源為義の供養塔
2012 / 02 / 28 ( Tue )
源為義の供養塔

今NHKの大河ドラマ「平清盛」がいろいろな評価を受けながら進められて
平清盛が次第に盗賊征伐から力をつけていく様子が街の生活を通して
演じられております。

確かに批評の中では当時の生活の様子が荒廃した汚いという意見もありますが
当時はきっとそれに近い生活があったのではないかとも考えられます。

人物もそろそろ平清盛を中心とした系図が出てきて、よくみていないと
どの係累から出てきた人物か判らなくなります。

清和源氏の流れをくむ源氏の棟梁であった「六条判官」と呼ばれた源為義は
保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、為義の長男で後白河天皇方についた
源義朝の家臣に朱雀野で処刑されてしまいます。

保元物語では義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で
切られ圓覚寺に埋葬されたとあるそうです。

その源為義の供養塔が、七条千本の梅小路公園の近くにあります。

六条判官供養塔

民家の間の道を少し入ったところに、源氏ゆかりの地として説明書きが
建てられております。

清和源氏系図 源氏ゆかりの地

寺伝によればこの供養塔は「丹波街道七条通」を挟んだところに
祇陀林寺中興(1596年)のはるか昔から源為義公の墓があった
と残されているようです。
現在の五輪の塔(荒廃した石塔の一部を五輪塔の下に埋める)は
貞享三年(1868年)に再整備したものであるとのことです。

また明治45年(1912年)京都駅操作場の拡張工事に伴って現在の
中央卸売市場から現在地に移される際に、言い伝え通り、五輪塔
の下から水輪などの石塔の一部がみつかり、水輪を積み重ねるなど
して現在のような形になったと説明書きに記されておりました。

源為義供養塔

大河ドラマでは源為義は小日向文世が、長男の源義朝は玉木宏が
演じておられます。

骨肉の争いあり、放蕩のかぎりあり、愛憎渦巻く平安朝のドラマ
ですが、その歴史の足跡がこんなところにも見られて興味深いものが
あります。
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まちなか観光案内所
2012 / 02 / 27 ( Mon )
京都まちなか交通・観光案内所

観光都市京都は年間5000万人もの方々が訪れてくださる町ですが、意外と
観光案内所が置かれているところが少ないのが現状でした。

唯一京都駅に置かれていますが町中には見当たりませんでした。
そこで京都市の中心部の観光案内を充実させようと、咋年(平成23年)7月に
まちなかに2か所の観光案内所が開設されました。

学生が紹介役を務める無料案内所が烏丸四条下るに「COCON KARASUMA
観光案内所」として、今一つは河原町四条上るに無料の
「京都まちなか交通・観光案内所」の2か所です。

看板

河原町観光案内所は河原町の西側にあり、通りには看板も設置され認知度も
上がって参りました。
紹介役を務めるのは、世代継承活学社に登録の留学生、「京都SGGクラブ」会員
NPO法人京都観光文化を考える会・都草が担当しております。
また、都草がご一緒にご案内する周辺ウォーキングツアー(ウオーキング
ツアーは有料)も行われております。

土・日になると地図を広げ、観光地の案内や交通手段などの紹介で賑わいます。

河原町商店街振興組合さんは「観光都市・京都の中で、小粒だが宝石のような
案内所を目指す」と豊富を語っておられました。

より多くの方が気軽に訪れて利用して頂けるといいです。

案内所

今日(2月25日)も土曜日とあって案内所は賑わっておりました。

案内所2
21 : 56 : 52 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イノダコーヒー
2012 / 02 / 26 ( Sun )
イノダコーヒー

京の三条通堺町にイノダコーヒーがあります。
コーヒーへのこだわりがお客様をひきつけ人気をよぶお店です。

イノダコーヒーは初代猪田七郎氏が昭和15年(1940年)に珈琲の卸売を開始
昭和21年コーヒー店を始められました。
当時は終戦後間もなくで、珈琲は贅沢品として一般ではコーヒーの代用
ユリ根や大豆、芋等をいって珈琲もどきを飲んでいたようです。

猪田氏が珈琲店を始められたのは珈琲卸売をされていたこともあって
手元に珈琲豆があったことから始まり、当時珈琲一杯5円で販売されて
いた時代です。
当時は電気は一日の使用時間制限があり、お湯を沸かすのにコークスや炭
を使っていた時代にいち早く本物の珈琲が飲めると大層人気となった
そうです。

その当時から猪田氏は珈琲を御客様に出すには、お砂糖もミルクも先に
入れてから出されていたというこだわりがあったようです。

なぜかというと、お客様はお話に夢中になっていたり、新聞を読んでいたり
すると、最も美味しい時にお砂糖、ミルクを入れないでさめてから入れる
とせっかくのコーヒーがまずくなるからだそうです。

それとイノダコーヒー店は朝7時開店、午後6時閉店という
”早寝、早起き”錦市場の店主や会社の社長などが多く訪れ、
また猪田氏は画家でもあり、二科展では東郷青児賞も受賞されたことも
あり、交友も広く、著名な方が多く訪れました。
谷崎潤一郎、福田平八郎、堂本印象、高倉健等々、そんなこともあり
いつしかイノダでコーヒーを飲むことがステータスになったようです。

店舗

ここは三条店、三条通は明治のロマンが漂う建物と昔ながらの虫籠窓が
残る建物など新旧が程良くマッチした通り、お店から三条通を行き交う
人を眺めながらティータイムを楽しみます。

店舗2

現在は喫茶店は多種多様で、どんどん新しいお店が出てまいりますが
今もイノダコーヒーは当時のこだわりを守り、お客様に先ず、
お砂糖、ミルクを先にいれてよろしいかとお尋ねして出されています。

お店に入ると吟味されたコーヒー豆の香りが漂い、常連のお客様
はいつもの席でゆったりと、馥郁とした香りを楽しんでいかれます。

コーヒーのおともにケーキやサンドイッチも美味しく戴きます。

サンドイッチ
ミックスサンド


シナモン
シナモンブレッド
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錦天満宮
2012 / 02 / 25 ( Sat )
錦天満宮


京の繁華街、新京極通と錦通が交差するところに「錦天満宮」があります。

錦の天神様として地元では親しまれております。

長保年間(999~1004年)菅原道真の父是善(これよし)の旧邸を嵯峨天皇の
皇子源融の六条院に移し、歓喜寺(後の歓喜光寺)とした際に菅原道真をお祀
りする鎮守社としたのに始まると伝えられております。
天正年間豊臣秀吉の都市計画により歓喜光寺とともに現在地に移されました。

錦天満宮の鳥居は非常に珍しい形相で両さいどがビルの中に入り込んでおります。
ビルが後でできたのか、鳥居が敷地以外に大きいのか何とも不思議な鳥居です。

鳥居

今日は25日で天神様のご縁日にあたります。(道真公の誕生日6月25日、
崩御の2月25日)提灯に火がともされ賑々しく参拝がなされておりました。

提灯

本殿は唐破風造りの威風を感じさせる造りがなされております。

本殿

拝殿の両サイドには教養を備えた隋身さまがお祀りされていて本殿を
お守りされています。

隋身さま 隋身さま2

境内の地下30数mからは京の名水といわれる「錦の水」が今もこんこんと
湧いていて常に15~16℃に保たれ無味、無臭、無菌であるとか、多くの
方が参拝とともにお水を汲みにみえるそうです。

錦の水

錦天満宮では明治37年より毎月25日にはご縁日に遠州流の献花が行われております。
春の花々が取り合わせよく活け込まれておりました。

華道展

天満宮といえば学問も神様、願い事を書いて梅の樹につるして祈願いたします。

大願梅

錦天満宮の御神籤はからくり獅子が届けてくれます。
人が近づくと獅子が動きだし、お金をいれて占いたいところのボタン
を押すと獅子が出てきたお御籤を運んでくれます。

からくりのお神籤は全国で十個所設置されている第1号だそうです。

おみくじ

でてきたお神籤は小吉でした。 しっかり結んで納めてきました。

おみくじ2

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小松谷正林寺
2012 / 02 / 23 ( Thu )
小松谷 正林寺

東山区の渋谷通を東大路東入るに平家ゆかりの「小松谷正林寺」があります。
浄土宗鎮西派に属し、ご本尊は阿弥陀如来

小松谷正林寺は正式には「清涼山光明真言院正林寺」といい「小松谷御坊」とも称するようです。

当地は平安時代平重盛の別荘・小松殿があった地と伝えられております。
平家没落後はもと関白の九条兼実の山荘とされていたところであります。

九条兼実は法然上人に深く帰依し、度々法然上人を招き法談を行っていた
と伝えられ、1202年には兼実は法然上人を戒師として剃髪し出家いたしました。

法然上人もここに居住していたこともあり法然上人の寺坊「小松谷御坊」とも
なりました。
建永2年(1207年)法然上人が四国へ流罪されるときはこの寺坊から出立されました。

応仁の乱後一字廃絶しておりましたが、江戸中期義山・恵空が北野の正林寺を
移して中興いたしました。

享保20年(1735年)九条家河原御殿の建物が移築され本堂(大師堂)とされ、
1744年~1763年の間に阿弥陀堂、三門、鐘楼が完成いたしました。


三門

三門には「入門者上求菩提(門を入る者は 上菩提を求)」
出づ門者 下化衆生(門を出る者は下衆正を化す)
と書かれております。


三門3  三門2

大師堂の正林寺の扁額は九条尚保の筆で
 正面には「圓光大師(法然)像」法然上人自作のものと伝えられております。
 左右には、九条兼実公の像、「弁長像」(鎮西派の祖がお祀りされています。)


本堂

阿弥陀堂には阿弥陀三尊がお祀りされています。
今回は特別に撮影が許されました。

阿弥陀如来

ここ正林寺には「阿弥陀経石」が据えられております。
平家物語の中に書かれていることによると、平重盛は日本のみならず
中国の僧にも平家一族の安堵を祈願し、九州から妙典という船頭を呼び
黄金3,500両を出し、500両は船頭に、千両は育王山の僧へ、二千両は
宗の皇帝へ送り後世を弔ってほしいと言い渡しました。
その返礼に阿弥陀経石が送られてまいりました。
この阿弥陀経石は京の都には運ばれず、九州の宗像神社に置かれた
ままになっておりました。
この阿弥陀教石を模刻して有志が重盛の小松殿に因んで正林寺に
建立いたしました。
高さ2m、もう一基は百万編の知恩寺に置かれております。

阿弥陀経石

21 : 57 : 43 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
三嶋神社
2012 / 02 / 21 ( Tue )
子授けの神 三嶋神社

京の東山区馬町通本町東入るというところに三嶋神社があります。
ご祭神は大山祇命、火瓊々杵尊(ほのににぎのみこと)・木花咲耶姫命

後白河天皇の中宮・建春門院(平滋子)が皇子に恵まれないため、摂津
三嶋神社祈願したところ、高倉天皇を身ごもられました。
これを喜ばれた後白河天皇が平重盛に勅して三嶋鴨神社をこの地に勧奨され
社殿を造営されたと伝えられております。
以後安産の神として信仰を集めております。

2003年には秋篠の宮ご夫妻も参拝され、2006年に悠仁天皇が誕生されました。

また当社の神使いはウナギとされ、祈願中は鰻は禁食の慣わしがあるようです。
毎年秋にはうなぎ祭(鰻並びに生類放生会)が行われます。


社務所

駒札

扁額

社殿

絵馬の奉納は子授け祈願には2匹の鰻の絵馬を奉納、
めでたくお子が授かればそのお礼に3匹の絵馬を奉納するというものです。

絵馬

社殿の前には「揺向石」が置かれております。
1174年源義経が当神社に参籠した時、夢の中に白髪の翁が現れ「汝久しく
可からず、早々に奥州へくだるべし」との御神託がありました。
夢から覚めて再度参拝したところ、翁の立っていたところに石がありました
以来、「揺向石」と呼ばれるようになりました。
以来妊婦が石に手を触れお腹をなでると牛若丸のような立派な男子が授かる
と伝えられていてこちらも子授けの石として信仰を集めております。

揺向石

京の都には御利益の神様がたくさんいらっしゃいます。
23 : 12 : 52 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
平八茶屋
2012 / 02 / 20 ( Mon )
山ばな 平八茶屋

京の左京区にあって北白川通から修学院道を西に入った高野川沿いに
「山ばな 平八茶屋」があります。

この辺りは鯖街道と呼ばれ、京の都は海から離れており、昔はこの通りを
若狭から新鮮な魚(鯖など)をひと塩して運ばれた街道から名付けられました。
この街道を通って丁度平八茶屋のある辺りが一番塩味もしみこみ魚の一番美味
しくな辺りるいわれたところらしいです。

その山端に平八茶屋が天正年間の創業されたと伝えられております。

平安初期に比叡山延暦寺の第二祖慈覚大師が修行で巡拝される途中で休息
された時に湯と果物を供したことから始まったそうです。

当代から二十代まで遡ってご主人の名前が確認出来ることから天正年間
(1576年)をもって創業時期とされたという老舗です。


過去には著名な方々も多く訪れたといわれ、頼山陽の漢詩にも残され
岩倉具視や夏目漱石、徳富蘆花などにも縁があるそうです。

こちらの名物は「麦めしとろろ」
とろろ汁は比叡山の高僧が賞味されたり、また修行僧も都に下る際には
必ず平八で食されたり、また昔は街道を行き来する人々は、日が暮れない
間に商いを済ませないといけないことから、麦飯にとろろをかけてかき込んで
いったことからも名物となったそうです。

お店の前から「騎牛門」(きぎゅうもん)を潜って中にはいります。
この騎牛門は萩の禅寺から移築されたものらしいです。
両脇の老木の柱で支えられた何とも趣のある門です。

門

お庭は池泉回遊式で清水が流れております。
今は万両が赤い実をつけて、特に今日は雪の綿帽子を被っております。

庭2

お庭にそって個室がいくつかあって宿泊もできるようになっています。
お部屋に入ると高野川が眼下に見え素晴らしい景色です。
紅葉の頃は又見事に色づく紅葉を楽しむことができます。

高野川

この平八茶屋でお食事を頂く機会に恵まれました。

先ず暖かいお部屋に入って麦とろ饅頭、つくね芋を使った薯蕷の皮で粒餡を
包み込んで焼麦がのったお饅頭
ひと口で食べられる大きさが特徴だとか。丁度いい甘さの上品なお饅頭です。

麦とろ饅頭

お食事はお昼の懐石料理

先ずは三種盛り(サーモンのお寿司、長芋、アワビ)と菜の花のおしたし。
春を感じる彩りです。さっぱりとした素材をいかしたお味付けです。

三種盛り

うば玉、しいたけ、壬生菜のお吸い物 柚子の香りがとてもいいです。

このお吸い物の後お造りがでてきましたが、あまりに美味しいので写真を
撮るのを忘れてしまいました。
お造りは、とろ、ほたてのいくら添え、長芋でした。
とろは口の中でとろけるようでした。

吸い物

煮物の彩りも器とマッチして優しい味付けで山椒の香りがとても効いています。

煮物

鰆の幽玄焼、 魚の生臭さは全くなく新鮮な味が口に広がります。
器は織部で心憎い演出です。

焼き物

本日の一番、ゆり根饅頭の蒸しもの絶妙なお味です。
真っ白の器と思いきや、蓋の裏は見事な絵付けが施してあります。

蒸しもの

大豆の酢の物、 大豆の酢の物は初めての体験でした。
意外とさっぱりと美味しいものでした。

大豆の酢の物

極めつけは麦飯にとろろ汁です。
ご飯にかけてもよし、そのままとろろ汁を戴いてもよし、
青のりの香りがして、ご飯が進みます。

麦めしとろろ

フルールは苺、オレンジ、洋梨のワインゼリーよせ。
ゼリーの味が口の中に広がり、爽やかな味を楽しみました。

フルーツ

雪景色を楽しみながら、眼で楽しみ、味で楽しみ、感触で楽しみ
会話を楽しみ、まさに五感で味わう素晴らしいひとときでした。

山ばな平八茶屋は事前予約がひつようです。 電話は075-781-5008です。
23 : 57 : 30 | 京料理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
禅華院
2012 / 02 / 19 ( Sun )
禅華院(ぜんけいん)

修学院離宮の表総門から南に少し行ったところに禅華院の
少し変わった鐘楼門がみえてきます。

禅華院は臨済宗大徳寺派に属し、山号を解脱山と号します。
ご本尊は釈迦如来

もとは天台宗に属していたといわれております。
江戸時代寛永年間(1624年~44年)に大徳寺第170世清巌宗謂
によって中興されたと伝えられております。

門

鐘楼門は二僧部分に鐘が吊るされております。
江戸時代の建物で1826年修学院離宮の中御茶屋の建物が移築
されたのを修復したともいわれております。
珍しい構造です。

鐘楼門

鐘楼門から庫裏へと続きます。

本坊

境内には沢山の石仏がおかれております。
最も古い物は雲母坂地蔵で弥勒菩薩坐像と阿弥陀如来の二体で石仏の背には
大冶元年(平安時代後期)の銘が刻まれているようです。

もとはこの二体の石仏は雲母坂の登り口の音羽谷に建っていた雲母寺に
祀られていたものだそうですが、雲母寺は廃寺になり、当院に移された
ようです。

石仏

地神 大山弁財天というのも祀られております。

大山弁財天

石仏の後ろの石垣は穴太衆積みといわれる積み方の石垣だそうです。

石仏は大小様々で、年代も鎌倉時代のものからいろいろあるようです。

石仏2

今回は雪景色でしたが、境内には楓もあり秋には隠れた紅葉の名所でも
あるようです。
22 : 20 : 35 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
雪の修学院離宮
2012 / 02 / 18 ( Sat )
雪の修学院離宮

昨夜来の寒風に雪が降り積もり、今朝はあたり一面の銀世界となりました。
5cmの積雪を観測、京の街としては珍しい光景となりました。

ここ修学院あたりも道路の凍結がみられ東山連峰は雪の花が一面を覆い
尽くしております。

雪景色

修学院の地名はその昔10世紀後半の頃、修学院というお寺が建立されたのが
始まりといわれております。
南北朝時代以後このお寺は廃絶し、その地名だけが残されたと伝えられております。

その修学院に修学院離宮があります。
明暦元年から万治2年(1655年~1659年)にかけて後水尾上皇によって造営された
山荘であります。

この造営の前に上皇の第一皇女梅宮が得度をして現在の中離宮付近の円照寺に
草庵を営まれていたが、早くから上皇は別荘の地を探しておられこの円照寺の
地を好まれ、円照寺を大和の八嶋に移し、上と下からなる御茶屋を建設されました。

中の御茶屋は創建時にはありませんでしたが、上皇の第八皇女光子内親王(朱宮)
のために建てられたものであります。

上皇亡き後は、光子内親王は落飾得度してこれを林丘寺とされました。

その後この修学院離宮は荒廃しておりました。
明治18年に林丘寺門跡から境内の半分が楽只軒と客殿とともに宮内省に返還
され離宮となりました。
昭和39年には上・中・下の各離宮の間に展開する水田を買い上げ、付属農地
としてのこされ、現在はその農地は貸与して耕作を任されております。

総門前

修学院離宮の総面積は54万5千㎡を越える広大な離宮で上・中・下の三つの
離宮(御茶屋)からなります。現在は宮内庁の管理となっております。

見学は杮葺の御幸門から寿月観へと中に入ります。

御幸門

寿月観は文政年間に旧規の通り再建されたものだそうです。
建物は杮葺入母屋数寄屋風造りとなっております。

寿月観

時折まだ雪が舞ってまいります。

寿月観2

寿月観の扁額は後水尾上皇の宸筆だそうです

寿月観扁額

一の間は十五畳あり、一間半の床には琵琶床(琵琶を置かれた床)と飾り棚
があります。
飾り棚の戸袋には鶴の絵、下の地袋には岩と蘭が原在中によって描かれて
おります。
襖四枚には岸駒によって虎渓三笑の絵が描かれております。

寿月観3

寿月観から楽只軒(らくしけん)へ参ります。
楽只軒は光子内親王の朱宮御所の最初の建物でその後御所は拡張
されて林丘寺となりました。

簡素な中にも清楚な趣があり内親王の御所らしい建物といわれております。
手前の六畳には吉野山の桜が、奥の間には竜田川の紅葉が狩野探信によって
描かれております。

樂只軒
楽只軒と客殿をつなぐところに「網干の欄干」と呼ばれる漁村で網を干した
形をした手摺りの低い欄干があります。

網干の欄干

客殿には天下の三棚の一つといわれる霞棚があります。
(修学院離宮の霞棚、醍醐三宝院の醍醐棚、桂離宮の桂棚)花車を形どった
七宝流の釘隠など、女性のお住まいらしい華やかさといわれております。

霞棚1

霞棚2

樂只軒襖

杉戸には住吉具慶の祇園祭りの鉾の絵が描かれております。

樂只軒杉戸

もう一方の杉戸には鯉に網がかけられた絵が描かれております。
この絵の作者はわからないそうですが、網を書いたのは円山応挙だと
いわれております。
これには逸話があり、
お女中が見回りに参りますと、夜な夜な鯉がお庭の池で遊んでおります。
お昼にはまた杉戸に戻っておりますが、そんなことが幾晩か続いたため
お女中が訴えたところ、それなら鯉に網を掛けようと、円山応挙に網を
かけて貰った。というものですが、それでも時々網を破って抜け出した
ので網がところどころ破れております。
と伝えられているそうです。

樂只軒鯉の図

楽只軒から松並木を通って一番高く見晴らしのいい隣雲亭へと参ります。
この松並木は明治天皇が行幸された時に馬車でここをお通りになるのに
殺風景ではいけないので植えられた松並木だそうです。
特殊な松で背丈の低い選定された松並木が続きます。

松並木2

松並木から四段になった大苅込が見えます。
谷川をせき止めて浴龍池を作った土堤に石垣で四段に土留をした石積で
目隠しのため数十種類の常緑樹を混稙した垣根だそうです。

大刈り込み

上離宮の頂上に隣雲亭があります。
眼下に浴龍池を配し、洛北の山々が見渡せ、洛中の街並みが見え、
その向こうには西山が見渡せるパノラマの眺望は天下一の絶景であります。

その景色を眺望するため、この隣雲亭には襖絵も飾り棚も一切の装飾を
なくし、自然と向き合うお部屋となっております。
畳敷きのお部屋の隣は板の間で洗詩台と呼ばれる御歌を詠まれたお部屋と
なっております。
こちらの装飾は唯一軒下のたたきに埋められた「一二三石」のみです。
赤い石は鞍馬の石で、黒い石は鴨川の石といわれております。

隣雲亭2


隣雲亭一二三石

隣雲亭を降りてまいりますと浴龍池のまわりに出てまいります。
浴龍池は島の形を泳ぐ龍の姿に見立てたものといわれております。
浴龍池はお舟遊びの場で管弦や詩歌の会などが行われた所であります。

浴龍池2

浴龍池3

浴龍池の途中に中国的な龍宮城の門のようにも見えるのは千歳橋と呼ばれる
橋で、あの橋を渡ると千年長生きをするといわれる橋だそうです。

太鼓橋

楓橋を渡ると宝形造りの茶屋窮邃亭へ参ります。
文政年間に修復が行われたが、創建当時の建物で現存する唯一のものといわれる
窮邃亭はお茶室であります。
扁額はやはり後水尾上皇の宸筆で焼き物で作られて左右を水引で繋がれております。
猿が訪れ遊びまわり、障子や部屋を荒らすので西側の障子は締め切りにされています。


窮遂邸

窮遂邸2

窮邃亭から土橋(どばし)を渡って船着き場へと続きます。

土橋

船着き場の奥には昔は茶室が建てられていたようです。
お舟遊びの途中などに茶室でお茶を戴いて過ごされたようです。

船着き場

西浜に続く途中にはお待合がおかれております。
雪景色のなかに佇んでおります。

お待ち会い

ここから又もとの松並木を通って御幸門へと進んで一巡の見学が終了
いたします。
所要時間約1時間30分足らず、恐らく二度と見ることのできない貴重な
純白な雪景色の素晴らしい修学院離宮を興味深く楽しませて頂きました。
ご説明も非常に楽しくポイントを抑え、ジョークを交えながらあっという間の
見学でした。

京の都は本当に素晴らしいところです。
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瑞春院「雁の寺」
2012 / 02 / 17 ( Fri )
瑞春院「雁の寺」

相国寺塔頭で本坊の南西に瑞春院があります。
ご本尊は阿弥陀三尊仏

瑞春院は文正・文明年間(1466年~1484年)に亀泉集證和尚によって
瑞春軒として創建されたことによりはじまります。

この瑞春院は「雁の寺」ともいわれ
作家の水上勉氏が9歳の時に修行僧として入寺したお寺であります。

水上勉氏は福井県の大工の家に5人兄弟の次男として生まれ、小僧として
最初は瑞春院に修行にはいりますが、あまりの厳しさに飛び出しました。
その後連れ戻され、今度は等持院にはいりましたが10代で禅寺を出ました。
その後は職業を転々としながら、立命館大学文学部国文科を中退し作家
としても励みました。

この修行僧の時代に経験したことが実って昭和36年(1961年)『雁の寺』
直木賞を受賞、その後は次々と『金閣炎上』『五番町夕霧楼』と多くの作品
を世にだしてきました。

瑞春院は『雁の寺』の舞台となったお寺で、慈念と里子、慈海の愛憎のもつれ
が悲しい結末となって行く様が描かれているところです。

瑞春院の衝立には幸田春耕の雁の絵が、また襖絵には上田萬秋の雁の絵が
描かれております。

瑞春院駒札

通常は非公開ですが、瑞春院には京都で最も音色のいい水琴窟もあるようです、

茶室には表千家の不審庵を模して造られた「久昌庵」があります。

瑞春院2

一般公開されるときはぜひとも訪れてみたい塔頭の一つであります。

瑞春院3
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大谷御廟
2012 / 02 / 17 ( Fri )
大谷祖廟

京の東山区、八坂神社の鳥居前に大谷祖廟があります。

親鸞上人は弘長2年90歳で亡くなられ、東山延仁寺で荼毘にふされ大谷の地に
埋葬され、笠塔婆がたてらました。
その後親鸞上人の墳墓は末娘の覚信尼によって移され廟堂が建立されました。

慶長7年(1602年)本願寺の東西分立の際、親鸞上人はじめ歴代のお墓を
東本願寺境内に設けられました。

寛文10年東本願寺第11代琢如上人の時に現在の地に移し「大谷御坊」とし
明治5年(1872年)には「大谷管刹」に、明治9年(1876年)には「大谷別院」に、
昭和27年(1952年)には「大谷本廟」にさらに昭和56年(1981年)には「大谷祖廟」
にと改称されて現在に至ります。

その敷地はずいぶん広大で通路を東山に向かって上がっていくと立派な
四脚御門へと続きます。

石柱

四脚門

駒札

門を潜ると龍がからみついた手水鉢が見えてきます。
なんともおどろおどろしたような手水鉢です。今年は
辰年ですが、ここの龍は異様な感がいたします。

手水鉢

本堂は元禄14年(1701年)第17世真如上人によって建立されました。
御本尊は阿弥陀如来

本堂

太鼓堂はかっては2階の太鼓で時を知らせていたようですが、現在は
時報ではなく定例法話の会場として使われているようです。
ちょっと変わった建物です。

太鼓堂

大谷祖廟は真宗大谷派(東本願寺)宗史蹟第1号に指定されているようです。

こちらの墓地はとても広く、毎年春、秋のお彼岸には多くの参拝者がお参りに
訪れます。
新聞やテレビでもよくその状況が報道されているところです。
来月は春のお彼岸を迎えますが、又毎年の行事として今年も多くの方が訪れる
ことになります。

お墓
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水薬師寺
2012 / 02 / 15 ( Wed )
水薬師寺

京都の下京区西七条石井町(七条の中央市場近く)に水薬師寺があります。

今はその境内は幼稚園となっており、通常は非公開となっております

その水薬師寺は真言宗の単立寺院で洛陽十二薬師の一つの名薬師如来と
いわれております。
山号は塩通山 医王院と号します。
寺伝によれば延喜2年(902年)大池の中から薬師如来が出現したことから
醍醐天皇が理源大師(聖宝)に命じてこの薬師如来をご本尊として寺を開かせた
ことにより始まると伝えられております。
元弘の乱(1331年~1334年)で衰退したのを京都所司代板倉重宗が再興
その後は将軍家が尼寺として再興されたようです。

水薬師寺の薬師如来は毎年1月8日の初薬師のご本尊御開帳の日のみ
一般参拝ができることになっております。
また2月の第2日曜日には初護摩供養が行われます。

かつては境内にあった当寺の「清盛井」の水で平清盛が熱病に罹った時に
水浴をしたらたちまち平癒したことから、清盛が安芸の宮島の弁財天を
勧奨して当寺に弁天堂を建立したとも伝えられております。
(現在はその弁天堂は現存しておりません)

標記  石柱

本堂は幼稚園の中に入ったところにあります。

本堂

またこの水薬師寺がおかれているところは奈良の東大寺二月堂の「お水取り」
にも少なからず縁のあるところでもあるといわれております。

二月堂の「お水取り」は毎年2月の初めに新しい年の平和・厄除け・五穀豊穣を
祈願して行われる「修二会」の行事で752年実忠和尚によって始められてから
1200年余りの長きに亘って継承されている春への風物詩ともなっている行事で
あります。

そのお水取りの神水は3月13日の午前2時過ぎに二月堂の若狭井から
「香水(若狭水)」を汲み上げられますが、その採取される若狭井の水源地
は遠くは福井県の若狭鵜の瀬といわれております。
毎年福井県小浜市の神宮寺では3月2日に「お水送り」の行事が行われます。

その若狭から送られる水がこの水薬師寺の地下と通って二月堂へたどり
つくという言い伝えがあるそうです。

今日は2月15日、まだまだ寒い日がつづきますが、春は一歩一歩近づいております。
そして「お水取り」の日が近づくにつれ春の訪れを感じます。
今年は東日本大震災の復興が一日も早く進みますように祈願して「修二会」を迎え
たいものです。
お庭の蠟梅もそろそろ花を咲かせ始めました。
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長州藩邸跡(京都ホテルオークラ)
2012 / 02 / 14 ( Tue )
長州藩邸跡(京都ホテルオークラ)

京都の中心街、河原町御池に京都ホテルオークラがあります。

地下2階、地上17階の京都ホテルオークラは1994年に総合設計制度
を採用して地上60mの高僧ビルにかわりました。
当時はこの高層ビルの建設には反対意見も多数あり世相を賑わし
ておりました。

京都ホテル

この京都ホテルオークラのある辺りは江戸時代初期には長州藩
毛利氏
の藩邸が置かれていた所であります。

高瀬側の一之舟入の南側から御池通りまでの河原町から木屋町
に至る一体で、幕末維新の頃には重要な政治的拠点となって
おりました。

藩邸は当初南北の二か所に分かれ北側屋敷、南側屋敷とがありました。
元冶元年(1864年)の蛤御門の変(禁門の変)で会津・薩摩を
中心とした朝廷・幕府側に破れた長州藩は、自らこの邸宅に
火を放ち京都をのがれたといわれております。

その時の火はたちまち市中に広がり数日間燃え続けたと
言われております。

長州屋敷跡

長州藩邸跡

明治維新後この藩邸跡は官有となり明治初年には府下産業の
振興を図るため勧業場が設立されました。

当時の京都府知事は第2代の槇村正直氏であります。

勧業場は同地に京都府の勧業課出張所として開場され、
明石博高氏が中心となり、欧米の先進技術を導入した各種生産、
製造施設が設置されたり、舎密局(理化学及び化学工業技術の研究
普及を目的とした機関)女紅場など多方面にわたる勧業施設
が設置されました。

明治天皇が行幸された記念碑も建てられております。

勧業場

これらの施設は実験的役割を果たして明治14年に民間に払い下げられ
同場から勧業課も引き上げ後廃止されました。

その廃止された後に明治21年神戸の料亭常盤花壇の経営者前田又吉氏が
常盤ホテルを開業いたしました。
明治28年には東山の也阿弥ホテルの経営者の弟である井上善太郎氏
が買収して京都ホテルとなりました。
大正・昭和の天皇が即位される御大典の時には貴賓の宿泊所と
なるなど、歴史あるホテルであります。

この京都ホテルオークラの南側に長州藩邸跡の石碑が建てられて
おります。また西側には木戸孝允の銅像も建てられております。

近代建築の中に見逃しそうですが歴史が刻まれております。
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奥渓家
2012 / 02 / 13 ( Mon )
御殿医 奥渓家

京の上京区の天神道仁和寺街道上る、北町児童公園の向かいにちょっと趣の
変わった間口の広い茅葺の住宅が見えます。

この表の構えは長屋門で奥渓家(おくたにけ)住宅となっております。
奥渓家の長屋門と主屋は京都市指定有形文化財に指定されております。

長屋門

奥渓家とは大友宗麟の嫡男義統(よしむね)の次男奥渓以三中に始まると
伝えられております。
大友宗麟とはキリシタン大名として名を知られ、室町時代には筑前、豊前
の守護職として権勢をふるい、九州探題の地位を得た人物と言われております。

奥渓以三中は元和6年(1620年)東福門院の入内の時、侍医として供をし上洛、
一条烏丸に居宅を構えておりました。

代々医家で、東福門院亡き後別宅であった現在地に移り、奥渓家第四代から
第七代までは仁和寺の門跡御殿医を勤めていたと伝えられております。

駒札

この奥渓家の主屋は複雑な平面構成がなされていて、式台付の本玄関、
中玄関、玄関、台所、大戸口と出入り口がいくつもで構成されているようです。

寛文6年(1666年)から正徳6年(1716年)の間に建築され、幕末の頃には
ほぼ現在の姿になっていたようです。

長屋門2

長屋門は享保9年に焼失、同11年に再建されたもので戦後一部が取り壊されたものの
市街地に残る茅葺の門として価値が高く、主屋、長屋門ともに旧ごご典医の住宅
遺構として貴重なものであると記されております。

現当主は家伝の根元蘇命散および胃腸薬「たくま」を製造販売されているようです。

看板
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京料理 中村楼
2012 / 02 / 12 ( Sun )
ぎをん二軒茶屋 中村楼

八坂神社の南楼門の前に料亭の中村楼があります。

もとは東西に二軒あった茶屋が始まりで、八坂神社に参拝される人々に
腰掛け茶屋として始まったといわれております。

「都名所図会拾遺」に「その濫觴は年暦久遠にして詳にしれがたし
今より百八十年前、慶長の頃東にも建てて東西両翼の如し、これを
二軒茶屋という」とあるようで、東を柏屋、西を藤屋といわれたが
藤屋がなくなり、柏屋が中村楼と改められ今日に至るそうです。

玄関

当初は門前の水茶屋として、やがて豆腐の田楽や菜飯が名物となり
地唄「京の四季」には「粋も不粋も物かたい二本さしてもやわらこう
祇園豆腐の二軒茶屋」と唄われ、また小唄や新春の手まり歌にも
歌われるくらい賑わいをみせていたようです。

茶屋

こうして今日連綿と受け継がれている中村楼には二つの顔があります。
一つは江戸時代から門前茶屋の風情を残す店先の茶屋と、
もう一つは東山の斜面を利用した明治期の料亭茶屋の風情。

中村楼には庭園をめぐる十五軒の廊下で結ばれた建物に貴賓館
があり、尾形光琳の襖絵がしつらえられております。

二軒茶屋

昔ながらの茶屋はどこか和みのある風情が感じられます。

おくどさん

おくどさんが置かれ、当時はどこの店も井戸を大切にいたしました。
井戸から汲みあげられた清水がおくどさんの茶釜で沸かされ、
御釜から湯気をあげてもてなしをされた風景は今では唯一時代劇で
しか見ることはできなくなりました。
その時代劇も最近では少なくなり、時代、時代の生活様式が次第に
忘れ去られていくのは残念です。

井戸

窓

旧暦の1月7日は新暦では2月11日ころにあたります。
昔は旧暦で七草粥をいただいたものです。
店先には七草が飾られております。

七草

この二軒茶屋で御菓子と抹茶をいただきました。
古木に梅をあらわした、きんとんは程良い甘さでほっと一息です。

抹茶

今度は中村楼で名物の田楽を主にしたお食事を頂きたいものです。
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大将軍八神社
2012 / 02 / 11 ( Sat )
大将軍八神社

京の上京区、北野天満宮の南、一条通に面した所に大将軍八神社があります。

平安遷都の際に王城鎮護のために京都の四方に大将軍神社を祀ったのがその
始まりと言われております。

当初は大将軍堂と呼ばれておりましたが、応仁の乱後神社として復興し、大将軍社と
改め江戸時代中期に素戔鳴命とその御子八神と暦神の八神が集合して大将軍八神宮
と改められ、明治以後大将軍八神社と称され現在に至ります。

石柱 駒札

大将軍とは陰陽道でいう方位を司る神で、建築、移動、旅行などに関し、
方除け、厄除けの神として信仰を集めております。
平安中期から末期にかけて大将軍信仰が高まり、方徳殿には八十体の
大将軍神像群が立体曼陀羅様に安置されております。
それらは武装像であったり、束帯像であったり、童子像であり、国の
重要文化財として登録されております。

鳥居

本殿は八ツ棟権現造り

本殿

本殿2

本殿の隣に「招霊(おがたま)の木」の御神木がそびえております。

招霊の木 御神木

摂社は朱色に塗られた鮮やかな大杉神社(厄除け)などがあります。

大杉神社

摂社

明治のころに戦勝祈願として碇や火箸を納めたといわれたことによる
大きな碇が置かれておりました。

碇

今日2月11日は建国記念日で同社では午前11時から「紀元祭」が行われました。
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長楽寺
2012 / 02 / 10 ( Fri )
京の冬の旅 長楽寺

京の冬の旅で非公開文化財の特別公開がされている中の長楽寺

長楽寺は、丁度丸山公園を出たすぐの道を東山に向かって上がった突きあたり
にあります。

延暦24年(805年)に桓武天皇の勅命を受けて伝教大師(最澄)を
開基として、伝教大師が自作の観世音菩薩を本尊として創建され
ました。

長楽寺は歴代天皇の帰依も深く、秘仏を安置するお厨子は徳川秀忠の娘
である、東福門院寄進によるもので、龍神守護のご本尊にちなんで龍の絵と彫刻が
多く見られるものだそうです。ご本尊の観音様は秘仏として歴代天皇の即位の
時にのみ開帳されるそうです。

京の冬の旅


創建当初(平安時代)は天台宗の別院とされていましたが、室町時代
に国阿上人に譲られ、時宗(宗祖一遍上人)となりました。

明治39年には時宗の総本山の名刹七条道場「金光寺」が合併され今日に
至ります。

もともと広大な寺領を持ち桜や紅葉の名所として江戸時代後期の
歴史家「頼山陽」や文人墨客が多く訪れた所でもありましたが、
大谷廟建設に際して幕府の命により境内地領が裂かれ、明治初年
境内の大半が円山公園に編入されたようです。

駒札

長樂寺門

又長楽寺は文治元年(1185年)安徳天皇の生母建礼門院が壇ノ浦で平家が
破れ、安徳天皇と一緒に入水し、後に建礼門院のみ源氏によって助けられ
長楽寺の印誓上人について剃髪した所としても知られております。

剃髪してより安徳天皇が最後まで召されていた型見の直衣を自ら幡に縫われ
ひたすら安徳天皇の菩提を弔われたといわれる幡の展示がなされております。

又建礼門院の御姿を掛け軸にしたものも展示されております。

書院玄関

お庭は相阿弥作といわれる池泉観賞型のお庭で秋の紅葉は格別に
きれいなお庭です。

お庭

本堂は愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺の仏殿を
明治23年(1890年)に移築したものだそうです。
様式は本格的な禅宗様式の仏殿の遺構であるといわれております。

本堂

境内には建礼門院の遺髪塔が建てられております。

建礼門院の供養塔

境内には「平安の滝」が流れております。
法然上人の弟子隆寛律師や建礼門院などが修行された滝といわれております。

石組の中には弁天様や八体の仏様が刻まれております。
これは「八功徳水」と呼ばれ、奥の院の山の地下水が流れ落ち、八つの功徳
があると言われており、京の名水でも知られております。

滝

滝2

山手に上がっていくと徳川慶喜公ゆかりの尊穣苑と書かれていて、
こちらを登ると京都市内が一望に見渡せる高台へ、もう一方の橋を渡ると墓地へ
と続きます。

墓地へ

墓地には江戸時代の有名な歴史家「頼山陽」のお墓が祀られております。
頼山陽は京都は「山紫水明」の地と表現した歴史家でもあります。

頼山陽の墓
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亀屋末廣
2012 / 02 / 09 ( Thu )
京菓子司 亀屋末廣

京の姉小路通烏丸を東に入ったところに200年の歴史を有する
京菓子司の「亀屋末廣」があります。

文政元年(1804年)伏見醍醐で釜師として従事していた初代亀屋源助氏
が京の町中にでて一念発起し亀末廣として創業されたのが始まりです。

当時二条城や御所お出入りの菓子司として京菓子を納めていたといわれる
老舗です。

家訓に「売って喜ぶよりも 買って喜んで頂く」というのがあるそうです。

店の佇まいも昔ながらの趣をのこし、ガラス戸は引き戸で、出格子に虫籠窓の
店構えは高層ビルの立ち並ぶ京の中心街に新旧おりなす感がいたします。

玄関

暖簾には「すえひろ」の文字が書かれております。

暖簾

当時二条城や御所からの注文は新たに特別注文されるのが通例で、そのたびに
木型が作られていたようです。
毎回新たなものを作るため一度使っただけの木型が沢山残っていったので
その木型を看板の廻りにはめ込んで掲げられたようです。
その看板が今も凛として存在感を示しております。

看板

お店の中には大福帳や年代を感じる額が掲げられております。
鶴ま萬年、亀は千年に因んだ「萬年堂」だそうです。

万年堂

当時のお菓子の制作方法などが記された書付が残されております。

菓子歴

こちらのメインの御菓子「京のよすが」です。
茶席の四畳半を模した秋田杉の木箱に季節のお干菓子や有平糖が詰められて
おります。
季節によって中身がかえられ、常連のお客様は中身に心ときめかして買って
いかれるようです。

干菓子

京のよすが

大徳寺納豆をおりこんだ「絹のしずく」、ほかにも色とりどりのお干菓子が
販売されています。

絹のしずく

見ているだけでも楽しくなります。御菓子も芸術ですね!



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上徳寺
2012 / 02 / 08 ( Wed )
上徳寺 世継地蔵

京の富小路五条下がったところに 上徳寺があります。
この辺りは源融の塩焼きをしたあたりで、塩竈山(えんそうざん)と号します
ご本尊は阿弥陀如来

世継地蔵大祭

上徳寺は慶長8年(1603年)徳川家康によって建立されました。
開基は阿茶の局(上徳院殿のちに雲光院殿と呼ばれた)で開山には
伝誉生上人(阿茶の局の叔父)

堀内雲鼓の墓  阿茶の局

徳川家康はご本尊を江州鞭崎八幡宮の中尊安阿弥快慶作の阿弥陀如来
を招来し、ご本尊といたしました。

この阿弥陀如来にはご縁起があります。  それは
元暦年中(1184年)木曽義仲が江州に出陣いたしました。
この出陣によって人々は病死したり、狂乱したり、足が萎えたり
いろいろな不都合がおこりました。

これを憂いて佐々木判官は鞭崎八幡宮に一心にお参りしておりました
ところ「顕現したまう如来を彫刻し、御名を称すべし」とのお告げが
ありました。
そこで仏師安阿弥快慶に依頼、七日目に光明がさし阿弥陀如来の御姿が
現れたので、これを刻み阿弥陀如来としてお祀りし、御名を称したら
たちまち重病者が回復したというご利益のある阿弥如来だそうです。
その後400年ほどして、徳川家康が征夷大将軍になってから、江州鞭崎の
八幡宮に参詣し、この阿弥陀如来のご縁起を知り、深く信仰しこれを
乞い求めて上徳寺に安置されたと伝えられております。

阿弥陀如来

またこちらの地蔵堂には「世継地蔵尊」がお祀りされています。
この世継地蔵尊のご縁起は

明暦3年(1655年)信者の中の一人八幡の清水氏という方が、
一子を亡くし、世継ぎの子供が授かりますようにと念じお堂に
参籠しておりましたところ七日目に夢の中に地蔵尊が現れ
「われを石に刻み、祈念すべし」とのお告げがありました。
そこで早速そのお地蔵様を写し石に刻んで、堂内に一宇を
建立し安置し不断に世継ぎを祈念いたしました。
やがて立派な子宝に恵まれ子孫が繁栄したという謂れがあるそうです。

その後もご住職が夜中勤行をしていたところ「世に子なきものには
子を授け、子孫相続し、血縁絶えず、家運長久なし、幸福薄き者には
福を与うべし」とのお告げがありました。
このことが世に広く知られるようになり、京の町のみならず多くの
方の信仰をえるようになったそうです。

世継ぎ地蔵

2月8日はその世継地蔵の大祭が行われる日にあたります。
時折雪が舞い寒風が吹く寒い一日になりましたが、多くの参拝者
が訪れ、護摩供養の大祭がおこなわれました。

矢

四方に厄除けの矢が放たれ、護摩壇に火入れが行われます。

火入れ

もうもうと煙が勢いよくあがり、祈願の護摩木がくべられます。

護摩供養3

護摩供養2

この護摩壇で清められた御幣は家に持ち帰り玄関に吊るしておくと
厄除けになるそうです。
ずいぶんカラフルな立派な御幣です。

御幣2

世継地蔵堂の周りには所狭しと絵馬が掲げられております。
祈願の絵馬であったり、お礼の絵馬であったりと・・・・

絵馬

明治29年に菱口菊松という方が、世継ぎを授かったお礼の絵馬も
掲げられております。

絵馬2

京の都にはいろいろな御利益を与えてくださるお地蔵様がたくさん
お祀りされております。
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相国寺2
2012 / 02 / 07 ( Tue )
京の冬の旅 相国寺 開山堂

相国寺の開山堂は今回の京の冬の旅で特別公開されております。

江戸時代文化4年(1807年)に桃園天皇の皇后恭礼門院の女人御所内の
御殿を下賜され移築したものといわれております。
堂内には開山の夢窓疎石像が安置されており、脇には春屋妙葩などの像
も安置されております。

杉戸には円山応挙の子犬の絵が書かれていて、とても可愛いです。

法堂屋根

お庭は枯山水のお庭で「龍淵水の庭」と呼ばれていますが、以前は
このお庭に水が流れていて、その蛇行しているところとか、川の
底の石が龍のうろこに似ているところからそのように名づけられた
ようです。 この川の水は御所へとつながっていたようですが、
いまは枯渇してお水は流れておりません。

今年の干支「龍」にちなんで開山堂の公開となったようです。

開山堂庭2

開山堂庭

天皇ゆかりの建物は廊下の欄干には菊のご紋が残されております。

菊御紋

開山堂から鐘楼の前を南に少しいくと御水尾天皇髪歯塚と書かれた
宮内庁の看板があり、その奥には石碑が建てられております。
見過ごしてしまいそうですが、御遺髪や歯が埋められているのでしょうか?

後水尾天皇髪歯塚

後水尾天皇髪歯塚2

法堂の前を過ぎ東門を出たところに禁門の変で戦死した薩摩藩士の立派な
お墓が建てられております。
この辺り烏丸今出川北東に幕末の頃薩摩藩のお屋敷があったところでも
あります。

薩摩藩墓

相国寺には12の塔頭があり、山内の美術品を展示する相天美術館も
昭和59年にでき、伊藤若冲展では連日長蛇の列が出来ました。

明治初めに多くの塔頭が廃止され、現在の山内はその5分の一に
縮小してしまいました。
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相国寺
2012 / 02 / 06 ( Mon )
京の冬の旅 相国寺

京都御所の北に相国寺はあります。
臨済宗相国寺派大本山である相国寺は正式には相国承天禅寺といいます。
山号は万年山、ご本尊は釈迦如来

山門

石柱

花の御所を造営した足利義満は永徳2年(1382年)花の御所の東方に一大禅寺
を春屋妙葩・義堂周信を招いて創建を計画。至徳元年(1384年)に仏殿、明徳3年
(1384年)には寺観が整えられました。
開山には夢窓疎石を勧奨し、春屋妙葩は2世となって入寺いたしました。


法堂

以後度々火災に遭い焼失、そのたびに豊臣秀吉や徳川家康の援助を得て再興されて
まいりました。
しかし天明の大火の時には法堂・浴室他塔頭9院を残して焼失してしまいました。

浴室


現在の法堂は豊臣秀頼によって寄進され仏殿をかねた法堂の遺構としては最古
かつ最大のものであるといわれております。

当時、109mもある七重の塔が建立されていましたが1403年落雷により
焼失してしまい、以後は再建されませんでした。

法堂は国の重要文化財に指定されていて、無畏堂ともいわれております。
中央にはご本尊の釈迦如来が安置され、内部は坐禅道場ともなっております。

鏡天井に描かれている幡龍図は狩野光信によるもので、特定の場所で手を打つと
反響することから「泣き龍」とよばれております。

臨済宗寺院にはそれぞれ特徴があり、相国寺は「声明づら」といわれております。
声明の一種「梵唄」で名高く、特に観音懺法は懺悔の儀式として600年も続いて
いるところからこのように呼ばれております。

京の冬の旅シリーズ相国寺法堂・開山堂を御案内している内の法堂です。
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俵屋吉富
2012 / 02 / 05 ( Sun )
京菓子司 俵屋吉富

京は上京区、相国寺の近くに京菓子司の俵屋吉富があります。
創業は江戸時代、宝暦5年(1755年)といわれる歴史あるお菓子屋さんです。

その当時雑穀商を営んでおられた俵屋惣兵衛が澤屋播磨というお菓子屋さんに
奉公して相続したのが始まりだそうです。

七代目石原留冶郎という方が俵屋吉富と屋号を改め今日まで継承されています。

この七代目の石原留冶郎氏は俵屋吉富に代々続く銘菓「雲龍」の創始者で
あります。

大正末期、石原留冶郎氏は相国寺に保存されている狩野洞春が描いた「雲龍図」
に心ひかれ、この感動をお菓子に表現出来ないものかと長年構想を練っていました。
そんな時に「暁山雲」というテーマお題菓子を作る機会に恵まれ、出来上がったのが
今日まで受け継がれている「雲龍」というお菓子だそうです。

この出来上がったお菓子を相国寺の四代目管長の故山崎大耕老師が「雲龍」
と名付けられました。

玄関

店舗の隣に京菓子資料館「龍宝舘」があります。
昭和53年に開設されたこの資料館には俵屋吉富に代々伝わる菓子づくりの資料や
石原留冶郎翁が代々蒐集してこられた諸資料を展示されています。
展示室にはお菓子で作った見事な生花、工芸菓子の展示も行われています。


京菓子資料館

1階には裏千家好みのお茶室があり、流礼のお道具がしつらえられています。
ここでお茶を戴くことができます。

また3階には弥勒菩薩が安置された「菓遷堂」があるそうです。
一般には公開されていません。

茶室

お菓子は好みのものを選んで頂きます。
今月のお菓子の銘は上の右から雪間草きんとん、おたやん、
下の段右から厄払い、龍吟(干支菓子)、雲龍です。、

1月のお菓子

やはり雲龍のお菓子でお茶を頂きました。
粒餡でたっぷりした大きさはお茶の味をひきたててくれます。

お茶
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本覚寺
2012 / 02 / 04 ( Sat )
本覚寺

下京区の五条通と富小路の南東角に本覚寺があります。この辺りの町名を
本塩竈町(もとしおがまちょう)といいます。

石柱

本覚寺は浄土宗に属し、山号は佛性山、ご本尊は阿弥陀如来
本覚寺の土筑地蔵尊は又の名を「泥かぶり地蔵」と呼ばれ江戸時代には名地蔵
の一つと数えられたお地蔵さまがおられるようです。

駒札

貞応元年(1222年)に源実朝の夫人坊門信子が八条通の大通院内に創建した
のが始まりとされています。実朝夫人の自らの法名「本覚」から本覚寺と
名付けられました。
応仁の乱で衰退後、文亀3年(1503年)に細川政元の援助を受け玉翁和尚が
浄土宗に改め高辻烏丸あたりに末寺14を有する本山として中興いたしました。

現在地には天正19年豊臣秀吉の都市計画により移転いたしました。

又この辺りは嵯峨天皇の皇子・源融の河原院塩竈のお屋敷があったところで
光源氏のモデルとされている源融は屋敷内に鴨川の水を引き入れて池を造り
塩竈の浦(宮城県)の景観をつくり、毎月難波(大阪湾)から海水を運ばせ
塩焼きをして楽しんだといわれ、その名残が町名としてのこされております。

塩焼きといえば十輪時の在原業平の恋の塩焼きで有名ですが、紫煙がほのかに
あがりと書かれている風景とはどのようなものなのでしょうね?

門

又境内の墓地には江戸中期に八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ
世に出し出版社の全盛期を築いたといわれる八文字屋自笑のお墓もある
そうです。

お墓

こちらのお墓はピラミッドのように上へ上へと積まれてそびえております。
ご先祖様はきっといい眺めを楽しんでおられることでしょう。
ある意味土地が節約できて合理的かも知れませんが、地震は大丈夫でしょうか
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蘆山寺
2012 / 02 / 03 ( Fri )
京の節分 蘆山寺

2月3日は節分、京の都ではあちこちの神社や寺院で追難の儀式が行われています。

鬼踊り2


ここ蘆山寺は寺町の丸太町を北へ、京都御所の東にあります。
日本天台講寺、圓淨宗という難しい宗派で、天台宗の中興の祖といわれる
良源(元三大師)により938年に北山に創建された与願金剛院を法然の弟子
で覚喩が船岡山の南に再興したのが始まりといわれております。

豊臣秀吉により現在地に移されました。
もとこの地は紫式部の邸宅跡であったともいわれております。

紫式部邸

この蘆山寺の元三大師堂で毎年2月3日には「追儺式鬼法楽」通称「鬼おどり」
が行われます。

「追儺式鬼法楽」は開祖元三大師良源が村上天皇の御代に300日の護摩供の
法要を行っている時に三鬼の鬼が現れこの法要を邪魔しようといたしました。
そこで元三大師は出現した悪鬼を護摩の法力と大師が持っている法器に
より降伏させたという故事によるものだそうです。

赤・青・黒の三鬼は人間の善根を毒する三種の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)を
表現しているもので、この三毒を新しい年の運勢の変わり目といわれる節分
の日に追い払い、新しい福寿・増長を祈念し、一切の悪疫・災難をはらい
開運をはかるという行事であります。

玄三堂

この元三大師堂には秘仏の小さなお地蔵さまがお祀りされているようです。
また蘆山寺は洛陽三十三か所観音霊場第32番札所でも知られております。

元三大師

欄間には日吉大社の守り神、猿の彫り物が見られます。

欄間の猿

「追儺式鬼法楽」の行われる前には大師堂で「鬼の御加持」が行われました。
身体の苦を鬼の法力で追い払っていただきます。
松明をかざし、法刀で患部をさすって苦を追い払います。
ご利益が大きいのか長蛇の列ができていました。

鬼の御加持

ふれ太鼓が打たれこれから法会が始まります。

ふれ太鼓

護摩壇のまわりに修法僧の方々が着座され法会が始まります。

法会

大師堂の舞台では三鬼の鬼が中の様子を窺いながら、鬼踊りを
初め、次第に辺りの様子をみながら堂内へと進んで参ります。
堂内の入り口には追難師・蓬莱師が両脇に控えています。

鬼踊り

赤鬼

青鬼

黒鬼

堂内に入って護摩壇の廻りから堂内の法会の邪魔をいたします。

鬼の法会

鬼の法会2

鬼の法会3

鬼の法会4

護摩壇では導師が法器をかざしてしきりに読経が続けられております。

追難師は起請文を読み上げ、四方に向かって矢を放ちます。

起請文
放矢

鬼は降参して、よろよろと堂内から退散いたします。

鬼の退散

鬼の退散2

鬼の退散3

鬼が退散した後、蓬莱師はじめ追難式に参列されていた供僧の方始め
関係者の方々による豆まき、福餅まきが行われ悪霊を払い新たな福寿を頂きます。

豆まき

今年も一年無事にすごせますように、祈願いたしました。
23 : 07 : 21 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
蓮光寺
2012 / 02 / 01 ( Wed )
平清盛ゆかりの 蓮光寺

京の下京区 富小路六条下がるに蓮光寺があります。

浄土宗に属し山号は負別山、ご本尊は「負別阿弥陀」

明応9年(1500年)天台宗の真盛上人の弟子で蓮光が新町高辻に高野山の
刈萱堂を模して一宇を創建したことにより始まります。
元は天台宗に属しておりましたが、天正19年(1591年)豊臣秀吉の都市計画
により現在地に移転し、宗派も浄土宗に改められました。

ご本尊の阿弥陀如来は快慶の作と伝えられ、「負別阿弥陀」とも呼ばれています。
快慶が東国の僧の求めに応じて阿弥陀如来を彫ったがあまりの出来栄えに
東国の僧に渡した後も惜しまれ、その僧を追って山科の追分辺りまできました。
そこでようやく追いつき、唐櫃に納められた仏像を拝したいと懇願し、
蓋をあけたところ、仏像は2体に分身していました。
そこで僧は東国に、快慶は当地にそれぞれ一体づつ背負い持ち帰ってお祀り
しました。
その阿弥陀如来がこの蓮光寺の御本尊、僧が持ち帰ったもう一体は
「笈別如来」として仙台市泉区にある阿弥陀堂に安置されているそうです。

駒札

きれいに手入れされたお庭です。

門

扁額には「負別山」と記されております。

本堂

地蔵堂に安置されているお地蔵様は「駒止地蔵」です
弘法大師の作と伝えられ、もとは六条河乗る駒(馬)が六条河原に差し掛かったところ
急に馬が動かなくなり、その場を掘ってみたところお地蔵さまがでてきたことから
「駒止地蔵」と名付けられ、地蔵堂に安置されております。

駒止地蔵

駒止地蔵2

また境内には関ヶ原の合戦や大阪夏の陣で活躍していた武将、
長宗我部盛親のお墓がたてられております。

長宗我部盛親は戦わずして関ヶ原の戦いに敗れお家断絶となった
盛親公は長宗我部家の再起を期して京洛後にすまいしていました。
そんな時当山蓮光寺の住職と親交がありました。

長宗我部盛親

元和元年(1615年)大阪夏の陣で破れ、六条河原で斬首されました。
蓮光寺の住職は所司代板倉勝重に許しを請い首級をこの蓮光寺に
葬って供養いたしました。
盛親公の法名は領安院殿源翁宗本大居士」

長宗我部盛親のお墓

墓石は非常に傷んできておりますが、その年代を感じます。
今もお花が供えられております。


21 : 59 : 05 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
西角
2012 / 02 / 01 ( Wed )
京料理 西角(さいかく)

河原町今出川から西へ1筋入って北に上がったところ枡形商店街の手前に
京料理の「西角(さいかく)」があります。

出街に出店されてからもう40年になります。

こちらのお店のモットーは気軽に、ゆったりと京料理を味わって頂くために
基本に忠実に、とくに上賀茂の農園から
旬の期間だけ、野菜の本来の旨味を存分に楽しめるよう、その日に使う分だけ
その朝に、畑から採ってきてもらって調理すると、ご主人は話されております。

看板

表からエントランスを通して白麻の清楚な暖簾がかけられております。
この通路を入ったところが玄関になっています。

エントランス

店内はこじんまりとした中にも落ち着いたしつらえのいい雰囲気です。

店内

壁際には暖色系の帯状に桐の紋が描かれております。

桐

八寸盛りには、菜の花のからし和え、蛸の含め煮、手毬すし、数の子の昆布しめ
小魚の味醂干し(この味醂干しは非常に美味です。)

器は季節の先取りで梅鉢に南天の葉が添えられて、心憎い演出です。

八寸

お造りは4種、よこわ、鯛の昆布絞め、うに、他
新鮮でプリプリとした味わいは本わさびととてもよく合います。

お造り

蕪蒸し、わさびが効いていて、冬ならではの温まる一品です。

蕪蒸し


上賀茂ネギの椀物、お汁のお出汁が最高、上賀茂ネギも柔らかく香りもよく
お葱の新しい使い方を勉強いたしました。

椀物

蕗の塔と海老の天麩羅。もう蕗の塔がでています。今回のものはそれほど苦みも
なく、香りがほのかにして春の訪れを感じさせてくれました。
海老は尻尾までカリカリと揚げられて香ばしく頂けます。

揚げ物

湯葉に山芋をすりおろしたものを掛け法楽で軽く焼かれたもので
ちょっと香ばしく乙なお味です。

湯葉の山芋掛け

ご飯、赤だし、香のもの(きゅうりの浅漬けは美味です)

ご飯

当店自慢のわらび餅。黒蜜は甘すぎず、ひつこすぎず、ぷるん ぷるんと
して、口の中にスルット入っていきます。

わらび餅

西角ではお昼のメニューはおまかせコースは3800円、4,500円
 お造り定食、天麩羅定食 は1800円、
 夜のおまかせコースは5,500円、7000円とほかにアラカルトもあります。
 電話は075-241-1571です。 是非事前予約を
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