
あります。
崇徳天皇が一切を断って国家安泰を祈願されたことに由来すると言われ
身代わりとなる形代に願いを書いて、円形に向かって表から裏へ(縁切り)、
次に裏から表へ(縁結び)をし、潜り抜けたら神札を石面に貼り付けて悪縁
を断ち良縁を結ぶというものです。


     くし塚

櫛祭り1 櫛


     櫛祭り3


櫛祭り行列1 櫛祭り行列2

櫛祭り行列3 櫛祭り行列4

櫛祭り行列5 櫛祭り行列6

祇園町に近いこの安井金毘羅宮で今日は「櫛まつり」が行われました。
櫛に感謝をするということから昭和36年から美容家によって櫛供養が行われた
のが始まりで昭和37年に久志塚が建立され、使い古された櫛を久志塚に奉納し
時代風俗の着付けと結髪の正しい伝承を目的時代風俗行列を交え継承されて
います。古墳時代~現代まで髪型はすべて自髪で結いあげられ、
奈良時代の高髻髷から江戸時代の元禄島田、武家の女性の髪型等々非常に
興味深い髪型でこれが伝承されていることは素晴らしいことです。

それにしても昔の人はこのような髪型で生活するの大変なことであったと
思われます。就寝のとき、洗髪など今では考えられないことです。

この後行列は東大路通から四条へ出て祇園コーナーへと繰り広げられました。

狛犬

境内には猛暑で遅れていた彼岸花が咲き誇っていました。
17 : 57 : 12 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
しょうざん芸術村2
2010 / 09 / 25 ( Sat )
しょうざん芸術村2


桜蘭

京の鷹ケ峰三山の麓に広がる35,000坪のしょうざん芸術村の中に
ある楼蘭という中国料理を戴きました。

お庭の見えるテーブル席はフランス料理かとも思える造り


前采 サーモン

スープ

チャーハン 豆腐プリン

この日は丁度お昼時でしたのでサービスランチを戴きました。

前菜はさんまの南蛮漬けと南京の素揚げ、南蛮漬けの酢味は食欲を
一層そそります。
主はサーモンとキノコ、スープは貝柱のスープ
上品なお味はやはりフランス料理風でした。キノコの香りもあり
油っこくなくとても口当たりのいいお味でした。
チャーハンはご飯がサラサラとして食べやすいご飯でした。
デザートは軟らか豆腐のジャスミン味

サービスランチは税サ別で1,500円でした。

テーブルコーディネートされた中華はとても上品な雰囲気とお味
で人気のあるところです。

しょうざん芸術村へはお車でも駐車場は300台のスペースがあり大丈夫です。

西大路通を北へ北大路からまだまっすぐ北へ入っていくと見えてきます。
市バスでは北1、土天井町下車すぐです。
18 : 46 : 34 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
しょうざん
2010 / 09 / 25 ( Sat )
 しょうざん光悦芸術村

鷹峯 玄関
鷹ケ峰三山                   玄関

お土居2 不動明王
お土居                      紙屋川の不動明王

京のお土居にそって紙屋川が流れています。
この紙屋川は京の都と丹波を結ぶ街道にそって北の鷹ケ峰三山
の麓の谷を流れています。そこは昔から天皇の綸旨に用いる紙を漉いた
ともいわれるくらい清らかな水が流れています。

その鷹ケ峰三山(鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰)を借景にした谷添いに
しょうざん光悦芸術村があります。

庭園 老木

1994年に光悦村として設立されたこの芸術村は
敷地面積35,000坪を有し、染織工芸館、染織ギャラリーをはじめ
庭、婚、食、遊、を表す諸施設が、整備された南庭と北庭を
挟んだ中にみごとに調和しています。

千寿閣 清水舞台風
 
食の千寿閣はもと鈴木松年画伯が京都双ケ岡の麓に建てた山荘を昭和34年
に移築されたもので、黒檀の床柱や欄間など数寄屋建築の粋を凝らした
すばらしい御座敷で京料理が供されます。
清水の舞台風に床が一段と高く造られているところもあります。

渓涼床 床

渓涼床は紙屋川の上に張り出した床で5月から9月末まで納涼床として
京料理を戴くことができます。
水のせせらぎと鳥の声を聞きながら、床で戴く料理は又格別の味が
します。

結婚式場2 結婚式場

庭園の中にあるゴウジャスなゲストハウスは結婚式場、重厚な造りと
インテリアは厳かな感じたいたします。

       chaperu.jpg

北欧風の教会は英国の聖オーガスティン教会の伝統を受け継ぐ教会
ここのステンドグラスは素晴らしいですが、普段は非公開です。

プール

プールはコバルトブルーと白のコントラストがまぶしいです。
以前このプールの上に舞台をしつらえて薪能が催されたことがあります。

体験工房

しょうざんといえば呉服界でウール着尺を開発されたことでも有名です。
1951年に開発されたウールは画期的なことで普段着として機能性と耐力性
に優れて非常にしたしまれました。

今では呉服はもとより小物や、洋装、アクセサリー等多角的に製造販売
されています。友禅の体験工房も開催されています。

茶室
          樽茶室

玉庵という茶室は紫野大徳寺の第10代管長の命名の茶室で現在も
茶会に使われております。

樽の中にしつらえられた茶室酒樽茶室は京都西陣の豪商の山荘に
あったものを昭和37年に移築されたものだそうで、霧吹きで
お酒を吹きかけお酒の香りを出して茶事が催されたそうです。

そのほかにも聴松庵という大徳寺の寸松庵を移築された茶室
峰玉亭というしょうざんの迎賓館、日本画家榊原紫峰の屋敷を
移築した紫峰邸、松峰邸等々やボウリング場等がみられます。

この広大な芸術村は四季折々の表情をたのしむことができます。

次回はこの食の中の楼蘭で戴いたお食事をご紹介いたします。
17 : 45 : 02 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
名月管弦祭
2010 / 09 / 22 ( Wed )
御戸代会(下鴨神社) 名月管弦祭

満月2 満月

9月22日、今日は中秋の名月にあたります。

お供え 芒

かって昔より人々は一年の収穫にあたり、田作り、畑作りによって
収穫した品々里芋、枝豆、お団子や秋の七草等を神前にお供えし、
収穫に感謝し五穀豊穣、家内安全、天下泰平を祈願する習わしがあります。

特に月の満ち欠けは田畑の暦となり、暮らしの指針として参りました。
夏の名残りからとりわけお月さまには心ひかれるものを感じ、この
中秋の名月には篝火をたいて、神前に雅な琴の音、雅楽などを奉納し
名月を愛でしばしのひとときを楽しむ風流が今も受け継がれております。

京の都ではいろいろな催しが行われております。

神事 

    神事2

下鴨神社では観月祭 「御戸代会」の神事と名月管弦祭が行われました。


ご神火2

午後5時30分から舞殿で神事
修祓の儀、神様にお供えをする神饌の儀、祝詞の儀、拝礼の儀等が行わ
れた後、ご神火をもって橋殿で火入れ式が行われ、篝火が焚かれます。

この橋殿の下にはみたらし川が流れている珍しい造りとなっています。

王朝舞 王朝舞2

火入れ式ご終わった後、橋殿において、尺八の奉納、琴の演奏
平安雅楽の方々の雅楽、下鴨神社の神職の方の王朝舞が十二単姿
で奉納されました。


雅楽 舞楽

更に舞楽「延喜楽」「倍蘆」「狛桙」が奉納され、まさに雅な観月祭が
昔のまま優雅に奉納されました。

今年は特に暑さが厳しく、名月の夜も28度と高い気温でしたが、
それでも満月が雲間から見え隠れし、雅な観月祭となりました。

23 : 01 : 50 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
蚕の社
2010 / 09 / 20 ( Mon )
京の三珍鳥居③ 蚕の社(木島神社)

     鳥居

京は右京区、四条大宮から京福電鉄嵐山線に乗って蚕の社で下車、
北へ少し行ったろころに蚕の社があります。 正しくは木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
といいます。
非常にむつかしい名前で地元の人は「このしまさん」とよんで親しんでいます。

ご祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、彦穂々出見命(ひこほほで
のみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊
(ににぎのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)


境内図 由緒書

創祀時期は不詳とされているが、『続日本書紀』大宝元年(701年)にその名を
見ることができるようで、「延喜式」には名神大社と記されていることから
その昔は伏見稲荷大社などと同じくらいの大社であったと考えられております。


本殿2

もともとこの太秦の地は秦氏が勢力をもっていたところで、その秦氏が水の神、
ムスビの神を祀り、平安時代は祈雨の神として信仰されていたようです。

蚕の社といわれる由縁は本殿右の摂社 「養蚕神社」が養蚕、機織り、染色に
力を発した秦氏にゆかりが深いところからそう呼ばれるようになったようです。


三柱の鳥居 糺の池

本殿横の鳥居をくぐると元糺の池というのがあります。
清水が湧き出る神聖な池で、夏の土用の丑の日に足をつけるとしもやけや脚気に
かからないと言われて信仰されていますが、今はお水はありません。
 
その池の決壊の奥に全国唯一の ”三柱の鳥居” があります。

創立年代は不詳のようですが、これは宇宙の中心を表し、四方より参拝する
ことができるようにということからこの形になったようです。
中央の石組は本殿ご祭神の神坐を表していると言われています。
現在の鳥居は享保年間に修復されたものだそうです。

奇妙な形をしていることから「太陽の計測」として三角形の方角から
太陽の出入りによって農耕の情報を得ていたとも、
又古代の磐座、禊の場であったともいわれ崇められてきたようです。

京の都は魔界が多く感じられる都であります。
13 : 55 : 08 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
厳島神社
2010 / 09 / 18 ( Sat )
京の三珍鳥居② 厳島神社(京都御苑)

表示 由来書

京都御苑の堺町御門を入ったところに厳島神社があります。
ご祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)祇園女御

この厳島神社は平清盛公が安芸国佐伯郡の厳島神社を摂津国兵庫築島に
勧請したのが始まりとされています。
後に故あって清盛公の母儀祇園女御を合祀されたとあります。

その後大永9年(1521年)足利義晴公が当地に遷された。足利家滅亡の後
徳川家康公がこの鳥居の古雅を大層気に入られ深く愛玩されたようです。

明和8年(1771年)九條邸のあった現在地に遷座され同家の鎮守社となった。
九條家は明治になって東京にに移り当社がそのまま残ったものであります。

鳥居   本殿

この石鳥居笠木、島木ともに唐破風形の珍しい形で昭和13年に唐破風鳥居として
国の重要美術品に指定されています。

拾翠亭 百日紅

又九條家の別邸の拾翆亭が残されていて、茶室が二室あり、金、土曜日には
公開されています。
丁度今、百日紅がこの夏は暑かったので最後の花をきれいに咲かせています。

 鴨2

拾翆亭の池には鴨の親子が日蔭を求めて気持ちよく泳いでいます。

京都御苑では朝から散歩の人が絶えなくこの厳島神社にも日課として
参拝されていかれます。
17 : 30 : 21 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
伴氏社
2010 / 09 / 17 ( Fri )
京の三珍鳥居① 伴氏社

鳥居

京の北野天満宮の末社に伴氏社(ともうじしゃ)という小さなお社があります。

この伴氏社は菅原道真公の母君を祭神とするお社で、
菅原道真公のの母君は大伴氏の出身であったことから伴氏社と呼ばれています。

かっては石造りの五輪の塔が置かれていたそうですが、明治の神仏分離によって
東向かいの観音寺に遷されたそうです。

このお社の鳥居が京の三珍鳥居の一つといわれております。

鎌倉時代の作で、台座に蓮の花弁が組まれているのと、額が鳥木の間に
割りこんでいる
のが特徴で、国の重要美術品に指定されているようです。

後の二つは太秦の蚕の社にある木嶋神社の三柱鳥居と京都御苑内の厳島神社の
破風形鳥居です。

20 : 29 : 36 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
釘抜地蔵尊
2010 / 09 / 14 ( Tue )
釘抜地蔵尊(石像寺)

京の千本通りの今出川を上って(北へ)いくと東側に釘抜地蔵尊
あります。

」門 釘抜き

京の町では釘抜地蔵尊(又は苦抜地蔵尊)と呼んで信仰を集めて
いますが、正式には家隆山、「石像寺(しゃくぞうじ)」といいます。 
浄土宗のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来
弘仁10年(819年)弘法大師により開創されたと伝えられております。

本堂

釘抜地蔵とは弘冶2年(1556年)油小路通上長者町に紀の国屋道林という
大商人が住んでいました。この道林が40歳の時何事もないのに両手が
非常に痛み出し、耐えがたく治療にも専念しましたが一向に治らない。
そこで霊験あらたかな地蔵尊の話を聞き願をかけ祈ったところ、
夢の中に地蔵尊が現れ「この痛みは前世の人の怨みから仮の人形に
八寸釘を打って呪われているため」といわれその釘を抜いて見せた。
眼が覚めた道林は手の痛みが不思議にも治った。
それから道林はこの地蔵尊を「釘抜地蔵尊」として日参し報謝したと
いう伝えからこの石像寺を釘抜地蔵尊(または苦抜地蔵)として京の町
では多くの信仰を集めています。

地蔵堂の背後には鎌倉時代初期開眼の重要文化財の石像阿弥陀三尊像
が安置され重要文化財に指定されています。

お礼札 地蔵尊

朝から多くの熱心な参拝者が訪れ本堂の周りを回りながら願掛けを
されています。願掛けをされている方には決して声をかけてはいけ
ないと言われております。
祈願者はお礼には2本の釘と釘抜を張りつけた絵馬を奉納します。

又境内には弘法大師が掘られたという京都の三井ともいわれる有名な
井戸があり、参拝者は冷たいこのお水を自由に頂くことができます。
夏は冷たいお茶の接待もされています。

境内の松は珍しい種で松皮が大きく素晴らしい枝を張っています。

苦を抜いてほしい方は是非釘抜地蔵尊に参拝されては如何でしょうか。

釘抜地蔵尊へは市バス46、59,206で千本上立売下車すぐです。
09 : 52 : 28 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
首途八幡宮
2010 / 09 / 11 ( Sat )
西陣の町 首途八幡宮


鳥居

京の西陣、智恵光院通の今出川を上った(北へ)ところに首途八幡宮
(かどではちまんぐう)があります。

ご祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、比売大神
(ひめのおおかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめみこ)(神功皇后)

看板

かって平安時代の頃、この地に金売り吉次の屋敷があったと伝えられ
その鎮守社と言われております。

石碑

この首途八幡宮は源義経(牛若丸)が承安4年(1174年)奥州出発に際して
道中の安全を祈願
し、吉次に伴われ藤原秀衡のもとへ旅立ったとも、
寿永年間(1182~85年)義経が平家追討の首途(門出)にあたり宇佐八幡宮を
勧請したのが始まりとも伝えられております。

境内には義経ゆかりの石碑がたてられております。

本殿

又、この地は大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、内野八幡宮
とも呼ばれていたようです。

今では旅行の安全を祈願するため、交通安全を祈願するために参拝される
方が多い神社であります。
14 : 32 : 17 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
重陽の節句
2010 / 09 / 09 ( Thu )
重陽の節句 烏相撲(上賀茂神社)

朝露

台風一過、連日の35度以上の猛暑が一休み、今朝は朝露がみられ
思わず感激のシャッターをきりました。
日蔭では微風が感じられる9月9日 今日は ”重陽の節句 ”です。

盛り砂 神馬

     斉王代2


この重陽の節句には毎年上賀茂神社(賀茂別雷神社)では京都市登録
無形民俗文化財に指定されている ”からす相撲 ”が奉納されます。


この烏相撲は初代天皇の神武天皇が東進される際、上賀茂神社の御祭神
の祖父「賀茂建角身命(かもたけつぬみののみこと)が八咫烏となって先導
をつとめ大きな功績をたてられたのでその功労に山城国の北部一帯を賜
り建てられたのが上賀茂神社で、この八咫烏の伝説と、稲等不作をもた
らす悪霊退治の信仰行事である相撲が行われるようになったのが始まり
とされております。
平安時代には歴代の皇女が烏相撲をご覧になっていたようですが、斎院
制度が絶えてから、皇女御天覧はなかったが、平成3年から葵祭の斎王代
がご奉仕されるようになったそうです。


お祓い 

午前10時から神前で重陽神事が行われた後、細殿の前で ”からす相撲 ”
奉納されます。

まず細殿に向かって左を禰宜方、と呼び、右方を祝方と呼ばれ
行事、刀禰、ちびっこ力士が夫々に分かれて着座します。
最初に関係者、参拝者のお祓いが行われます。

地取り 

次に禰宜代と祝代の神職が我が方が勝つようにと土俵上に
呪いをかけた地取り式が行われます。
その後ちびっこ力士の名簿が読み上げられた後、斎王代がこれを
確認されます。

烏飛び

次に白張姿の刀禰が西、東から出て、烏飛びをしながら細殿の前の
立砂に弓、太刀、扇、を立てかけ、扇を持つて禰宜方、祝方が交代で
カーカーカーと三々九度鳴きをし、三々九飛びして弓、太刀等を持って
退きます。

相撲 相撲2

ちびっこ力士は刀禰方、祝方夫々12人ずつ12番と3人抜きの相撲を
とります。小学3年生から6年生まで、とても可愛い純真な力士は
人気の的で大きな拍手をえておりました。

菊酒 菊酒2

重陽の節句は菊の節句でもあります。
本殿で菊花をお供えして無病息災を祈願した神事が行われ、9月9日の
9の陽の数が月と日で重なることから古くからこの日を災厄祓の日とされ
菊酒を飲んだり、菊のきせ綿で肌を拭うと肌がきれいになるといわれ

参拝者の皆様には無病息災を祈って菊酒が振舞われていました
まことに風雅な営みがなされていた古をしばし味わうことが出来ました。
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山名宗全邸宅跡
2010 / 09 / 06 ( Mon )
(西陣は歴史の宝庫) 山名宗全邸宅跡

碑2



京の堀川今出川を北に1筋上って西側に入ったところに、山名宗全邸宅跡とされる
石碑が残されております。

由緒がき2 碑

山名宗全は、かって京の都を焼きつくす戦を招いた応仁の乱の西軍を率いた
大将であります。

応永11年(1400年)に生まれ持豊名と付けられ後に宗全と号したと伝えられております。
当時但馬を始め数ケ国を領し、強大な勢力を持っていたそうで、その容姿も
赤ら顔であったので”赤入道”とも呼ばれていたようです。

応仁の乱は、将軍足利義政に子供がいなかったために、義政は弟義視を後嗣にしよう
としましたが、その後に義政の夫人富子に男子義尚が生まれたため、その将軍職
を巡って後継者の争いが応仁の乱(1467年)へと発展していきました。

義尚を擁する山名宗全は西軍、この邸宅跡に軍をはり、義視を擁する細川勝元
は東軍
上御霊神社のあたりに軍をはり、東西に分かれて11年間に及ぶ戦へと
発展していき、京の都は焼き尽くされるほど焦土化してしまったのです。

山名宗全は文明5年(1473年)陣中で没したと伝えられております。

 ”なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落ちる涙は ”
     (飯尾六左衛門尉常房)

という歌も残されております。

西陣の地名も宗全が西に陣を置いたことから西陣と呼ばれるようになったのです。

見過ごしそうな町家の小さな一画にこの碑が守り伝えられ、京の歴史を垣間見る
ことができます。

京の西陣は町に溶け込んだ小さな碑にも大切な歴史が込められております。
12 : 14 : 32 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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