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大光明寺
2012 / 01 / 30 ( Mon )
京の冬の旅シリーズ 大光明寺

臨済宗相国寺派本山 相国寺の塔頭で本坊の西に大光明寺があります。
山号を梵王山と号し、ご本尊は普賢菩薩。
こちらのご本尊である普賢菩薩さまは合掌されている珍しいお姿で
京都十三仏の一つとされています。
また、普賢菩薩さまは「辰」年の守り本尊で丁度今年廻り年「辰」
の人々の信仰を集めております。

大光明寺

大光明寺は暦応2年(1339年)夢窓疎石を開山として後伏見天皇の皇后
広義門院西園寺寧子(さいおんじやすこ)が天皇の崩御された後、その
菩提を弔うため伏見離宮の傍らに一寺を建立したことにより始まります。

門院西園寺寧子は光厳天皇、景仁親王、光明天皇の母として北朝を支え
られた方であります。

門院の孫に当たる伏見宮家の始祖栄仁(よしひと)親王が崩御され寺内に
葬られて以来当寺は伏見宮家の歴代菩提寺となりました。

度重なる京の大火により焼失、文禄3年には豊臣秀吉が再建、
元和元年(1615年)には徳川家康によって相国寺塔頭として再興されました。

現在の建物は、明治36年(1903年)塔頭の心華院、と当時天明の大火で焼失
していた大光明寺と、すでに廃絶していた常徳院の3ケ寺が合併され、
芯華院の寺域伽藍を改めて、大光明寺とされたものです。

又応仁の乱の発端となった火中の足利第9代将軍足利義尚の塔所でも
ありました。

大光明寺門

大光明寺玄関

お庭は枯山水、玄関前は普賢菩薩の道場とされる山の名にちなんだ
「峨眉山の庭」

大光明寺峨眉山の庭

本堂前のお庭は「心字の庭」、苔のある石組が心の文字をかたどっています。

大光明寺心字の庭

今回は辰年にちなんで「龍・虎」図の屏風や、伊藤若冲の「芭蕉小禽図」
雲錦蒔絵硯箱、黄瀬戸葵紋筒茶碗、室町第9代足利義尚将軍の「和漢朗詠」
等が公開されています。
 
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17 : 34 : 02 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生チョコのお店
2012 / 01 / 28 ( Sat )
Kyoto 生 Chocolat Organic Tea House

京都の岡崎、平安神宮の東に生チョコのティーハウスがあります。
正式には Kyoto 生 chocolat organic tea house

築100年以上の町家、改造されずにそのまま使用されている風情は
また趣があります。
手作りの看板、ご案内は素朴で和みを感じます。


看板

看板2

お庭の燈籠には蝋燭がともされていて、昔懐かしいほっとする”おもてなし”
の心を感じます。
当初の主はどのような方がお住まいされていたのでしょうか?知る由もありませんが
床の間も本床で違い棚があり立派な造りがなされております。

お庭

床の間

まず玄関に入るとホスト役の愛犬(セッターでしょうか?)のお出迎え、
そして中に上がると愛猫のミャンミャンが ”どうぞご自由に”と言わんばかりに
ストーブの前で寝そべって愛嬌をふりまいて迎えてくれます。
いずれもとてもおとなしく、人懐っこいです。


愛犬

猫

この生チョコのお店は2005年にオープンされたようです。
オーナーはもとは東京のホテルでフレンチのシェフをされていて、そ
の後ニューヨークの日本大使館でフルコースの料理担当をされていた方とか

帰国されてから特にチョコの部門にこだわりがありお店をもたれたようです。
この町家は奥様のご希望があって選ばれたそうです。

お店にはこんなことが書かれていました。

ショコラという とても素敵な映画がありました。
フランスのオスカー女優、ジュリエット ピノシュ演じる妙齢の女主人公が
幼い娘とともに、見知らぬ町にやってきて、手作りのチョコレートの専門店
を開いた夢物語・・・・・・・
でもここに紹介するのは本当のショコラ・パティシエのお話です。

チョコの 美味しいお召し上がり方 季節・気候によって解凍時間が変化します。
冬でしたら常温で10分ほど置いてから、秋・春は5分ほどを目安に
夏は冷凍庫から出してすぐお召し上がりください。

だそうです。

ご案内

生チョコと飲み物のセットを頂きました。(950円)
チョコは4種類、ベリー、抹茶、ブルーベリー、ハーブリキュール

いずれも濃厚な生チョコのお味ではありますが、けっしてひつこくなく
後味もよく美味でした。

チョコ

飲み物は たんぽぽティー たんぽぽを乾燥させてハーブティーにしたもの

たんぽぽティー

オーガニック紅茶

紅茶

オーガニックコーヒー

コーヒー

新旧混在の様相をもつ京の町に新しく開かれたショコラのお店です。


22 : 34 : 57 | 京菓子 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
長講堂
2012 / 01 / 28 ( Sat )
法華長講弥陀三昧堂(長講堂)

今、京の冬の旅シリーズで通常非公開の文化財が公開されています。
その中で、下京区の富小路五条下がるに長講堂というのがあります。

長講堂は正式には「法華長講弥陀三昧堂」といいます。
現在は西山浄土宗に属し、ご本尊は阿弥陀三尊

長講堂は寿永二年(1183年)後白河法皇が六条殿(法王の仙洞御所)内に持仏堂
として建立されたものです。

法皇は仏教に深く帰依され法華経を長期に亘り講読されたことにより
法華長講三昧堂と名付けられ、略して長講堂と呼ばれています。

また後白河法皇は「長講堂起請五ケ条」を定め、広大な荘園(長講堂領)を
寄進され経済的安定をはかられました。

法皇没後は皇女宜陽門院に譲られ、菩提を弔うため法皇のご真影を安置する
御影殿が建立されました。

しかし、京の度重なる火災のため洛内を転々と移り、室町初期には荘園も
切り離され衰退いたしました。

天正年間豊臣秀吉の京洛整備の際に現在地に移され、現在に至ります。

表門


茶室

法皇が日常礼拝されていたご本尊の阿弥陀如来様と両脇の観音菩薩・
勢至菩薩は定朝の流れを汲む作といわれ重要文化財に指定されています。

両脇の観音菩薩・勢至菩薩様は夫々片足を下ろした御姿で、これはすぐにも
衆生を救おうとされているお姿だと説明されていました。

御影殿にお祀りされている尊像は明暦四年(1658年)に勅封の
「後白河法皇御真影」をもとに、江戸幕府御用仏所の京仏師康智が制作したことが
胎内墨書に記されているそうです。
毎年4月13日の法皇忌法要中に開扉されるようです。



中門


本堂

後白河法皇は『過去現在牒』という直筆のものを残されていて、それには
歴代天皇始め、源義朝、平清盛、や祇王。祇女など法皇に因縁のある人々の名前が
記されていて縁のある人々の行く末を案じ念持仏に救いを求めたといわれております。

又、本堂には長講堂の塔頭であった法光庵の本尊・阿弥陀三尊像や
善導大師・法然上人像なども安置されています。

法然上人は禅導大師を阿弥陀仏の化身として敬い、人々は法然上人を勢至菩薩の化身
として崇めたことから、こちらの善導大師の胎内には阿弥陀仏の化仏が、法然上人の
胎内には勢至菩薩の化仏が祀られている珍しい祖師像が祀られております。

又聖徳太子16歳の像があり、阪神大震災の時に太子を移動された時にカラカラと
音がしたので調べてみたら、胎内から元禄15年に岩田屋吉兵衛という方が
家族や従業員の信仰堅固や健康を祈願して寄贈された書き物が見つかった
そうです。

本殿屋根

桧皮葺の唐破風の屋根には立派な菊のご紋が取り付けられております。

菊の御紋

京の冬の旅の非公開文化財特別公開は3月18日まで続けられております。
スタンプラリーもあり、三ケ所拝観してスタンプを集めると、
”ちょっと一服 ”券のサービスも受けられます。
10 : 51 : 32 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
平等寺
2012 / 01 / 25 ( Wed )
平等寺(因幡薬師)

京の中心街烏丸通高辻の東南に平等寺があります。
京の人々は因幡のお薬師さんと呼び病気平癒、癌封じの御利益として
信仰を集めております。

因幡平等寺は真言宗智山派に属し、ご本尊は薬師如来
このご本尊の薬師如来様は頭にお布団のようなものを被られている
珍しいお姿です。
普段は非公開ですが、京の冬の旅で今回初めて公開されています。

石柱


本堂側面

因幡堂平等寺の縁起は天徳3年(959年)従四位中納言の橘行平という方が
村上天皇の命で因幡の国(現在の鳥取県)に赴き神事をを済ませて京に戻ろうと
した時、急な病になりました。
行平は病気平癒を神仏に祈っていたある夜、夢の中に僧が現れ、「因幡の賀留津と
いうところに一つの浮き木がある。」といわれこの浮き木を海底から引き揚げたところ
これは身の丈五尺あまりの薬師如来でした。
行平は早速供養する草堂を建て薬師如来を安置しました。
すると行平の病は治り、このお堂を地元の人に任せ京に戻ることができました。

帰京した行平は又ある夜夢をみました。
一人の僧が現れ「我は西の国より東の国の人々を助けにやってきた。あなたには
宿縁があるから重ねて事を示す」といわれました。
行平は夢から醒めて西の門を開けさせると薬師如来の尊像が立っておられた。
びっくりした行平は早速この薬師如来を碁盤にのせ、屋敷を改造してお堂を建て
安置し、このお堂を「因幡堂」と名付けました。

この霊験あらたかな話が平安京で有名になり一条天皇の耳にも入り、天皇自身も
信仰され八ケ所の子院を建立され皇室の勅願所とされました。

源平争乱時代、高倉天皇が因幡堂のすぐ南「東五条院」に住まいされたため
因幡堂は御所に遠慮して南門を常に閉じていたためこの通りを「不明門(あけず)通」
と呼ばれ今日の不明門通の名の由来ともなっています。
又、高倉天皇は因幡堂に「平等寺」と命名されました。のが今日の平等寺です。

高倉天皇の御后は建礼門院徳子で平清盛の娘でもあります。
今年からNHK大河ドラマ平清盛がはじまりましたが、ここは清盛ゆかりのお寺でも
あります。

本堂

中世では因幡堂は「市のお堂」として六角堂や革堂とともに有名でしたが、
京の度重なる火災で焼失し、寺域も次第に小さくなり現在のお堂は明治初年(1868年)
に再建されたものです。
しかし、ご本尊の薬師如来はその火災の度にその厨子ごと運び出され現在に
いたっております。 一木造りです。


本堂2

因幡堂の薬師如来は信州善光寺の阿弥陀如来と京都嵯峨の清凉寺の釈迦如来と
ともに「日本三如来」といわれております。
善光寺の阿弥陀如来は、欽明天皇の頃難波・飛鳥から本田善光の背に担がれて
信州にはこばれたといわれています。
嵯峨清凉寺は然上人によって中国から持ち帰られた三国伝来の生き仏といわれて
います。
そして因幡堂の薬師如来も海を漂い三国伝来したといわれ「日本三如来」と
いわれているのです。

この因幡堂には高倉天皇が寵愛された小督局の愛用の琴や剃髪された時の
髪の毛を織り込んで書かれた光明真言、硯箱などが残されております。


雨だれ

急に雪景色となった地蔵堂

地蔵堂

観音堂には毘沙門天、十一面観音、如意輪観音、弘法大師、不動明王が
祀られています。

観音堂

因幡堂平等寺へは地下鉄烏丸四条下車、南へ5分の東側にあります。
3月18日まで公開されていて、拝観料は600円です。
23 : 21 : 42 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
西寺
2012 / 01 / 24 ( Tue )
西寺

京に都がおかれた、延暦13年(794年平安遷都の際に羅城門を挟んで、
東に東寺西に西寺が建立され平安京の二大官寺となりました。

弘仁3年(812年)東西両寺で最初の夏安居(修法)を行うことをきめ
東寺に空海僧都西寺に守敏僧都に勅賜されました。

寺域約四町といわれ東寺とほぼ同じ伽藍の規模をもちました。
東寺は真言密教として、西寺は鎮護国家の官寺として発展いたしました。

しかし正暦元年(990年)の大火で焼失、その後も度重なる大火で焼失
天福元年(1233年)の大火でついに消滅してしまい、現在はその西寺跡
として国の史跡に指定され、公園に残されております。

昭和34年以来発掘調査が行われ南大門、中門、金堂、廻廊、僧坊、食堂院
の遺構が確認されております。

その遺跡の近くに(南区唐橋)に興国山西寺という
浄土宗西山禅林派お寺がその西寺の名称を継承しておられます。

石柱

薬医門を潜って左手に開山堂が建てられております。

西寺


本堂の鬼瓦は獅子が逆立ちをした姿のものが置かれております。

鬼瓦

開山堂は比較的こじんまりとしたお堂です。

開山堂

中央に開基の守敏僧都が祀られております。
作は江戸時代のものといわれております。

又同じく開山堂には西寺のものを引き継ぐといわれる不動明王(平安時代)
もお祀りされています。

開僧守敏僧都

創建当時の西寺の瓦というのも残されております。
現在の西寺跡は京都市の所有地となっているようです。
今はなき、京の都の貴重なる遺跡です。

瓦


現在もこの西寺が残されていたならば、東寺と並んで荘厳な二大寺院となっていた
ことと思われます。
21 : 56 : 00 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
耳塚・鼻塚
2012 / 01 / 20 ( Fri )
方広寺 耳塚(鼻塚)

京都東山区の豊国神社と方広寺の前に、高さ約7メートルの墳丘が見えます。
小高い墳丘の上には五輪の石塔が置かれています。

これは「耳塚(鼻塚)」と説明されております。

16世紀末豊臣秀吉が朝鮮半島にまでその勢力を伸ばそうとした
文禄・慶長の役(1592年~1598年)にかかる遺跡とされています。

秀吉の輩下の武将は戦功のしるしである首級のかわりに朝鮮軍民
男女の鼻や耳をそぎ塩漬けにして日本に持ち帰ったそうです。
その持ち帰った耳や鼻を秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の
儀がもたれたと伝えられるのがこの「耳塚(鼻塚)」の始まりだ
と説明されております。

秀吉が惹き起した戦争は敗退に終わったが、戦役が遺したこの
「耳塚(鼻塚)」は戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を歴史の遺訓
として今に伝えるものであるとされております。

又一方では方広寺の大仏が鋳造される際、鋳型の土を埋めた
「御影塚」が後に訛って「耳塚」といわれるようになったとも
言われております。

いずれが正しいかは判りませんが、豊臣秀吉が遺した遺構の中の
「御土居」などとともに京都に現像するものの一つであります。

耳塚説明

塚の上に建つ五輪の塔はその形状がすでに寛永2年(1643年)に古絵図
にみとめられ、塚の築成から程ない頃の創建と想われるようです。

耳塚

この塚は史跡・方広寺石塁および石塔として昭和44年に指定されて
おります。
22 : 36 : 02 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日野家御廟所
2012 / 01 / 18 ( Wed )
日野家御廟所

親鸞上人は父、日野有範、母、吉光女を両親として誕生されましたが
ご両親と早く別れ、9歳の時に伯父範綱に連れられて粟田青蓮院にて
慈円僧正を戒壇として得度を受けられました。

その後比叡山で修学、北陸、関東などで巡行をつまれ90歳でその生涯を
とじられたといわれております。
その親鸞上人の生涯はこの日野からはじまりました。

おりしも昨年は親鸞上人の750回忌が東西本願寺で盛大に執り行われ、
今年の1月16日その命日にあたる日をもって法要が終了いたしました。

この間西本願寺では計65日間、115回の法要が行われ、140万人の信者が
訪れ、東本願寺では述べ60万人の方が参拝されたと発表されていました。

そのご先祖にあたる日野家の廟所がこの伏見区日野西大道町
「ひのやくし 法界寺」の近くにおかれております。

日野家墓所

日野家墓所3

親鸞上人縁のご紹介シリーズでした。
21 : 34 : 35 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日野誕生院 胞衣塚
2012 / 01 / 17 ( Tue )
日野誕生院 胞衣塚(えなづか)・産湯の井戸

日野誕生院の境内に親鸞上人が使われた産湯の井戸と胞衣塚
残されております。

えな塚 門

小さな門を潜ると白壁に囲まれた胞衣塚(えな塚)があります。
親鸞上人の「へその緒」が納められていると伝えられております。

えな塚石柱 
えな塚

親鸞上人が使われたといわれる産湯の井戸です。
小さな井戸で今は蓋のおかれお水があるかどうかは判りません。

産湯の井戸石柱 

産湯の井戸

産湯の井戸のそばに「田上菊舎句碑」が置かれております。

宗祖甲降誕地、流風無量水

 往く春も絶ぬ うぶ湯のながれ哉
        長門菊舎

田上菊舎(1753年~1826年)という方は長門の国(現山口県下関市)
生まれの江戸期を代表する女性俳人です。
親鸞上人の旧跡をめぐり諸国行脚に明けくれました。
晩年上人の誕生地に堂宇が建立されると聞きこの俳句と書画を
書いて奉納いたしました。
菊舎は堂宇の完成を見ることなく亡くなりました。

その後まもなくこの句碑が建てられたと伝えられております。

菊舎歌碑
23 : 16 : 46 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日野誕生院
2012 / 01 / 16 ( Mon )
本願寺 日野誕生院

法界寺の隣(伏見区日野西大道町)に本願寺別堂の日野誕生院があります。

今から約800年前承安3年(1173年)親鸞上人はこの日野の地で誕生されました。
父は日野氏の一族・皇太后宮大進日野有範、母は清和源氏八幡太郎義家の孫娘
吉光女(きっこうにょ)。
この辺りは代々日野家の所領であったと伝えられております。

日野誕生院は文政11年(1828年)に親鸞上人の誕生の地を顕彰して
堂宇が建てられ、日野誕生院とされたのに始まります。
当初は有範堂とも宝物堂とも呼ばれましたが、明治11年に日野別堂
と改名され、昭和6年には堂宇の一台改造が完成、落慶法要が行われ
日野誕生院と改名され、現在に至ります。

誕生院

本堂前庭は三方に回廊がめぐらされ、中央に金燈籠が据えられております。
中央三間は巻戸、両脇は蔀戸、ご本尊に阿弥陀如来が安置されています。

本殿

境内には親鸞上人の発心幼い頃の立像が置かれております。

親鸞上人像

親鸞上人が得度をされた時に詠まれたという歌碑があります。

「明日ありと思う心の あだざくら 夜半に嵐の吹かぬものかは」

歌碑

日野誕生院へは地下鉄東西線石田より京阪バス7号系統日野誕生院前下車
です。
21 : 06 : 10 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
法界寺
2012 / 01 / 15 ( Sun )
ひのやくし 法界寺

ひのやくしと呼ばれている文字色「法界寺」は地下鉄東西線の石田駅の近くに
あります。

真言宗の別格本山で ご本尊は薬師如来

藤原氏の北家にあとある日野家の菩提寺といわれ、弘仁13年(822年)
藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた伝業大師最澄が自ら彫られた
薬師如来の小像をお祀り、後永承6年(1051年)、日野資業が
薬師如来を胎内に納め、薬師堂を建立しお寺としたことにより始まります。

当時は観音堂、五大堂等多くの堂塔が立ち並んでいたようです。
現在は本堂と阿弥陀堂だけになっています。

京の町では日野薬師、乳薬師として信仰を集めております。

門柱

門

本堂2

阿弥陀堂は国宝に指定されております。
五間五面の桧皮葺、宝形造り、屋根には宝珠露盤がおかれております。

宇治の平等院鳳凰堂と時代は相前後して建立されたとあります。

阿弥陀堂には丈六の阿弥陀如来(国宝)がお安置されています。
寄木造、漆箔の阿弥陀様は藤原時代を代表する円満なお顔立ちと
いわれております。

薬師堂

薬師堂は法界寺の本堂にあたります。
当初建立されたものは焼失し、現在のものは明治37年奈良県竜田の伝燈寺本堂
を移築したものです。

内陣の薬師如来は西国薬師第38番霊場の本尊にあたります。
胎内に伝教大師作と伝えられる胎内仏が納められ、退治を宿す婦人の姿として
安産、授乳に御利益があるとして若い女性に信仰を集めております。
乳薬師と呼ばれるいわれでもあります。

この法界寺で毎年1月14日に京都市の登録民族無形文化財にも指定されております
「裸踊り」が行われます。

元旦より14日間本堂の薬師堂において、五穀豊穣、万民快楽、所願成就を
祈願して修正会(しゅうしょうえ)がおこなわれ14日はその結願日にあたります。

夜7時30分より精進潔斎した少年、と水垢離をして清めた青壮年の信徒が
2組に分かれて下帯だけで頂礼、ちょうらいと踊りを阿弥陀堂の前で
奉納いたします。

夜の門

夜の帳がおりたころ三々五々、地元の信者の方々がお参りに訪れます。

粕汁

寒さの中で熱い粕汁が振舞われ、心身を温めてくれます。

修正会

まず本堂で結願法要が行われます。

子供裸踊り

この法要の読経が続く間、阿弥陀堂では檀家、信者の子供達が精進して
小学生30人くらいが手を掲げて打ち鳴らしながら、下帯姿で寒さもなんのその
足を踏み鳴らして「頂礼、ちょうらい」と囃しながら踊ります。

大人裸踊り

大人青年壮年組は先ず井戸の水を被り身体を清めてから激しくぶつかりあい
ながら踊ります。身体からは湯気が立ち上っています。
気迫と力強さが伝わってきます。

この踊りに用いられた下帯は安産のお守りとして妊婦の腹帯として
使われるようです。

薬師堂内

結願法要の最後には参拝者一人一人に、僧侶の方から、般若心経を唱えながら
この一年の健康と所願成就が叶うようお清めの伝授が行われました。
老若男女夫々の願いをいたしました。

お清め

京の町に伝わる伝統行事です。
21 : 27 : 06 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
方広寺
2012 / 01 / 14 ( Sat )
方広寺

豊国神社のお隣に方広寺があります。
天台宗に属し、豊臣秀吉が天正14年(1586年)に高さ六尺三寸(19m)の
蘆遮那仏を安置して、大仏殿として創建されました。
開山は木食応其(もくじきおうご)。
文禄4年(1595年)秀吉は亡父母の法会(大仏千僧供養)を各寺院から
1000人の僧を集めて大仏経堂で行いました。

慶長元年(1596年)には地震、同じく7年には火災に遭い焼失しましたが
豊臣秀頼によって再建されました。
洛中洛外図屏風には南北45間、東西27間の仏殿とこれを取り囲む廻廊
がある様子は広大で偉容なものと描かれております。

またこの再建の際に鋳造された大鐘に「国家安康、君臣豊楽」の文字が
刻まれことが、豊臣家の徳川家への反逆の意思の表れととられ、
大阪夏の陣、へと発展、ついに豊臣家は滅亡となりました。

その後寛政10年(1798年)には落雷、昭和48年には火災などにより焼失し
現在は荒廃しております。

本堂

本堂は瓦葺で質素な造りとなっております。

鐘楼

鐘楼はひときわ大きく鐘もかなり大きなものが吊られております。

天井絵

鐘楼の天井画は鳳凰や天女の極彩色と思われる絵が描かれております。
どなたの作かは判り兼ねます。

鐘の文字

問題となった大鐘の8文字「国家安康、君臣豊楽」です。
他にもたくさんの文字が刻まれておりますが、よもやこの8文字がその
大阪夏の陣につながることになるとは豊臣家も考えられなかったの
でしょう。
時代の趨勢は厳しいものです。

鐘楼内部の模様

大鐘の内部の雲のような模様は淀殿の亡霊だといわれて恐れられたことも
あるそうです。

豊臣家縁の豊国神社、方広寺です。
13 : 25 : 20 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
豊国神社
2012 / 01 / 13 ( Fri )
豊国神社(とよくに神社)

京の東山、大和大路正面に豊国神社があります。通称「ホウコクさん」と
地元の人は呼んでいます。

ここでは豊臣秀吉をお祀りしております。
慶長3年(1598年)秀吉の遺命で、遺体を東山の阿弥陀ケ峰に葬り、翌年に
広壮豪華な社殿が山腹に創建されました。豊国大明神の神号を賜り、慶長9年
秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われました。
その祭礼では湯立てや、諸大名の馬揃え、田楽、猿楽、大和四座の能、神楽
などが約1週間に亘り連日奉納され、勅使の奉幣儀をもって祭礼を終了させた
と伝えられております。
その様子は「豊国臨時祭礼屏風図」に詳細に描かれているようです。

豊臣氏滅亡後、徳川幕府はその社号を廃止し、社殿も朽ちるにまかせたが
明治元年、新政府の命により新日吉神社(いまひえ)神社の神楽殿を仮本殿
として再興されました。
慶長13年に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営されました。

高台に据えられた豊国神社石柱は見事なものです。当時の権勢を表しております。

石柱

鳥居から唐門、本殿を拝します。

豊国神社

手水鉢には豊臣の紋、大きな五三の桐が刻まれております。

手水鉢

唐門は南禅寺の金地院から移したもので、伏見城の遺構と伝えられ国宝に指定
されております。

正面には桐の紋が配され、唐破風造り、桧皮葺の四脚門、随所に豪華な彫刻が
施されております。

本殿

豊国大明神の扁額が掲げられております。

豊国大明神

絵馬は「縁結び」の千なり瓢箪となっております。
藤吉郎と名乗っていた頃の秀吉と正妻「おね」とは当時珍しい恋愛結婚
以来お二人は仲睦まじく、天下を治める豊臣家を築きました。
その良縁にあやかって願いを絵馬に託し、縁結びの絵馬を奉納いたします。
沢山の瓢箪の絵馬が掲げられております。

千成瓢箪絵馬

豊国神社へは東山七条から三十三間堂前の大和大路を北へほどなくにあります。
21 : 09 : 48 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
半兵衛麩
2012 / 01 / 12 ( Thu )
半兵衛麩さん

京都は五条大橋の東詰南側に、京の老舗「京麩の半兵衛麩」屋さんがあります。
創業は元禄2年(1689年)約三百二十年の歴史ある麩屋さんです。

もともと麩は精進料理に欠かせない食材で、中国に渡った修行僧によって伝えられた
といわれております。

その麩はお寺や宮中に伝わり、江戸中期になってから町衆にも食されるようになった
ようです。
元禄2年に宮中の大膳亮で初代の玉置半兵衛氏がその作り方を覚え京の町で麩屋を
始めたのが起こりと記されております。

表玄関

表玄関2

店構えは出格子の町家風で落ち着いた風格のある造りです。
小屋根には鐘馗さんが祀られています。
鐘馗さんを祀るのは昔、玄宗皇帝が病に伏した時鐘馗が鬼を退治するのを夢見て
病が回復したことから、魔よけとして京都では鐘馗さんを小屋根にお祀りいたします。

井戸

京都は神聖な湧水「名水」が多く見られます。
その名水が京の伝統工芸に大きく寄与いたします。京料理に、お豆腐に、染め物にと
今日の京都の産業には欠かせない要素となっております。

家庭でも井戸は神様の宿る神聖な場所として大切にお守りいたします。

おくどさん

今ではもう殆どみられなくなった「おくどさん」
ご飯用、お湯用、お菜用と使い分けられ薪でおさんどんが行われてまいりました。
このようにきれいに保存されているのは珍しいです。

布袋さん

おくどさんの荒神棚には布袋さんが並べられてります。
京都では家を持つと初午には伏見稲荷に参拝して、商売繁盛を祈願しその帰りに
布袋さんを買って荒神棚に並べます。
最初は小さい物から大きい物へと順に七年間買い増していきます。
そして7年間続けると七福神に通じるとされています。
これだけ揃えられたということは、財が太り、災難から免れている証拠として
大切にしてまいりました。
ここでも大きな立派な布袋さんが置かれております。

坪庭

町家の特徴である坪庭、店間と奥とを区切る坪庭です。
これより奥向きの生活の場とされています。

半兵衛麩さんではこの奥は麩料理を戴くお部屋とされております。

客間

客間も豪華な造りがなされています。調度品も螺鈿の椅子や黒檀の机が
置かれています。

ここからお庭が眺められ、とても雰囲気のいい客間となっています。

庭

老舗のお正月飾りはそれは豪華で立派なものです。
親水が汲まれ、火を用いる大きな炭が中央に水引を懸けてお飾りして
両側にはお神酒がお供えされています。
上段には蒔絵が施されたが家宝の文箱が置かれております。
毎年お正月にはこのようにお飾りをされるそうです。

お正月飾り

お昼のみの麩尽くしのお食事を戴くことができます。
1月の松の内はお正月料理が出てまいります。

渕高

お正月のお屠蘇が振舞われました。
縁高にはよもぎ麩、粟麩、ごま麩の田楽、麩饅頭、はりはり生姜、きぬさや
ご飯、等々が彩りよく盛られております。
お味もさっぱりとやさしいお味です。

生麩のそぼろと酢の物

生麩のそぼろ煮と焼き麩の酢の物

生麩豆腐

生麩のごま豆腐仕立て

すくい湯葉

汲み上げ湯葉
ちょっと冷たいお料理はタイミングよく、口の中をさわやかにしてくれます。

生麩の椀物

生麩と生湯葉のみぞれ和え

湯葉と花麩の素揚げ

湯葉と花麩の素揚げ

蓬麩の白みそ雑煮

蓬麩の白味噌雑煮

湯葉と生麩づくしのお料理は夫々にお味が変えられているので、ひつこくなく
おいしくいただけました。
量的には十分満腹いたしました。お料理は一律3,150円です。

店舗

今では麩もいろいろな工夫を凝らされ、種類も多くおしゃれな販売方がなされて
いて、パーケージもおしゃれに工夫されています。
ちょっとお菓子のような感じがいたします。

生麩のいろいろ

生ものケースもきれいに整頓され、清潔感があふれております。
伝統と格式を重んじられ、家訓も「先義後利」、義を先んじて利を後にする。
常に謙虚で商いに傾注するからこそこの長い伝統が受け継がれているのでしょうね。
京都にはこのように数百年の歴史を有するお店がまだまだ沢山あります。
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三十三間堂
2012 / 01 / 11 ( Wed )
国宝 三十三間堂

京都東山七条に三十三間堂があります。
正式には蓮華王院といい、ご本尊は千手観音(十一面千手千眼観世音)

長寛2年(1164年)鳥辺山麓(現・阿弥陀け峯)の「法住寺殿」の一画に
平清盛が造進したのが始まりといわれております。

その後約80年後に焼失したが、文永3年(1266年)に再建されました。
室町・桃山・江戸・昭和と4度の大修理が行われ700年間に亘り現在に至ります。

本堂は入母屋・本瓦葺の総檜造りで約120メートルあり正面の柱の数が
33あるところから「三十三間堂」と呼ばれております。
本堂は国宝で、院政期における浄土教寺院の阿弥陀堂の空間構成を今に
伝える代表的遺構といわれています。


門柱

普門閣


本堂

堂内には1001体の観音像(檜材の寄木造)、中尊(国宝)は仏師湛慶82歳の
時の造像、また国宝の風神・雷神は鎌倉時代のもので躍動的で畏怖を
覚えるような表情、「五穀豊穣をもたらす神」として信仰されています。

又、国宝の28部衆像も目には水晶がはめこまれた「玉眼」はそれぞれに
迫真的な形相で迫ってくるようです。

1,001体の観音像は同じようにみえても夫々表情が違っていて、ゆっくり
見ていると一日かかりそうです。

何とも見事な仏像群を拝観することができます。

本堂2

東大門の両側にはお庭(池泉)がはいされております。

お庭

法然塔(名号石)
元久元年(1204年)時の土御門天皇が当院で後白河法皇の13回忌を営まれた時
法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼賛」という法要を行ったその時の
遺跡として建立されたものだそうです。

法然塔

後白河法皇記念碑

夜泣泉
御堂創建の翌年(1165年)ひとりの僧が夢のお告げにより発見した霊泉で
『古今著門集』には「いつも冷たく美味しく飲んでもお腹をいためることがない」
不思議な泉「極楽井」だと記されているそうです。
汲んでも尽きず、汲まない時もあまることのない不思議な泉だとも
夜のしじまに水の湧きだす音が人の”すすり泣き”に似ているところから
夜泣き泉と呼ばれ、いつのころからか傍らに地蔵尊が奉られ、特に幼児の夜泣きに
ご利益があるとかでお地蔵様のよだれかけを持ち帰り子供の枕の下に敷くいいとして
参拝を集めていると書かれています。

夜泣き泉

鐘楼

太閤塀
南大門に続く築地塀は太閤塀と呼ばれ高さ5.3m、長さ9mあります。
その塀の瓦に太閤桐の模様を用いたところから太閤塀と呼ばれるようになり
桃山時代の気風あふれる遺構と伝えられています。


太閤塀

太閤塀瓦

1月15日には柳のお加持が行われます。
柳のお加持は霊木とされる楊枝で観音様の浄水を参拝者に注いで無病息災を授けるというもので
結願法要に向けて7日間前行が行われ、この間浄水や楊枝のお清めが行われます。
この柳のお加持は特に「頭痛封じ」にご利益があるといわれております。
結願法要の日には境内が解放され、
古儀通し矢が行われます。
この通し矢は江戸時代に外縁で行われた競技で大勢の人がその腕を競って参りました。
現在は成人の女性が艶やかな着物に袴姿でその技を競い、京のお正月の風物詩と
なっています。

その通し矢が行われる会場です。

通し矢会場
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上賀茂神社の末社 橋本神社
2012 / 01 / 10 ( Tue )
上賀茂神社の末社 橋本神社

上賀茂神社には境内、境外あわせて16の末社があります。
その内のひとつに 「橋本神社」というのが細殿の左側(樟橋の南西詰)にあります。
桧皮葺の一間社流造の小さな神社です。

橋本神社

この橋本神社には衣通姫命(ソトオシノイラツコ)という神様がお祀りされています。
この神様は美貌で名高く、芸能守護、和歌の神様といわれているそうです。
その昔藤原定家も参拝され『徒然草』にも記されているようです。

上賀茂神社の御祭神が出現されるとき、”吾に会いたいなら葵を桂に掛けてお祭り
しなさい” とご託宜があり、葵祭が始まったとされるそうです。

そのご託宜にちなみ、つつの中に葵紋の神に願い事を託しちりめん筒に納めて
桂の木に掛けると願いが叶うといわれ、お正月に参拝された方々がきれいな
ちりめん筒に願いを託して掛けていかれました。
桂の木は色とりどりの花がさいたようです。

わが袖の ぬるるばかりは つつみしに 末積花は いかさまにせん
                    (式子内親王)
千早振 袖やしるらん もろかつら 一方ならす かくる頼みを
                     (後鳥羽院御製)
などの御歌が書かれていました。

願い筒

末社にもそれぞれに由緒があります。
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二条城
2012 / 01 / 09 ( Mon )
世界遺産 二条城

平成6年(1982年)にユネスコの世界遺産に登録された二条城は
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際して、その
居城として完成したものです。

着工前慶長6年にはこの辺りの町屋4,5千間(軒)もの立退きが行われた
と記録が残っております。
総奉行には板倉勝重が、大工頭には中井正清が作事を指揮し、縄張りは
築城の名手籐堂高虎があたったとあります。

その二条城の二の丸御殿国宝に指定されています。
現在の二の丸御殿は徳川三代将軍徳川家光のために大改造が行われた
時のものです。
唐門から車寄せ、
中は「遠侍の間」来殿者の受付をするところ「柳の間」「若松の間」とも呼ぶ
「式台の間」参上した大名が老中職と挨拶をするところ
「大広間」将軍が諸大名と対面するところ
「蘇鉄の間」
「黒書院」将軍と諸代大名が内輪で対面するところ
「白書院」将軍の居間、寝室
「式台 老中の間」老中が執務をするところ
「遠侍 勅使の間」将軍が朝廷から勅使を迎えるところ

などからなります。
夫々のお部屋には狩野探幽・尚信・興以によるな襖絵が描かれていたり
欄間の彫刻、襖の釘隠し、襖の引手、とその一つ一つがすばらしく
豪華絢爛たるものばかりです。徳川家の権勢の象徴ともいえます。

二条城は一度では紹介しきれない位多くの貴重な文化財の宝庫となって
おりますので、又別の機会にご紹介したいと思います。


二の丸御殿

二の丸庭園1

二の丸庭園

蘇鉄

国の名勝に指定されている二の丸庭園は今は冬枯れで木々も冬ごもりです。
又桜のころにその代わり方をご紹介いたします。
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諏訪流 放鷹術
2012 / 01 / 08 ( Sun )
諏訪流 放鷹術

看板


放鷹術、鷹狩というのは古くは中央アジアからキルギス、ヨーロッパへ、又
朝鮮へと伝わり、朝鮮から日本に伝わったとされるようです。

日本では仁徳天皇のころ大阪で鷹狩をしたのがが始まりとか
その後宮家から武家の人々が鷹狩を好んでおこなうようになりました。

京都では嵯峨天皇が鷹狩を好まれ、嵯峨辺り、渡月橋あたりで鷹狩が
行われていた様子が狩野永徳の屏風絵図にものこされているようです。
公家の鷹司家もまさに鷹狩に縁が深い宮家であったようです。

宮家から武家へ鷹狩が盛んに行われるようになり、徳川家が鷹狩を
取り仕切っていたのが、明治以降宮内省が取り仕切るようになった
そうです。
現在は第17代目の鷹匠室伏氏が頭領となり諏訪流放鷹術を継承されて
いるようです。

その歴史ある放鷹術が1月7日二条城の緑の園で新春特別企画として
おこなわれました。

看板2

鷹匠の衣装は皇室の正式な衣装で帽子(ハンチング)はどんな時でも
被ったままでいいそうです。

衣装は一番上には神取(道行コート)、その下に野半纏(動きやすいように
脇にスリットがあります)、野半纏は角帯で絞めます。
下は鮫小紋の脚絆、地下足袋といういでたちが正式な衣装です。
角帯にはさまれているケースは鷹の餌袋です。


17代目鷹匠

鷹は非常に臆病な猛禽なので、まずはその場の雰囲気に馴らすために園内を
2~3周くらい廻ります。これを「輪廻り」というそうです。


輪回り

本日は12人の鷹匠が揃い、これからショーが始まります。

勢ぞろい

鷹ショー10

もともと鷹はすぐには獲物を捕らえる術をショーとして見せることは出来ないので
訓練をしていきます。

最初は低空飛行です。地面スレスレに素早く飛びます。
鷹匠の叩く「カチカチ」といったカスタネットのような音を聞き分け飛行を
開始いたします。
鷹の餌はウズラのお肉が与えられているようです。

鷹ショー5

鷹ショー4

飛行の後は見事に鷹匠の手に戻ってきます。
手から手に戻す「振替」の術です。この時必ず左手に戻すように決められております。


鷹ショー7

高い所の鳩に見立てた獲物をとる瞬間です。この術を「振鳩」といいます。
一瞬のうちに獲物が仕留められます。

鷹ショー8

鷹ショー9

鷹ショー11

鷹匠3-2

鷹は精悍でその容姿はとても綺麗です。
現在ショーに訓練されている多くの鷹は海外生まれだそうです。
放鷹術は数少ない流派で鷹を大切に守りながらその術を継承されている
素晴らしい文化です。
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白馬奏覧神事
2012 / 01 / 07 ( Sat )
上賀茂神社 白馬奏覧神事


上賀茂神社の双龍の大絵馬に迎えられて、2012年辰年の新年参拝
1月7日は初卯の日でもあり、上賀茂神社では初卯際と、「白馬奏覧神事」
同時に行われました。

白馬奏覧神事は、年の初めに白馬(青馬)を見ると一年の邪気が祓われるという
故事にちなんで行われる宮中の儀式を神事化した「白馬節会」というものです。


辰絵馬

白馬

上賀茂神社には神馬(白馬)がいて、毎年7日にこの白馬節会が行われています。
本殿には七草粥がお供えされ、午前10時に本殿に白馬が曳かれ、お祓いをうけて
大豆が与えられます。
今日は参拝客が多いせいか白馬も落ち着かない様子でした。

神馬

本殿は現在第42回式年遷宮(平成27年)に向けて桧皮葺屋根の葺き替え工事
が行われております。
国宝の本殿は後世に守り伝えていくためにはこうして式年遷宮ごとに改修が行われて
いきます。

本殿

初卯の今日は厄除卯杖が飾られ販売されています。
厄除け卯杖はもとは中国から伝わり、邪気を払うために「剛卯」と称する角棒を腰に
吊るしたのが始まりといわれております。
この卯杖はお札の原社形態ともみなされ、祝杖や卯杖寿の名でも呼ばれ縁起物でも
あるそうです。
平安時代宮中ではこの卯杖を厄除けのお守りとして飾る習わしがあったのが、
やがて神社でも神事として定着してきたそうです。
この卯杖の形状は空洞になった空木を2本あわせ山立花(やまぶこうど)と
石菖蒲(せきしょうぶ)、紙垂(しで)を挟んで日蔭蔓を飾って作られる
ようです。一年お家にお飾りすると厄除けになるそうです。

卯杖 卯杖2

本殿にお供えされた七草粥は参拝者の方々にも500円で振舞われていました。
お餅が2個入ってボリュームたっぷりの七草粥は寒さの身体を芯から温めて
くれます。(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ)
上賀茂名物「すぐき菜」が添えられて、丁度マッチした塩加減がとても
美味です。

七草粥を戴いて今年も一年の健康を祈ります。

七草粥3

七草粥2

19 : 26 : 37 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
辰年
2012 / 01 / 06 ( Fri )
2012年 辰年

大災害から年が明け、新たな希望を見出す2012年の辰年の幕が開きました。
今年こそはと、しっかりと復興が果たせますように夫々の願い神に
お祈りをいたします。

北野天満宮も ”開運 ”の大きな絵馬が掲げられ龍が新たな息吹を
吹き込んで縁起を呼びこんでいます。

そして今日6日は早くも小寒です。これから一年で一番寒い日を迎えます。

今朝の新聞に寒に雪が沢山降る年は豊年で、寒に霜が多い年は夏日照りが
あるという。寒の入りから9日目に降る「寒九の雨」は世の中が良くなる
吉兆であるとの言い伝えがあると書かれていました。

京都は特に底冷えのする地といわれておりますが、そのピーンと張り詰めた
寒さの中に、冷水を組み上げ 一椀のお茶でおもてなしをする、流水の中での
寒稽古、名水から仕込まれる銘酒と心のこもったおもてなしの心が息づいて
いる地です。
今年も多くの人々に京都から優しい心遣いを発信していければと思います。

絵馬

辰年の絵馬は日展の画家「三輪晃久画伯」によるものです。

本殿2

八つ棟造り

北野天満宮の本殿は慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐勝元を奉行にして
再興されたもので、国宝に指定されています。
その造りも本殿と石の間、拝殿と楽の間は八ツ棟造り(権現造り)
代表的な建築といわれております。

四季を通じて多くの参拝客が訪れる神社です。

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