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大徳寺 茶会
2011 / 10 / 29 ( Sat )
大徳寺 瑞峯院茶会

京都紫野の大徳寺は臨済宗大徳寺派の総本山。
正和4年(1315年)大鐙国師が赤松則村の帰依をうけ紫野に小庵を建立し
「大徳」と名付けたことにより始まります。

その大徳寺には22の塔頭があります。

千利休の帰依をうけたことにより茶道とのかかわりが深く殆どの塔頭に
茶室がいくつか存在し、俗に「大徳寺の茶面」ともいわれます。
22の塔頭は普段は一般公開されていないところが多いです。

秋の一般公開を機に、又千利休の祥月命日をかねて、今年は特に
国民文化祭で塔頭の各寺院で三千家の茶会が開催されております。

その塔頭の一つ瑞峯院でも茶会が開催され、およばれしてきました。

看板

瑞峯院は室町時代に九州豊前豊後の領主大友宗麟が大徳寺の第91世徹岫宗九禅師
帰依し、開山として創建されました。

扁額

大友宗麟はキリシタン大名として有名でしたが、22歳で得度を受け、
瑞峯院殿瑞峯宗麟居士の法名をもって瑞峯院と名付けられました。

扁額は後奈良天皇の宸翰といわれております。

唐門

桧皮葺の唐門は室町時代の禅宗方丈建築の遺構を止めるとして
重要文化財に指定されております。

芒

今年は気温が高く”芒”がまだ穂をきれいになびかせております。

千両

千両も赤い実をつけてきました。

お庭1

お庭は非常にきれいに整備されていて禅宗の特徴を表しています。


独坐庭1

独坐庭2

独坐庭4

重森三玲作庭の独坐庭

瑞峯をテーマにした枯山水の蓬莱山式庭園は、蓬莱山の山岳から半島
になり、大海に絶え間なく打ち寄せる荒波にもまれながらも雄々と
独坐していることを表す庭だそうです。


安勝軒3

十字架の庭

茶室安勝軒前の庭は閑眠庭と名付けられております。
大友宗麟はキリシタン大名であつたことから、この庭は七個の石組から
縦に四個、横に三個の石を配して十字架に組まれており、万民の霊を弔って
いるそうです。

安勝軒2

安勝軒の茶室は表千家惺斎宗匠の指示で逆勝手の三畳台目の茶室の
のしつらえになっております。

結界

掛け花

結界にも古木が使われ、懸け花はほととぎすと秋明菊が活けられております。

キシリタン灯籠

キリシタン燈籠といわれ、埋め込まれているあしのところにキリシタンの絵が
彫られているそうです。

この瑞峯院の茶室「餘慶庵」で月釜が懸けられました。。
おりしも28日は千利休の祥月命日(28日)にあたります。

秋の趣向
風炉は鉄の破れ、風炉先・・曳船絵、水差し・・信楽釉、
薄器・・薬器、 茶碗・・黒楽、茶杓・・宗旦作 さび介
お菓子・・錦秋

すばらしいお茶席でした。
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国民文化祭
2011 / 10 / 29 ( Sat )
第26回 国民文化祭

第26回国民文化祭が今年京都で開催されることとなり、今日その
オープニングの日を迎えました。

国内最大の文化祭典といわれる国民文化祭は各都道府県が持ち回りで
開催されています。

今年は特に東日本大震災に見舞われ、多くの人々の鎮魂の意味も含め
東北からもオープニングパレードに参加して頂き開催されました。

快晴のもと、午前11時に皇太子殿下ご臨席のもと御池通りの西洞院から
河原町迄の1.2キロを国内外から68団体、3,300人がそれぞれの
パフォーマンスを繰り広げての行進が行われました。

パレード1
10代から50代までの女性100人による着物姿の京おどりこ隊

パレード2

パレード4

パレード5

パレード6

パレード7

パレード8

パレード9

吹奏楽団、チアリーディングでは高校生のお兄さん、お姉さんのチーム
から小学生のチームまで、しっかり演奏しながらあるきました。
特に低学年の小学生は一生懸命が伝わってきて思わず拍手したくなります。

また福島県で開催される予定が震災で開催できなくなったことを受け
今回の文化祭に参加することでまた元気を取り戻してもらおうと招待
され、約100人の参加を得ました。

警察音楽隊

警察隊


oare-do.jpg

騎馬隊

京都警察音楽隊、騎馬隊もパレードに加わりました。

阿波おどり

四国からは高校生による阿波踊りが郷土芸能で披露されました。

盛岡

おいでよ!盛岡 元気ですよ と呼びかけます。
是非おとずれたいものです。  

さんさ踊り

盛岡の郷土芸能「さんさ踊り」です。

郷土芸能

郷土芸能3

海外

海外2

パレード11

海外3

海外からもオープニングに参加されました。

平成おんな隊

最後は午後2時に 平成 よさこい で締めくくります。
若く溌剌と元気いっぱいのよさこいは、なにかに打ち込む清々しい
輝きを感じます。

国民文化祭は11月6日まで京都府下のいろいろな場所でいろいろな催しが
繰り広げられます。


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菅原道真の腰かけ石
2011 / 10 / 27 ( Thu )
仁和寺 菅原道真の腰掛け石

御室にある仁和寺は真言宗御室派の総本山

宇多天皇によって建立されました。
仁和寺といえば五重塔や御室桜でよく知られております。

仁和寺五重塔


その仁和寺の境内に「菅原道真の腰掛け石」というのがあります。

道真腰かけ石

菅原道真は平安前期の学者でその才能を発揮し、貞観16年(874年)には
文学博士となりました。

当時の宇多天皇からも信任厚く蔵人頭に昇りました。
ところが藤原時平らにより大宰府に左遷されることになります。

この時道真は宇多天皇に直訴するため仁和寺に訪ねてきましたが
生憎天皇は勤行中としてなかなか会ってもらえませんでした。

待っている間この岩に腰掛けてひたすら待ちましたが、とうとう
天皇にはあえませんでした。

しかたなく道真は大宰府へと流されていき、大宰府で亡くなります。

水掛け地蔵

それからこの岩には不思議なことがおこりました。
この岩から清水が湧きだしたということです。

その水は現在も枯れることなく湧きだしております。
それでこの岩の上に石造りの不動明王をお祀りしこの不動明王を
「水掛け不動」と呼び、祠をたて参拝者の信仰を集めています。

水掛け不動

この水掛け不動は仁和寺の鐘楼の西にあります。

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竜安寺七陵
2011 / 10 / 26 ( Wed )
竜安寺七陵

地図2

竜安寺は鏡容池の奥に方丈があり、石庭があり、その奥に開山の
眠る義天玄承のお墓や細川勝元のお墓があります。

義天玄承の墓
開山義天玄承の墓

竜安寺細川勝元墓
細川勝元の墓 享年49歳と書かれています。

竜安寺の裏は衣笠山、妙見嶽、朱山、大内山、住吉山と連山が続きます。

広大な面積を有している竜安寺の裏に竜安寺七陵という御陵が
あります。

現在の竜安寺のある地は天元6年(983年)ころ円融天皇の勅願寺「円融寺」
あったところとされ、鏡容池はその園池であったとされています。
圓融寺が衰退した後、藤原実態が山荘を建て徳大寺を建立いたしました。
宝徳2年細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け竜安寺を創建いたしました。

この円融寺のあったあたりには平安中期以降四圓寺とされる
圓融寺、圓教寺、圓乗寺、圓宗寺が仁和寺の東、南に面して建立された
勅願寺がありました。

圓融寺は圓融天皇の、圓教寺は一条天皇、圓乗寺は御冷泉天皇、
圓宗寺は御三条天皇の夫々御願寺として建立されました。

これらの寺は天元6年より約87年間建立され、衣笠山を背景に堂塔伽藍を
並べ盛観な様相であったようですが、大火によって焼亡し、現在は
住宅地となってその面影もなくなりました。

が竜安寺の後ろの朱山には当時の天皇の御霊、七陵が祀られております。

竜安寺七陵1 竜安寺七陵2

竜安寺七陵3

後冷泉天皇円教寺陵

後朱雀天皇円乗寺陵

後三条天皇円宗寺陵

後朱雀天皇皇后禎子内親王円乗寺陵

七陵は後朱雀天皇圓乗寺陵、御冷泉天皇圓教寺陵、御三条天皇圓宗寺陵
一条天皇圓融寺陵、堀河天皇後圓教寺陵、後朱雀天皇皇后禎子内親王陵
円融天皇御火葬所の七陵で夫々円墳であるようです。

あまり知られていない竜安寺の歴史背景のご紹介です。
22 : 02 : 47 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
竜安寺塔頭 西源院
2011 / 10 / 24 ( Mon )
竜安寺塔頭 西源院の湯豆腐

石庭で名高い竜安寺は臨済宗の妙心寺派に属し、大雲山と号します。
宝徳2年(1450年)細川勝元が妙心寺八世義天玄承を請じて創建
しました。

その竜安寺の鏡容池の北岸に塔頭の雲光院、大珠院、西源院が
ならんでおります。

西源院門

その塔頭の一つ西源院では七草湯豆腐を戴くことができます。

入り口には○天下一と書かれた暖簾が架かっております。
角のない○は無限の象徴で、世の中の平和を願う円満の意味だそうです。

西源院中門

門をくぐると広々とした手入れの行き届いたお庭へと続きます。

西源院座敷

平屋のお座敷はお庭を挟んで中央に建てられております。

西源院玄関

玄関には秋の収穫、果物の柿が照葉と共に活けられております。

西源院庭園1

お座敷からは少しづつ黄葉に色づき始めた紅葉や松の緑が
池泉回遊式のお庭に映え、これから真っ赤に色づくお庭の様相を
思い浮かべることができます。

西源院庭園2

静かなお庭から鹿威しの音色が聞こえ、暫し心休まるひとときです。

西源院湯豆腐

西源院湯豆腐2

こちらの名物七草湯豆腐は木綿豆腐に季節の野菜が添えられております。
この時期は水菜、長芋、飾り麩、白菜が入っております。
一人半丁の湯豆腐は量もたっぷり味わえます。
おろし、ねぎの入ったおしたじで戴きます。

西源院湯豆腐3

湯豆腐にお膳がつきます。
胡麻豆腐、お野菜の白和え、山菜の煮びたし、湯葉、おくら、栗、揚げ麩の煮物
ご飯、香の物がつきます。

あっさりしたお味付けは精進料理の素材の味を充分味わう美味です。
健康によし、赤い手鉢に盛られた彩りも目のご馳走、ボリュームたっぷりで
満足!満足です。
こちらの七草湯豆腐は3,30円でした。

竜安寺ではこのようなお食事を楽しめるところもあります。
21 : 45 : 15 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京都御苑 閑院宮邸跡
2011 / 10 / 21 ( Fri )
京都御苑 閑院宮邸跡

平安京が営まれた当初京都の内裏(御所)は千本丸太町付近におかれていました。
天徳4年(960年)には大火に遭い、その後も度々火災に遭い、天皇はその都度
公家の邸宅を借りて住まいされていてこれを里内裏といいました。

現在の京都御所は土御門東洞院殿と言われた里内裏で安政2年に再興されました。

この里内裏が今の京都御所となり、現在地には当時公家の屋敷が200近く
ありましたが、明治になって天皇が東京に行かれて以後、公家衆も東京に
行ってしまわれたので御所は狐狸の棲家となってしまいました。

明治10年になって明治天皇がこの衰退を憂い、整備するようにとの沙汰が
あり御所周辺の宮家や公家屋敷が取り壊され御苑として整備市民の憩いの
場となりました。

その京都御苑の西南、堺町御門を入ってすぐ西に閑院宮邸跡があります。

閑院宮

閑院宮家は伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家一つで
東山天皇の皇子直仁親王が始祖として宝永7年(1710年)に創立され
ました。

明治10年東京に移るまでこの地で邸宅として住まいされていました。
その後は華族会や裁判所として使用されていました。

明治16年に旧宮内省京都支局が設置された際に現在の建物になりました。

玄関松


宮玄関

公家屋敷としての面影を残し、平成15年から3年がかりで改修され、現在は
収納展示室などとして一般公開されています。

主屋は木造平屋建ての四つの棟で構成されていて、収納展示室は書院造りと
なっています。


系図


系図2

系図は初代直仁親王・・・典仁親王・・・美仁親王・・・孝仁親王・・・
愛仁親王・・・戴仁親王・・・伏見宮親王・・・純仁親王と続きます。


猿の腰掛

御苑内の猿の腰掛

庭2

閑院宮邸の敷地面積は約9500㎡で築地塀に囲まれ、敷地内東南に
作庭当時(18世紀中ごろ)の遺構が残されて復元された庭園があります。

庭

庭3

閑院宮邸跡では様々な写真や出土品の展示や京都御苑の自然と
歴史についての解説も聞くことができます。
20 : 50 : 02 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
知恩院 友禅苑
2011 / 10 / 19 ( Wed )
知恩院 友禅苑

法然上人800年大遠忌が今知恩院で盛大に大勢の参拝を得て
行われております。

1133年現在の岡山久米郡で誕生された法然上人は「怨み、報復のない
全ての人が救われる仏の道を求めよ」という父の遺言により15歳の時
比叡山で修行、専修念仏を唱え浄土宗を立教開宗され1212年80歳で
亡くなりました。
その800年大遠忌を今年迎えております。

連日全国から信徒の方々が浄土宗総本山に当たる知恩院へ参拝され、
同時に東日本大震災の慰霊祭もあわせて冥福をお祈りされておられます。


参拝の帰り道、知恩院の中に友禅苑というのがあります。

友禅染めの始祖宮崎友禅斎生誕300年を記念して昭和29年に改修された
枯山水の庭園です。

宮崎友禅は江戸前期、扇絵を描く町絵師で、後に京友禅を考案された方
です。
京友禅は経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定されていて、華やかな
友禅染めは女性のあこがれの着物となりました。

かっては鴨川や堀川で糊伏せをして染められた着物の不要な糊を落とす
友禅流しは京の都の風物詩でありました。

その宮崎友禅斎をしのんで作られた庭園です。

友禅庭

庭園には東山の湧水が引き入れられ、池の中央には
高村光雲作の聖観世音菩薩像が建てられております。

友禅斉

庭園には宮崎友禅斎の画筆を持った銅像が置かれています。

友禅苑1

    友禅苑2

       友禅苑3

枯山水の庭園

華麓庵

裏千家ゆかりの茶席「華麓庵」です

茶室(国寿庵)

当山(知恩院)第86世中村康隆管長の白寿を記念して移築された
茶室「白寿庵」です。

これから紅葉の頃を迎えますと庭内の紅葉が鮮やかに色づき非常に
眺めのいい庭園です。

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正法寺
2011 / 10 / 10 ( Mon )
正法寺 声明「日想観」


京の東山、高台寺を北へ霊山歴史館の山手の急な階段を登りきったところに
正法寺があります。

もとは元慶8年(884年)孝行天皇が創建された天台宗の霊山寺が前身とされ
永徳3年(1383年)国阿によって時宗に改められたお寺です。

応仁の乱で荒廃していたが天正年間に諸堂が整備され、当時は14の塔頭を
数える広大な霊山派の総本山であったと伝えられております。
現在は開山堂を本堂とし、他一部が残されております。

山号は霊山、ご本尊は釈迦如来が祀られております。

正法寺2


正法寺3

その正法寺で今日(10日)午後5時から正法寺夕陽プロジェクト主催で第26回
国民文化祭京都実行委員会の後援を得て、声明「日想観」が催されました。

日想観

日想観は浄土教の経典の一つ『観無料寿経』の中に出てくるとされ
お釈迦様の説法の一つで、西方に沈む太陽の彼方に浄土を観じ、極楽浄土王寺
では、人々が目隠しをして西門から鳥居に進み、うまく潜り抜けられれば
極楽浄土の前兆であるという習慣があると示されたものだそうです。

この日想観が400年振りに昨年再興され今年で2年目にあたるそうです。
そして今年は第26回国民文化祭が京都で開催されるのにもちなみ
国民文化祭実行委員会の後援で開催されることになったと説明がありました。

この地からは、京都市内が一望され、西に陽が傾き始めるこには
西国浄土を感じさせてくれる絶好に地理に恵まれております。


声明1

時宗の日想観には念仏声明が継承されているところから、本堂でお参りの後
散華をしながら、着座をされます。

散華

声明2

正法寺には榎に包まれたという榎に宿る不思議な光の玉が残されている
ところから、この不思議な力で東日本大震災の復興への祈りをこめて
声明が唱和されました。

日没2

太陽が西に傾き始め、山の彼方に姿を鎮めるころには幽玄の世界が醸し出され
ます。

演奏1

正法寺演奏2

陽が沈み、辺りはすっかり帳がおり虫の声だけが聞こえる静寂に包まれた
正法寺の本堂では朝倉彩さんの30弦のお琴を中心に、朝倉綾彩さん作曲
による「幽玄の月」「魂はどこに」「尊き感動」がチェロ、琴、打楽器を
交え演奏されました。
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知恩院
2011 / 10 / 05 ( Wed )
知恩院 法然上人800年大遠忌

京の浄土宗の総本山「知恩院」は正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。
法然上人が東山大谷の吉水に設けた坊舎に始まります。
法然上人が建暦2年(1212年)没後弟子の信空が廟堂を建立、幾多の変遷の後
豊臣秀吉や徳川家康の援助を受け壮大な伽藍が形成されました。

元和5年(1619年)には御陽成天皇の第八皇子直輔親王が良純法親王と号し、
初代宮門跡となりました。

その開祖法然上人が入滅されてより今年は800年という記念遠忌の年を迎えます。
当初は春にその記念の大遠忌が催されることになっておりましたが、東日本大震災
により秋に延期され、10月2日から10月25日までの日程で始まりました。

大遠忌

大遠忌には全国各地から檀信徒の方々が日々参拝されます。

三門

三門2

徳川第2代将軍秀忠公の命により建立された三門は国宝に指定されています。
高さ24m、横幅50mという壮大な三門で、京の三大三門とされています。
他は南禅寺の三門、東福寺の三門(国宝)

その三門を潜って境内へと入ります。

本堂1

三門を潜ると大殿っと呼ばれる御影堂の勇姿が目に入ります。
寛永16年(1639年)に徳川家第三代将軍家光公によって再建されたお堂は
国宝に指定されています。

内陣には法然上人をお祀りし、ここで大法要や法話が行われます。
一般参拝者も法話を聞くことができます。

勢至堂

御影堂からさらに高台へ石段をのぼっていくと勢至堂に参ります。

ここは法然上人が承元元年(1207年)弟子の住連坊、安楽房が官女を出家
させた咎により後鳥羽法王の怒りをかい土佐に配流されて、建暦元年(1211年)
に帰洛してから終焉をむかえられるまでこの辺り大谷禅房に住まいされていた所です。
知恩院の建物の中でも最古の建物となっております。

現在はご本尊には勢至菩薩が祀られていて勢至堂と名付けられています。
堂内正面には「知恩教院」とい後奈良天皇の宸翰の額が掲げられていて
ここが知恩院の発祥の地ともなっています。

ここでも多くの参拝者の方々がお参りされていて、法話が行われています。

廟堂

勢至堂の上には法然上人の遺骨が納められている廟堂があります。
現在の廟堂は寛永18年(1613年)常陸の国土浦城主松平伊豆守によって
再建されたものです。

参拝


参拝2

この廟堂でお導師始め、随僧の方々による参拝式が儀式に則り参列を
なして行われています。

法然上人の遠忌は江戸時代中期より500年忌から受け継がれ節目によって
盛大に行われている伝統的な法要で、今年は特に800年という大きな
節目を迎えました。

この遠忌の間には今回の東日本大震災によって罹災された方々の供養の
法要も行われることになっています。御冥福をお祈りいたします。
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石塀小路
2011 / 10 / 04 ( Tue )
京の通り ”石塀小路”

京の町並みの魅力は、寺社の名勝はもとより、京町家が醸し出す町並み、
又緑が一体となって東山借景とした風景、三方を山で囲まれた伝統的な風景が
保っているところにあります。

京都市は町並景観保全のため昭和47年(1972年)に「特別保全修景地区」制度
を設けました。

建物そのものを保存するのではなく、外観デザインの伝統的様式を継承する
方法が採用されました。

保全地区における幾つかの典型的な伝統的外観様式をみつけ、それを基本とした
各戸の改修や建て替えを行っていくという方法です。

その最初の指定地区とされたのが清水の産寧坂です。

高台寺に続く「ねねの道」道も指定地区となっております。

行燈

高台寺の前、ねねの道に石塀小路と書かれた行燈が屋根に掲げられております。

小路1

この石塀小路は産寧坂伝統的建造物保存地区に含まれております。
道を入っていきますと、数寄屋風の瀟洒な家並みが続きます。

この辺りは明治時代に個人が開発した住宅地で先は八坂神社へと続きます。
土地を溝のように削って道を通し、石垣を連ねているのが特徴です。

路面の石は京都市電が廃止された後の敷石が敷き詰められております。

小路3

石塀が高く積まれていて、石塀小路の名前もここから付けられたようです。
突き当りかと思えば、その先に道が折れて敷かれていて、先に何があるのかと
興味が高まります。
この辺りは料亭が多くまさに一見さんではなく、旦那衆が訪れるところです。

小路4

左に曲がったり、右に曲がったりしながら進んでいきますと角を曲ったところに
一軒の宿屋があります。
名は ”田舎亭” テレビのサスペンスドラマや、いろいろな撮影場所として
登場するところです。
なかなか地元の人でもここにあることは知られていないところです。
風情のある旅館で小説家や映画監督などがよく訪れるところとも風聞して
おります。

小路5

田舎亭からさらに左に曲がっていきますと道はさらに細くなっていて、
この先を出ますと右側には八坂神社が見えてまいります。

ちょっとミステリアスな、それでいて風情のある小路は京都をより味わわせて
くれる通りです。
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かんのん市
2011 / 10 / 03 ( Mon )
霊山観音 かんのん市

秋晴れの3日、京の東山高台寺の隣に霊山観音があります。

観音2

高さが24mの鉄筋コンクリートでできているこの観音様は宗派を超えた
観音様で、第二次世界大戦の戦没者の冥福を祈るため昭和30年に創立された
ものです。
観音様の製作者は山崎朝雲氏で内部に十一面千手観音、二十八部衆の像を
お祀りされています。

ここからは京都市内が一望され、ねねの道から石部小路辺りにくると観音様が
東山を背にして陽に映え一段とその姿が浮かんでまいります。

萩

白萩

秋の七草、紅白の萩や芒が名残の花や穂をつけております。

不動明王

堂内の入り口には阿吽の不動明王が仁王立ちしています。
昭和38年に松久宗琳作と書かれています。

如意宝殊説明 如意宝殊

この場所は風水的に吉地であることが古くから知られているそうです。
その吉地に ”万物を生み出す力 「如意宝殊」”というのが置かれています。

説明には大宇宙の全ての根源は完全無欠の形「玉」で表現されます。
密教の秘法「能作性如意宝殊」が埋蔵されていた霊地で天地の気が集まる
不思議な玉に触れ願いを叶えましよう

というものです。多くの方願いを書いてがこの玉に触れていかれたようです。

愛染明王1

愛染明王2

境内には愛染明王がお祀りされています。
縁結びの神様・・・良きご縁がむすばれますようにお祈りいたします。

かんのん市

かんのん市2

この霊山観音では2009年10月より毎月3日にかんのん市が開催されています。
まだ規模は小さいですが、手作りの自慢の作品が販売されています。

京の都では、市といえば21日の弘法さん、25日の天神さんに代表されますが、
知恩寺の手作り市や、妙蓮寺の市などいろいろな所で催されております。
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瑞饋祭り
2011 / 10 / 02 ( Sun )
北野天満宮 瑞饋祭り


10月1日から4日迄北野天満宮のずいき祭りが行われます。

ずいき祭りは946年~967年村上天皇の時代に、菅原道真公が大宰府で彫られた
木造を西之京の神人が持ち帰り、お祀りし秋の収穫した野菜や果物をお供え
したのが始まりとされています。

芋茎神輿

瑞饋とはめでたいしるしをおくることとされています。

屋根部分

瑞饋神輿は野菜や花、果実で作られます。
屋根は上の部分は「唐の芋」下の部分は「真芋」の茎の舞部が使われています。
唐破風の屋根は格式を重んじています。

笠部分

四隅に飾られる傘部分は赤茄子、五色唐がらし、柚子などや麦わら細工
家紋を表した細工が彩りも鮮やかにつりさげられています。

こうして作られる瑞饋神輿は1607年豊臣秀頼が北野天満宮を再興した年に
芋茎で屋根を葺き、1802年には四方に簾をかけ唐破風の四方千木形の現在
と同じ形式の神輿が出来たようです。

一時明治8年には廃止となりましたが、明治23年に再興し、現在に至って
おります。

西之京の農家の方々が一年を通してこの祭りを継承していくため、丹精込めて
栽培された芋茎や千日紅、水稲、赤茄子などでこのお神輿が毎年作られます。

ご神体

1日は北野天満宮で鳳輩に御霊を移す出御祭が行われた跡、午後1時から
祭りの先導と勤める導山を先頭に獅子舞、梅鉾、松鉾 葱華輩、
3基の鳳輩、に宮司さん以下150人余りが行列をなして氏子町を練り歩き
御旅所へ向かいます。

神輿

神輿2

梅鉾

御旅所には午後4時頃に到着し、すぐに御旅所拝殿にて鳳輩が据えられ、
着御祭が行われます。

お旅所

着座

宮司さん以下祭りに御奉仕される方々が着座され、収穫のお供え物が
御神酒、お餅、鯛、昆布、乾物、野菜、果物等が次々とお供えされます。

お供え

お供え2

お供え3

お供え4

八乙女
着御祭が行われた後、氏子町内から選ばれた可愛い八乙女(やおとめ)による
田舞が奉納されます。

舞2 舞

5歳くらいから7、8歳位までのあどけない八乙女はお母さんの見守る前で
しっかり田舞を奉納していました。

4日ひは還幸祭が御旅所~北野天満宮へと行われます。
その時に瑞饋神輿も渡御します。

ずいき祭りは京の都の代表的な秋祭りです。
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古代の祭祀
2011 / 10 / 01 ( Sat )
古代の祭祀体験in一条戻橋

10月1日に財団法人京都埋蔵文化財研究所・考古資料館主催による
「古代祭祀体験in一条戻橋」という催しが行われました。

祭祀の状況

会場は一条戻橋の堀川散策道にて午後1時から長岡京東南境界祭祀遺跡
で土器などが発掘されたのを記念して、昔の祭祀を体験する催しが
行われました。

発掘された土器に似せて土馬・炊飯具などに赤米のご飯と塩がお供え
されております。
昔は宮中などではこのようにして祭祀を行ったようです。

受付 六位の衣装

会場には昔の官位の衣装と纏った係方の案内で形代体験の申し込みが受付
られます。

 パフォーマンス

会場では篳篥の演奏に合わせて葬送の曲ではあるが、勇壮で明るい調べであったため
使者が蘇ったといわれる雅楽「柳花苑」の曲にあわせてパフォーマンス「闇に・遊ぶ」
と題した前衛的な踊りが演じられました。

雅楽

奈良大学雅楽研究会の皆さんによる「平調音取」「越天楽」の雅楽2曲が演奏
されました。

その他にも狂言「一条戻橋珍問答」が学生さんによって演じられました。

形代

人形代には墨で顔や体を描き、悪いところ、気になる処に○や×印をつけて
その場所をなでて川に流します。

宮司さんのお話

下御霊神社の宮司さんによる祭祀の解説が行われました。

語り部

語り部の松村氏によつ戻橋にまつわる伝説や明治の頃の戻橋の風景
昭和に入ってからの戻橋、や堀川の隣に小川(こかわ)が流れていた様子
等興味深いお話がありました。

一条戻橋にまつわる伝説には
●渡辺綱が戻橋東詰めで若い女房に化けた鬼の腕を切り落とす話
●文学博士三善清行の葬列に熊野から駆け付けた息子の対面し一時蘇生した話
●平清盛の妻二位殿が娘の建礼門院の出産に際し橋占いを行ったが、この時
 12明が一条戻橋の下に隠しておいた十二神将の化身であろうと書かれている。

その他いくつかの伝説が残されているそうです。

明治頃

木造の橋が戻橋

昔の戻り橋

明治の頃の戻橋風景

昭和35年代

昭和30年代の戻橋の風景
横には小川(こかわ)が流れています。
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