西行庵
2012 / 03 / 30 ( Fri )
西行庵

西行法師(1118~1190)は平安時代末期の僧侶であり、新古今和歌集
の代表的な歌人のひとりといわれております。

3月18日のNHK大河ドラマで鳥羽上皇に仕える武士で歌人でもある
佐藤義清が待賢門院との悲恋から出家する様子が義清演じる藤木直人が
好演していましたが、

その佐藤義清が保延6年(1140年)に出家して西行と名乗り諸国を
行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛でて多くの秀歌を残し
歌聖と呼ばれました。

藤原俊成、藤原定家、後鳥羽院に認められ、『勅撰和歌集』にその多くが
収録されています。

西行庵駒札

西行は京都に住み、葵華園院を営みここが終焉の地ともいわれているのが
現在ある円山公園から東に出た双林寺の飛地境内であります。
又河内国弘川原で没し、墓所は弘川原にあるともいわれております。
その他にも縁の地として、西京区の勝持寺があります。

西行庵

この葵華園院は明治の頃には荒廃しておりましたが、明治26年(1893年)に
富岡鉄斎が歓進文(寄付を呼び掛ける文)を書き、小文法師が浄財を募り
当時の京都市長の内貴甚三郎らの尽力により再開されました。

西行法師葵華園院跡

西行庵は母家「淨妙庵」茶室「皆如庵」からなります。
茅葺の母屋は大徳寺塔頭の真珠庵の別院を移したもので、皆如庵は北野の
久我別邸より移されたものだそうです。
桃山時代の名席といわれ、円窓床と道安囲の手前座が有名であるといわれて
おります。

葵華園茶室

毎年3月には皆如庵で西行忌茶会が行われます。

西行の有名な歌に

 願わくば 花の下にて春死なむ その如月の 望月のころ

というのがあります。

西行庵2

京都の桜前線は今年は少しおそいようですが、一輪開花が声がそろそろ
聞こえてまいりました。

西京区の勝持寺の西行桜は世阿弥作の謡曲「西行桜」で
京都の西郊に住んでいた西行が庵の庭の老桜の下で寝ていると、夢の中に
花の精が現れ京都の桜の名所を語り舞っていたといわれ、これに因んで
名付けられたといわれております。

今年はぜひ勝持寺の西行桜を愛でてみたいものです。

石碑
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鷺森神社
2012 / 03 / 29 ( Thu )
鷺森神社

京福電鉄の修学院駅から東へ入ったところに鷺森神社があります。
ご祭神は素戔鳴尊をお祀りされています。

一説には鬚咫天王(しゅだてんのう)を祀るとも牛頭天王を祀るとも
いわれております

創建は清和天皇の貞観年中とも伝えられ、社名は古来神の使いとされる
鷺がこの地に群れをなして住み着いていたとされるところから鷺森神社と
名付けられました。

社地は転々といたしましたが、元禄2年(1689年)朝廷より現在地を賜り
遷座されました。

本殿は流れ造りで安永4年(1775年)に修造されたものだそうです。

本殿

本殿東に「御幸橋」という石橋が架けられていて、この橋はもともと
修学院離宮の正面入り口音羽川に架設されていましたが、昭和42年
本殿改修の際誓願により下賜されたものだそうです。
この御幸橋はその昔、後水尾天皇、霊元天皇も行幸の際にお渡りになった
といわれる名橋だそうです。

御幸橋

本殿前には「八重垣」と呼ぶ縁結びの石が置かれています。

 出雲たつ出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を

ご祭神の素戔鳴尊が詠まれた和歌にちなんで八重垣となづけられました。
この八重垣となづけられた石に手を触れお祈りすると、神縁により悪縁を断ち
想う人との良縁はもとよりご祭神の神徳により夫婦和合・家内安全が授かる
と説明されております。

八重垣

また霊元天皇が享保年間に鷺森神社に参詣された折に詠まれた

 おりゐるを見し さきのもり すきかてにわけきて 今日はむかぶ神垣

石碑の文字は文学博士お吉澤義則氏揮毫によるものだそうです。

霊元天皇詩 霊現天皇歌碑

鷺森神社では毎年5月5日には七里祭(さんやれ祭ともよぶ)が昔の比叡山山麓
の七ケ村で洛北の奇祭といわれるお祭りが盛大に行われます。

又参道は広く、春は桜の季節、秋は紅葉と景色のすばらしい神社でもあります。
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時雨殿
2012 / 03 / 28 ( Wed )
リニューアルオープン 時雨殿

京都嵐山にある小倉百人一首の殿堂「時雨殿」がこの3月17日に
リニューアルオープンされました。


時雨殿


時雨殿玄関

「小倉百人一首」は藤原定家が宇都宮頼綱(蒲生)の求めにより
頼綱の嵯峨野にある別荘に貼る色紙に百人の歌を選んだことにより
始まりました。

「時雨殿」は小倉山の麓にあった定家の山荘「時雨亭」に因んで命名
された百人一首のミュージアムです。

その「時雨殿」がこのほどリニューアルされて3月17日にオープンいたしました。

百人一首の成立

全体的に百人一首がより親しみやすく、目に訴える趣向がいろいろ考えられて
おります。

歌仙一人ひとりを歌仙絵をもとに100体の人形と解説パネルで読み下し文が
添えられた百人一種は夫々が個性豊かに表現されております。

百人一首

平安貴族が文化や風俗を前提として歌が詠まれました。その時代を
象徴する装束や調度品などが四分の一サイズに緻密に再現されたています。

天徳4年に宮中清涼殿で催された「天徳内裏歌合」の場面が表されて
おります。優雅な営みの一こまが見られます。

夢舞台

君のため若菜摘みをする場面が表現されております。
春夏秋冬をテーマにして四季の場面を季節ごとに入れ替えされることに
なっております。

若菜摘み

御帳台
神殿の母家に据えられた天蓋つきのベッドのことを御帳台といいます。
本来は座臥のための施設でありましたが、後に権威の象徴となりました。

御ちょうだい

2階では講演会や催しなどに開放され、ゆっくりと嵐山の風景を
楽しみながら憩いのひとときを過ごすことができます。

見学者には無料で十二単、狩衣姿に変身体験をすることができます。

どなたでも雅な世界を垣間見ながら、変身も楽しいひとときです。
是非体験してみてはいかがでしょう。

十二単

時雨殿は月曜日が休刊日で通常は午前10時から午後5時まで
開かれて入館料は高校生以上は500円、子供は300円です。
22 : 51 : 39 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
関西セミナーハウス
2012 / 03 / 27 ( Tue )
関西セミナーハウス

関西セミナーハウスは1967年にドイツ発祥のアカデミー運動
「はなしあい」の関西拠点として左京区一乗寺竹ノ内町に
日本クリスチャン・アカデミーによって開設されました。

地理的には曼殊院へは徒歩5分の距離にあって、のどかな田園地帯と
東山連峰の北の山々が連なる静かなとても環境のいいところにあります。

現在は学研や企業・大学の研修や個人の方に利用されております。

玄関

この関西セミナーハウスには研修道場の他に日本庭園の中に、
和室、能舞台「豊響殿」茶室「清心庵」があり、100年近くの数寄屋造りの
純和風の建物で構成されていて、宿泊施設とともに利用されています。

和室

枯山水の庭園が眺められる、宿泊施設のお部屋です。

能舞台

能舞台の「豊響殿」です。
秋には紅葉がとてもきれいで眺めは素晴らしいです。

門

栞戸を潜って茶室「清心庵」へと参ります。

お待合

お待合にも日差しが差し込んで明るい感じがいたします。

茶室清心庵

茶室「清心庵」は大正末期の建物だそうです。
四畳半の茶席には床の間飾りのお軸は大徳寺狐蓬庵の卓厳による
「相見可々笑(あいみてかかとわらう)」が懸けられていました。
お花は竹の切株の掛け花で「雪柳と椿」が活けられていました。

茶席

今日はこの茶室「清心庵」で懐石膳を戴くという趣向です。
席入りをいたしますと、蝶足膳に八種類のお料理が並べられて各人の
前に出されます。

菜の花の和え物、うぐいす豆腐、しゃけの香草焼き、まぐろのたたき
若竹とイイダコの煮物、鯛の桜蒸し、ホタルイカの酢味噌和え、
若竹のしんじょ、とご飯がところ狭しと並べられております。
季節の香りのする懐石膳のしつらえです。

料理

お食事の後はお茶の手前が始まり、薄茶を戴きます。
本日のお菓子は菜の花です。 お茶のおつめは一保堂の「福昔」でした。
季節の先取り、春の開花はもうすぐそこまでやってきました。

風呂

お菓子

花

関西セミナーハウスでは誰でも事前予約をすれば、御茶席で懐石膳を
頂くことができます。
ただし一度に大勢は無理で5人位までがいいかと思われます。
これから桜が開花し、鶯の声も聞かれるようになり、和みのひとときを
味わうことができます。

関西セミナーハウスの電話番号は075-711-2115です。
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大酒神社
2012 / 03 / 26 ( Mon )
大酒神社

広隆寺の鎮守社の一つといわれる大酒神社は、もとは広隆寺の一画で
桂宮院境内にあったが明治の神仏分離令により現在地(太秦峰岡町)に
遷座されました。

本殿には秦始皇帝、弓月王(ゆみづきのきみ)、秦酒公(はたさけのきみ)
をお祀りされています。

大酒神社は「延喜式神名帳葛野郡二十座」の中に「元名大辟神」とあり、
古くは大辟神社(おおさけじんじゃ)あるいは大酒神社と称されたようです。

大酒神社 鳥居


大酒神社2

『広隆寺由来記』によると、中哀天皇4年(356年)、秦始皇帝の子孫功満王
(秦氏の祖)が来朝し、この地に大酒神社を祀ったことにより始まるといわれ
ております。

その後、秦氏が農耕殖産の神として奉祀し、氏神としたと考えられるようです。
「大辟」「大酒」は悪霊、悪疫を避けるものとされ、「牛祭」がもともと
この大酒神社で行われていたといわれております。

祠は小さな建物ですが歴史は非常に長い神社であります。
一見お酒に関係ありそうですが、そうではなく厄除けの神社です。

大酒神社 本殿
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広隆寺の牛祭
2012 / 03 / 25 ( Sun )
広隆寺の牛祭

広隆寺に「牛祭」という祭礼がかって行われていました。
現在は牛の調達がむつかしくなったり諸般の事情で休止されています。

この「牛祭」は平安時代に恵心僧都源信が極楽浄土を求めて念仏を修し、
念仏の守護神として「マダラ神」を勧請して始められたと伝えられています。

もともと広隆寺のちかくにある大酒神社で行われていた祭礼でしたが、
明治の神仏分離令以降広隆寺の祭りとして行われるようになったようです。
毎年10月12日に「国家安穏」「疫病除去」「五穀豊穣」を祈願した行われて
きました。

京都の三代奇祭といわれる祭りは、「鞍馬の火祭」「今宮神社のやすらい祭」
「広隆寺の牛祭」と言われております。

牛祭り2

その京都の三代奇祭の一つといわれる「牛祭」とは

大きな耳と三角の鼻のついた白いお面と被った「マダラ神」が牛に乗り、
四天王と呼ばれる青鬼、赤鬼が松明をもって練り歩き四周を巡回した後
薬師堂の前の祭壇に到着いたします。
そこでマダラ神が長い祭文を独特の節回しで読み上げます。その間参拝者は
これに悪口雑言を浴びせます。
祭文が読み終えられると、マダラ神と四天王が一斉に薬師堂に逃げ込みます。
参拝者はその面を奪おうと殺到いたしますが、堂の扉が閉められ一瞬のうちに
祭礼は終了するというものです。
まさに奇祭です。

牛祭り

境内でもお面は販売されていて、この面を持ち帰って招福除疫のお守りと
されています。

又いつかこの牛祭が復活することを願ってやみません。
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広隆寺
2012 / 03 / 23 ( Fri )
広隆寺

京の右京区太秦に広隆寺があります。
真言宗の御室派大本山で、蜂岡山と号します。
推古天皇11年(603年)に建立された山城最古の寺院といわれております。
古くは蜂岡寺、秦公寺、太秦寺とも、又太秦の太子堂とも呼ばれ信仰を
集めておりました。

日本書紀によれば、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として
建立したと記されており、そのご本尊が現存する弥勒菩薩で国宝第1号
指定されたといわれるものです。

この国宝第1号の弥勒菩薩半跏思惟像は「一切衆生をいかにして救おうかと
考えている」お姿を表しているといわれております。

もう一体の国宝の弥勒菩薩は新羅より請来したものと伝えられ
その表情から「泣き弥勒」とも呼ばれております。

広隆寺石柱

広隆寺

広隆寺 弥勒菩薩

広隆寺は弘仁9年(818年)に火災に遭い焼失いたしましたが、秦氏出身で
弘法大師の弟子でもあった道昌僧都によって再興されました。
その後もたびたび火災に遭いましたが、多くの仏像は守られ再興されて
きました。

永万元年(1165年)講堂、鐘楼、経堂などが再建され講堂は重要文化財
に指定されています。
慶長3年(1251年)に再興された桂宮院本堂は国宝に指定されています。

講堂には中央には極楽浄土で説法をされている印を結ぶといわれるちょっと
変わった印を結んでおられる阿弥陀如来坐像(国宝)が、その左右には
地蔵菩薩坐像と虚空蔵菩薩坐像がお祀りされています。

地蔵堂

広隆寺講堂

上宮王院太子殿(本堂)は享保15年(1730年)に再建されたもので入母家造り、
ご本尊には聖徳太子像がお祀りされています。
毎年11月22日には聖徳太子御火焚祭には特別開扉されることになっています。

広隆寺本堂

広隆寺 本堂2

霊宝殿には国宝の弥勒菩薩半跏思惟像はじめ、天平・弘仁・貞観・藤原・鎌倉と
各時代の仏像がお祀りされています。
それらの仏像は大変時代の経過が長いもので、しかも大作が多くとても
貴重な仏像ばかりです。


広隆寺 庭


広隆寺 庭2
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円山応挙
2012 / 03 / 22 ( Thu )
江戸時代の画家 円山応挙

京の都が輩出した偉大な江戸時代後期の画家円山応挙は、丹波の穴太村
(現在の亀岡市)の農家に生まれ、初名を岩次郎、通称主人と名乗り
一嘯、夏雲・仙嶺などと号した後、明和3年(1766年)に応挙と改めました。

京都に出てから狩野派の石田幽汀に学び狩野派画風を習得するとともに、
写実的な画法を取り入れ、遠近法を学び、新鮮な画風を展開いたしました。

やがて写生重視の「円山派」が誕生し、現在までの京都画壇の源流となり
著名な弟子には呉春、長澤蘆雪、山口素絢などがおられます。


代表作は明和2年の「雪松図」(国宝 三井家蔵)、安永5年(1776年)
「竹図屏風」「保津川図屏風」などをはじめ祇園祭りの月鉾の破風軒裏の
「草木図」等多くの作品を残しております。

住まいは下京区四条寺町西入付近や四条柳番場西入るにありました。

p04-15.jpg

その円山応挙のお墓が右京区太秦東峰岡町の悟真寺にあります。
悟真寺は浄土宗に属し、ご本尊は阿弥陀如来

永仁年間(1293年~99年)道光が開創、創設地は不明だが
天正年間に四条大宮西入に移転、現在地に移転したのは昭和26年です。

悟真寺には円山応挙一族のお墓が建てられております。
中央の応挙のお墓である「源応挙墓」の字は、光格天皇の兄で
妙法院宮真仁法親王の親筆といわれております。

円山応挙の墓

応挙のお墓を中心として、右側には長男応瑞、応立のお墓があります。

円山一族の墓

そして左側には応震、応誠のお墓があります。

円山一族の墓2
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映画の町 太秦
2012 / 03 / 21 ( Wed )
映画の町 太秦

嵐電の帷子ノ辻から、大映通商店街へとまいりますと、頭上には
大きな看板と、映写機が乗ったアーチが見えてまいります。

この辺りはかって映画の全盛期なりし頃、大変賑わっていた町です。
商店街では役者の方ご贔屓のお店があって、かつらをつけたままの
俳優さんに出会うことがままありました。

今は先般の水戸黄門の撮影を最後に時代劇の撮影がこの太秦撮影所
では行われなくなり、淋しい感がいたします。

大映通商店街

この通りを進んでいきますと、太秦多藪町へ続きます。
今はめっきり少なくなりました仁丹の町名表示が見えます。

この辺りは明治時代までは藪が非常に多く、大正15年(1925年)に
京福電鉄北野線が帷子ノ辻まで開通し、それ以後松竹、大映、日活等
の映画製作所が設立され、竹藪が取り払われ町に変身いたしました。

太秦多藪町 三吉明神鳥居

その竹藪の中に三善稲荷と中里八幡宮がありましたが、竹藪が切りはらわれた
際に一つにまとめられ、三善稲荷・中里八幡とされた神社があります。

三吉稲荷神社

この三善稲荷・中里八幡神社の境内に「牧野省三先生顕彰碑」というのがあります。

牧野(マキノ)省三先生とは
かっての映画名監督といわれた方で明治11年(1978年)京都の北桑田郡に生まれ
西陣に出て、芝居小屋「千本座」に出入りし、歌舞伎に親しみ、後に劇場を買収
して経営者となりました。
横田商会の活動写真興業に小屋を貸した縁でその制作を引き受け、旅役者を中心に
「本能寺合戦」「明鳥」などを作りました。
この牧野監督の第1作目の「本能寺合戦」は左京区浄土寺にある「真如堂」で撮影が
行われました。
その後映画にも力を入れ、坂東妻三郎、市川歌右衛門、片岡千恵蔵、嵐寛十郎、
月形龍之介などを、名優として育てました。
今では、この俳優の名を聞いても若い人達は知らない名前となりましたが、
時代劇映画の父とまでいわれるほどの名監督として名声の残しておられる方です。

この顕彰碑は平成13年に多くのスターが寄進して建立されました。
寄進された方々の名前の中には、津川雅彦、長門裕之、南田洋子はじめ
藤田まこと、吉永小百合、新藤兼人、高橋英樹、渡哲也、里見浩多朗などの
お名前もみることができます。古き良き時代の証です。

三吉神社 牧野省三顕彰碑


牧野省三顕彰碑

18 : 37 : 43 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
蛇塚古墳
2012 / 03 / 20 ( Tue )
蛇塚古墳

京福電鉄の帷子ノ辻駅から徒歩で7分位、昔はこの辺りは撮影所があり、
時代劇の役者さんがいつでもみられた通りで、その住宅地の中を進んで
まいりますと、大きな巨岩の石組がみえてきます。

石室2

この石組は古墳時代後期(7世紀ごろ)築造された京都府下最大の横穴式石室
蛇塚古墳といわれております。

かっては全長75mの前方後円墳であったようですが、宅地化により墳丘は
消失して、後円部中央の石室だけが残されております。

それでも周囲の輪郭をたどると前方後円墳の形をしております。

石柱

棺を安置する玄室の幅は奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積では
三重県の高倉山、岡山県のこうもり塚、石舞台古墳に次ぐ全国4番目の規模
を誇っているといわれております。

この太秦をはじめ嵯峨野一体は渡来系の秦氏一族により開発されたものと
考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地となっております。

この蛇塚古墳はその規模や墳丘の形態から、首長クラスの墓と考えられて
おります。

この石室内には家形石棺があったともいわれております。

石室

石室は頑丈な鉄柱で補強されていて、中は空洞になっております。
どうしてこのような巨岩を積み重ねられたのかと思われる位、大小入が
入り混じった今にもおちてきてもおかしくないような積み方がなされて
おります。

石室3


石室4


石室5

この蛇塚古墳は昭和52年5月4日に国指定の史跡となっております。
名勝の由来は石室内に蛇が棲息していたから名付けられたそうです。

住宅街にこのような古墳がみられるのは珍しいことです。
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芬陀院
2012 / 03 / 19 ( Mon )
東福寺塔頭 芬陀院

東福寺の塔頭に芬陀院があります。
ご本尊は阿弥陀如来。 
正しくは芬陀利華院といいますが、雪舟寺とも呼ばれております。
元亨年間(1321~1324)関白一条経通が父内経の菩提を弔うため
開山に定山祖禅和尚を迎え創建されました。

分陀院門

芬陀院

度重なる火災により一時衰退いたしましたが、元禄年間関白一条兼輝
によって再興されました。
現在の建物は宝暦5年(1755年)に桃園天皇の皇后恭礼門院より賜った
御所内殿を明治32年(1899年)昭憲皇太后の支援で改築されたものです。
唐門も同じく恭礼門院の御所より移築されたものだそうです。

分陀院玄関

庭園は方丈前の南庭と東庭からなり、寛正年間(1460~66年)雪舟等楊作
と伝えられ京都では最古の枯山水の一つといわれております。
南庭は苔の中に鶴島と亀島が配され「鶴亀の庭」といわれております。
元禄と宝暦の火災等で一時荒廃していたのを、昭和14年(1939年)に
重森三令によって再現されました。

亀島には伝説があります。
雪舟は少年時代に涙で鼠を描いたとして伝えられておりますが、
関白兼良公はそれを思いだし、雪舟に亀を描くことを所望されました。
所が雪舟はなかなか筆をとりませんでした。
そんなある日雪舟は石を動かしはじめました。それが次第に亀になり
ました。 その夜庭先で音がするので鶴栖和尚が障子の隙間から覗いて
みると、石組の亀が手足を動かしておりました。
不安になった和尚は処置するよう依頼したところ、雪舟が亀の甲に
大きな石を載せて抑えたところ亀は動かなくなったということです。
それを聞いた兼良公は大いにご満足になり雪舟に一寺を与えようと
されましたが、雪舟はそれを断り、明に渡り画の修業に励んだという
ことです。それ以来この亀を「渡明の亀」ともいわれているようです。

分陀院 鶴亀の庭

後陽成天皇の第九皇子、一条家第14代の恵観(昭良)公は茶道に造形が
深く、東福寺参詣のおりにはいつも芬陀院の茶席「図南亭」で茶を
楽しまれたといわれております。
そんな縁から当院では恵観公の像を図南亭に安置されております。
図南亭からは円窓を通して東庭を眺めることができます。
それは一幅の絵画のようで四季折々の眺めを楽しむことができます。

分陀院窓

西庭の前には小間の茶室があります。

分陀院茶室

西庭は恵観公の愛された曲玉の手水鉢と崩家形燈籠がおかれ
ありし日の恵観公を偲ぶところとされております。


分陀院崩家形灯籠
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東福寺 方丈
2012 / 03 / 18 ( Sun )
東福寺 方丈

東福寺方丈は明治14年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失
いたしました。
現在の建物は明治23年(1890年)に再建されたものです。
方丈は禅宗寺院では僧侶の住居とされている所で、近年は
相見といわれる応接室としての役割が強くなっております。

広大な方丈には東西南北に重森三令作庭の四庭が配されていて。
「八相の庭」と名付けられて
おります。


方丈


「八相の庭」と命名されたのは、お釈迦様の生涯の八つの重要な出来事
に因んでつけられそうです。

その八つの重要な出来事は「蓬莱」「方丈」「えい洲」「壺梁」「八海」「
「五山」「井田市松」「北斗七星」の八つを「八相成道」というのだそうです。

古来中国では蓬莱仙人思想とよばれ、東の大海の彼方に仙人が住み、
「蓬莱」「方丈」「えい洲」「壺梁」と呼ばれる四仙島があり、島には
仙薬財宝があると信じられていたそうです。


南庭は広さが20坪はあるといわれ、この四仙島が表現されています。
渦巻く砂紋で「八海」を、西方には五山を表す「築山」がおかれています。

正面の唐門は昭憲皇太后の寄進によるものだ明治の唐門遺構の代表とも
いわれています。

方丈南庭2

方丈南庭

東庭は雲文様地割に円柱の石で北斗七星が描かれていて、「北斗の庭」と
いわれております。
後方には天の川を表した生垣が配され、小宇宙を表しております。

方丈東庭

北庭は
敷石とウマスギゴケが市松模様に配されております。
その奥にはさつきが植えられて、五月にはとても綺麗な姿を見る
ことができます。

方丈北庭

西庭は
井の字に等分された中国古代の田制「井田」に因み「井田市松」と
呼ばれております。

方丈西庭

方丈の庭はこれから新緑のころが、五月の花が咲き、はんなりと素晴らし
光景となります。

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歌舞伎 襲名披露
2012 / 03 / 17 ( Sat )
歌舞伎 襲名披露

3月3日から27日までの期間「南座」で「秀山祭 三月大歌舞伎」と題して
播磨屋の中村又五郎、中村歌昇の襲名披露が行われています。

秀山祭とは
平成18年9月に歌舞伎座において初代中村吉右衛門の生誕120年を
記念して初代の得意とした演目を上演し、その芸の継承を目的に
催された公演のことをいいます。
初代中村吉右衛門は俳人でもありその俳号「秀山」をもって秀山祭
となづけられました。

初代吉右衛門は明治の終わりから大正・昭和と近代歌舞伎界において
六代目尾上菊五郎と共に「菊・吉」といわれる時代を築き上げた名優
と言われております。

先達から引き継いだ時代物に加え、世話物にも独自の愛嬌をちりばめた
数々の名舞台を残し、その芸風は今日にも伝えられ大きな足跡を残して
おります。

歌舞伎


南座

その吉右衛門の屋号「播磨屋」の一門の
 中村歌昇改め二代目中村又五郎と、
 中村種太郎改め四代目中村歌昇
親子の襲名披露公演が行われております。

演目は午前の部は 「元禄忠臣蔵」「惺々」「熊谷陣屋」
    夜の部は 「俊寛」 「口上」「船弁慶」

が演じられ、夜の部を楽しんできました。
丁度NHK大河ドラマで平清盛が話題になっている中での演目なので
興味も一入です。

吉右衛門の「俊寛」は円熟した演技で、浄瑠璃と太棹の三味線が
相俟って情感あふれて引き込まれました。

船弁慶では若手の愛之助も艶やかで、又五郎を引き立てていました。
又五郎も歌昇も上方では馴染みはそれほどでもありませんでしたが
今回の襲名公演で又上方のファンも増えたことでしょう。

襲名公演

歌舞伎の幕間のお弁当も楽しいものです。
歌舞伎の余韻に浸りながら、ひとしきり褒め会って、歌舞伎談義を
しながら次の演目を楽しみに、お弁当を戴きます。
今回はあと村の幕間のお弁当を賞味し、豪華な時間を過ごしました。

お弁当

秀山祭三月大歌舞伎は3月27日まで南座で行われております。
23 : 00 : 41 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東福寺 三門
2012 / 03 / 16 ( Fri )
国宝 東福寺 三門

東福寺は九条道家公の発願によって延応元年(1239年)に仏殿が上棟され
九条道家亡き後一條実経公が遺志を継承して諸堂の建立を進め、文永10年
(1273年)法堂が完成し七堂伽藍が完成いたしました。

三門もこの時期に建立されましたが、京の都は度々大火に襲われ、三門も
焼失しました。

現在の三門は応永32年(1425年)に再建されたものです。
禅宗の三門で、現存最古といわれ、最大の三門として、京の都にそびえて
おります。

高さは22m、五間三戸の二階二重門、大仏様式を用いた入母屋造りで
両脇に三門へ上る山廊を設けた楼門です。
昭和44年(1969年)から創建以来600年振りに全面解体修理が約8年9ケ月
かけて、五億円の巨費をかけて行われ、昭和53年(1978年)に完成いたし
ました。

三門

大屋根を支える蛙股は非常に大きく力強く、支えているという存在感を表して
います。

この三門の楼上の須弥壇正面には宝冠釈迦如来が金色の光背を輝かせてお祀り
されています。 その両脇には月蓋長者・善財導子また十六羅漢像は室町時代
初代の作といわれております。

楼上の扁額「玅雲閣」は室町幕府第4代将軍の足利義持公の筆蹟といわれて
おります。
天井画は明兆(兆殿司)、明神寒殿司による天女、迦陵頻伽などが描かれて
おります。その色彩は非常にきれいな色が保たれていて素晴らしいです。

三門蛙股

三門からは京都市内が見渡せてとてもいい景色です。

三門欄干

十六羅漢の後部には香木がおかれていて、三つの解脱門を潜って修行の
道へ進みます。

それにしても威風堂々とした三門は偉容が感じられます。


三門老木
22 : 59 : 24 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東福寺塔頭 退耕庵
2012 / 03 / 16 ( Fri )
東福寺塔頭 退耕庵

東福寺の二王門をはいってすぐのところに塔頭の退耕庵があります。
貞和2年(1346年)に東福寺第43世住持性海霊見によって建立されました。
応仁の乱で荒廃いたしましたが、慶長4年(1599年)に安国寺の恵瓊に
よって再興されました。

退耕庵駒札

客殿は恵瓊によって建てられ、茶室は作夢軒と名付けられ、豊臣秀吉
没後、咋夢軒において石田三成、宇喜多秀家らが、関ヶ原の戦いの謀議を
行ったと伝えられております。

退耕庵門

門を入った所に小町寺と扁額が掲げられた小堂には玉章地蔵(たまずさじぞう)
がお祀りされています。

退耕庵 小町寺

玉章地蔵尊は小野小町の作といわれ高さが7尺(2m)もあります。
小町はその美貌で世の男性の浮気心を悩ませ、遠近より送る艶書は宛ても
降雨の如しといわれたそうで、老後はこれらの愛執の扉を滅するため
自らこの造を建て、諸方より艶書を集めて地蔵尊の腹中に納めたと伝え
られております。
故にこの玉章地蔵はまたの名をふみはり地蔵ともいわれ、除災、与楽の
地蔵として信仰を集めているといわれております。

ある時この地蔵尊の腹中に艶書が納められていると聞いた不心得な者が
この像の後ろを破ったところ、腹中には長さ三尺余りの五輪があり、
慈眼大姉の銘が刻まれていたといわれております。

お堂の天井画は極彩色な地蔵の絵が描かれております。

天上画

退耕庵 玉章地蔵

お堂の前には町百歳の井戸があります。
小町はこの井戸の水鏡におのが姿を写して歌を詠みました。

”おもかげの かわらで としのつもれかし たとえこの身に かぎりあるとも”

この井戸の碑は元禄14年に出来たものだそうです。

小町井戸
00 : 28 : 35 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東福寺の涅槃会
2012 / 03 / 14 ( Wed )
東福寺の涅槃会

京の東山区にある東福寺は臨済宗の東福寺派の大本山で
寺域は約165000㎡にも及びます。
山号は慧日山で、ご本尊は釈迦如来。

山内図

室町時代には京都五山の一つに数えられ、伽藍面とまでいわれるくらい
荘麗なる伽藍が立ち並んでおります。

伽藍

東福寺は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の一つである
九条家の菩提寺の創建を願って九条道家が延応元年(1239年)に仏殿を建立
したのに始まります。

寛元元年(1243年)には円爾弁円(聖一国師)を迎えて天台・真言・禅の
三宗兼学の道場として寺号を奈良の東大寺と興福寺から1字を頂いて
東福寺とされました。

涅槃図1

毘蘆寶殿

その東福寺の仏殿で3月14日~16日まで涅槃会が行われ、大涅槃図が公開
されています。

東福寺の涅槃図は御小松天皇(1393年)の御代の時に将軍足利義持公の命により
東福寺の仏殿を司るお役目の殿司(でんす)として入寺していた明兆によって
描かれたものだそうです。

明兆は画僧といわれ仏画の名僧として、多くの作品を残されています。

涅槃図はお釈迦様が(旧暦2月15日)満月の夜入滅された時の様子が描かれた
もので、その涅槃図を掲げて命日を供養する法要を涅槃会として、いろいろ
なお供えをし、2月15日または3月15日に各寺院で行います。

涅槃図4

お供え

この涅槃図には十二支の動物はじめ多くの動物が描かれていますが、
特に猫が描かれております。
これは、明兆が赤い絵の具が足りなくなって困っているときに一匹の猫が
明兆の袖を引っ張って赤い土絵の具のある谷へ案内してくれました。
明兆は感激して、その猫の姿を涅槃図に書き加えたといわれております。
又その谷を絵具谷と称されるようになったそうです。
猫は象の傍に小さく描かれております。

涅槃図3

東福寺の仏殿の雲龍図は堂本印象によって描かれました。

雲龍図

涅槃会のお供えは「花供御(はなくそ)」です。
お花の代わりにお供えするもので中には色とりどりのあられが入って
います。 ひとつ300円で求めることができます。

花供御あられ

お供え2

仏殿横では甘酒もふるまわれておりました。
今日は晴天に恵まれ比較的暖かでしたが、熱い甘酒は生姜の香りがして
とても美味しく頂きました。

甘酒

お代は寸志だということでした。

甘酒2 甘酒3



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妙心寺塔頭 衡梅院
2012 / 03 / 12 ( Mon )
妙心寺塔頭 衡梅院


妙心寺塔頭の一つに衡梅院があります。
本坊の東南に位置し、妙心寺第六世雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が
もともと細川政元が文明12年(1480年)花園天皇離宮址に開いたものを
その外護により創建されました。

雪江禅師は応仁の乱で灰塵に帰した妙心寺復興に心血を注ぎ、大本山の
基礎を築き、再中興開山と仰がれている方です。

衡梅院1


衡梅院 駒札

現本堂は慶長9年(1604年)大阪夏の陣の折豊臣方についた七人家の一人で
真野蔵人の寄進により再興されたものだそうです。
昭和42年重要文化財に指定されております。
方丈には雪江禅師の像を祀り、障壁画には宝暦6年狩野派の天眼春朴による墨跡画
が、「下間一の間」には昭和60年加瀬藤圃画伯の十六羅漢図が描かれています。

杉苔に覆われた中に楓、と石組を配した庭園は秋には紅葉が一段と映えます。
茶席は長法庵、梵鐘は重要文化財に指定されています。

衡梅院2

本堂は一重入母屋造り、桟瓦葺、正面を双折桟唐戸とした構成は妙心寺
の建物中最初の例といわれております。

通常は非公開で特別拝観の時にのみ拝観することができます。

衡梅院3
22 : 56 : 43 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
旧日本銀行 京都支店
2012 / 03 / 11 ( Sun )
旧日本銀行 京都支店

現在の京都文化博物館となっている別館は明治36年(1903年)に着工
され明治39年(1906年)に竣工した旧日本銀行京都支店の建物です。

旧日本銀行は明治27年(1894年)に京都出張所として京滋地方の金融界の
指導・監督の為に東洞院御池上るに開設されました。

その後業務が拡張され明治39年に三条通高倉に新築移転されました。
明治44年(1911年)には出張所から京都支店へと格上げされました。

設計は当時建築界でその名を知らない人はいない位名声を博していた
辰野金吾とその弟子の長野宇平冶によるものです。
レンガ造りの二階建て、一部で地下一階、スレート・銅板葺
左右対象にして中央は白い花崗岩で装飾されています。

明治のこの頃の建物はレンガ造りで今残されているものはデザイン的
にも素晴らしいものがあります。
京都府庁であったり、中京郵便局、旧第一銀行、等々

旧日本銀行玄関

内部は吹き抜けの天井が高く、ゆったりした空間があり、壁面の飾りや
窓のとりかたは当時のモダンな造りがなされています。

その吹き抜けを囲むように二階には上等室、大広間が設けられていました。
本館の背後には別棟にして金庫棟が置かれて渡り廊下で繋がっている
ようです。

旧日本銀行3

カウンターの仕切りは分銅によって上下し、開け閉めされていたそうです。
高さもあり、中の様子もあまり見えず今とはずいぶん雰囲気がちがっています。
デザインは凝ったつくりがなされております。

旧日本銀行5

昭和40年(1965年)に日本銀行は河原町二条に移転し、京都文化博物館に
生まれ変わりましたが、建物は創建当初の姿に修理・復元され、現在は
一般公開されています。

旧日本銀行2

内部は貸し展示場にもなっていて、その雰囲気を生かしたアートフラワーや
作品展などが行われております。

この建物は昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定されております。
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京都が生んだ映画監督
2012 / 03 / 10 ( Sat )
野村恵一監督作 映画「二人日和」

京都文化博物館が2011年7月にリニューアルされシアターも小振りながら
綺麗ないい雰囲気に変身いたしました。

そのシアターでは京都で制作された古典から名作といわれる映画が780点
所蔵されているそうです。
かって日本の映画の発祥の地といわれた京都は名作の数々が京都で
制作されて参りました。

玄関

京都が生んだ監督野村恵一氏は生涯京都の地を拠点に作品を生み出して
きました。
50年前洛星高校時代に映画に出会い、日本大学芸術学部映画学科に学び
大映京都撮影所に助監督として入社。
1971年大映が倒産してからは自らの野村企画を設立し、京都を拠点に5本
の作品を残され、咋年2011年3月12日に64歳で亡くなりました。
(作品は「森の向こう側」「真夏の少年」「ザ・ハリウッド」「二人日和」
 「小津の秋」)


その追悼の特集が今京都文化博物館シアターで上映されております。
この京都文化博物館では総合展示のチケットで映画も観賞することが
でき非常に楽しい企画です。

北斎展をみた後、野村作品の「二人日和」を観賞してきました。

野村恵一特集

この「二人日和」は2005年に制作された映画で、京都の老舗、神祇装束司
黒由の主人とその夫人の静かな奥ゆかしい深い愛情の物語です。

藤村志保と栗塚旭が演じる作品は、情の細やかな、一つ一つの仕草にも
繊細な人物が演じられていて、引き込まれるように見入ってしまいました。

場所は京都御所に近いところ、梨木神社に毎日染井の水を汲み、コーヒー
を子供のいない老夫婦が楽しみとする日課。

45年という長い年月連れ添った夫婦には特に会話を交わさなくても
お互いの心が読み取れるまでの間柄になっております。
そんな日々の中で夫人(千恵)が難病であるALS(筋委縮性側素硬化症)を
発病、それを寡黙に支える主人(黒由)。
日に日に病状が悪化、手足が少しづつ動かなく恐怖といら立ちをぶつける
千恵に黒由は何の愚痴も文句も言わずに店を守りながら看病をする日々。

そんな時町で見かけたマジックをする大学院生に千恵のリハビリを兼ねた
気晴らしに手品を教えてくれるように頼み、その大学院生との交流が
始まります。千恵も手品に興味を持ちますが病状は悪化していきます。

撮影は京都御所・鴨川などが冬から春へ、そして夏へと続きます。
鴨川の桜は花びらがひらひらと舞い落ち素晴らしい光景が描かれて
京都に住んでいてこそ描ける情景がよく感じられました。

藤村志保・栗塚旭両俳優の円熟した演技も素晴らしいものでした。
この作品はフランクフルト第5回日本コネクションでグランプリを受賞
されました。

映画の後はサプライズがありました。

上映終了後、まだ電気が点灯される前に栗塚さんの声がしたかと思った
ところで点灯、前列にまさにご本人が立っておられ、ご挨拶がありました。

この作品への思い、監督のことなどのお話がありました。

 尚  3月11日(日)午後3時30分~
    ゲストに中村努氏、豊島啓氏、栗塚旭氏による
      「野村恵一監督を偲ぶ」
    座談会が催されることになっております。
14 : 08 : 31 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京都文化博物館
2012 / 03 / 09 ( Fri )
京都文化博物館 葛飾北斎展

京都文化博物館は京の中心街にあり、明治38年に辰野金吾の設計によって
建築されました。
赤レンガ造りの貴重な明治の代表的建物として受け継がれている京都文化
博物館は旧日本銀行京都支店が前身で昭和43年に日本銀行が河原町二条に
移転してから平安博物館となり、その平安博物館の寄贈を受けて
京都文化財団が設立され、昭和63年に京都文化博物館としてスタートしました。
京都の寄り合い精神を実践する場として、人々が集まり、語り合うことから
新たな創造を生む場を目的にした博物館でもあります。

enntorannsu.jpg

エントランス2

その京都博物館で今、葛飾北斎展が3月25日迄開催されております。
葛飾北斎は今年生誕250年を迎えその記念として開催されているものです。
ホノルル美術館所蔵の優品170点、初期から晩年までを通して展示されて
います。

浮世絵師北斎は14歳で版木彫りの仕事につき、その内自分でも描いて
みたいと思うようになり18歳で浮世絵師勝川春章に入門、その後狩野派や
洋画などを学び、貧乏生活を続けながらも、絵に対する執念と尊厳を失する
ことなくいろいろな絵を手掛け、70歳にして頂点に達し、「冨嶽三十六景」
が刊行されました。
その後も次々と作品を世に出し88歳で浅草の長屋で生涯を終えたと伝え
られております。

北斎展

北斎といえば「冨獄三十六景」、富士山のあらゆる角度から表された風景は
素晴らしいものです。
橋の欄干から、桶の中から、それらの富士山は人物を通して、生活を
通して繊細に描かれていました。

北斎漫画も楽しいものがありました。いろいろな顔があったり、生活が
あったり、その表情がみていて飽きさせません。

また当時の女性(特に花魁や芸妓)の化粧方法が書かれたものには
鼻が低い化粧法、口を小さく見せる化粧法などがあり、当時から女性の
お化粧に関する関心の強さに驚きもありました。

百人一首の世界も繊細な画風のなかに、読み手の心が反映された素晴らしい
ものでした。

このような素晴らしい作品の多くが海外に流失していたことには非常に
残念に思われますが、反面海外にあったからこそ今日まで残され、
又私たちがこうして拝見して感動を覚えることができるのかと思われます。

2月1日から始まった北斎展は前期・後期に分かれ今は後期の作品が展示
されています。
21 : 04 : 32 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
妙心寺 玉鳳院
2012 / 03 / 08 ( Thu )
妙心寺塔頭 玉鳳院

妙心寺の塔頭の一つで法堂の東にある玉鳳院は花園御殿とも称され、
花園法皇が伽藍の傍に建てた山内最古の塔頭寺院といわれております。

玉鳳院看板

花園法皇が妙心寺を創建した際に、自身が隠居するところとして建てられ
のが玉鳳院であるとされ、方丈には花園法皇がお祀りされております。

玉鳳院扁額

方丈前の唐門は寛文年間に建立されたものだそうです。

玉鳳院唐門

方丈の襖絵は狩野益信の秋草図や狩野安信の龍虎図、花鳥図などが
描かれております。
開山堂(微笑庵)は重要文化財に指定されていて、開山の関山慧玄が
お祀りされていて山内最古の建物といわれております。
天文6年(1537年)東福寺から移築されたものだそうです。

開山堂唐門

開山堂唐門は四脚門で平唐破風で応永16年(1409年)後小松天皇から
御所の南門を寄進されたものだそうです。
表の柱には応仁の乱のときの矢じりの跡がのこされております。

玉鳳院平唐門

開山堂前には一対の妙心寺型燈籠が置かれております。
砂紋をいかした枯山水のお庭が広がり国の史跡に指定されております。


祥雲院御霊屋には豊臣秀吉の息子棄丸のがお祀りされております。

また開山堂の東北には織田信長・信忠や武田信玄・勝頼の供養塔が
建てられております。

玉鳳院牛石駒札

玉鳳院の玄関には牛石というのが置かれています。
これは開山の関山慧玄がまだ伊深(岐阜県美濃)おられた時、村人から
請われて、牛を使って田畑を耕しておられたが、妙心寺へと招聘を受け
京都に登られるとき、その牛が涙を流して後を追ったといわれて
いたそうです。
この言い伝えに因んで元妙心寺の管長さまが開山と牛の仏縁の証を
開山の600年遠忌に総見院の信徒の方よりこの牛石を奉納されたもの
をここに置かれたと説明されておりました。

牛石
22 : 26 : 18 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
妙心寺 三門(山門)
2012 / 03 / 07 ( Wed )
京の冬の旅 妙心寺 三門(山門)

1月7日から3月18日まで開催されている「京の冬の旅」シリーズで
妙心寺の三門が5年振りに公開されています。
この次は何時公開されるかは不明だそうです。

京の冬の旅

妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山で山号を正法山と号します。
ご本尊は釈迦如来

花園法皇が禅に深く帰依され関山慧玄(かんざんえげん)を開山とし
離宮荻原殿を寺に改められたのが起こりとされています。

室町初期に一時中断、その後再興されたが、又応仁の乱で再び焼失
乱後、雪江宗深が再興したとあります。
その後変遷を経、春日の局などの保護も受け多くの塔頭が創建され
ていきました。
現在は末寺が3500余りとなり臨済宗各派中最大であるといわれております。

勅使門より三門、仏殿、法堂、寝殿、(いずれも国の重要文化財)
大方丈が一直線に並ぶ禅寺の伽藍づくりがなされています。

妙心寺駒札

勅使門は桃山時代に建立されたものだそうです。
勅使門から蓮池を渡って三門へと続きます。
そこは極楽浄土へと繋がる道でもあります。

勅使門

朱塗の堂々たる三門は慶長4年(1599年)に創建されたもので重要文化財に指定
されています。
朱は特に魔よけの色ともいわれております。
通常非公開で毎年6月18日には三門懺法会の時にのみ参拝出来るようです。
楼上には聖観世音菩薩が中央の両脇には月蓋長者、善財童子がお祀りされています。
さらにその両脇に十六羅漢さまがお祀りされております。
十六羅漢の中には鬢頭蘆尊者(足腰をなでて痛みを取り除いてくださる)
や羅喉羅尊者(お釈迦さまの息子)などもおられます。

天井には狩野派の絵師に描かせたといわれる龍図や天女、楽器を持った天女、
迦陵頻伽、摩加羅魚などが鮮明に描かれております。

龍は架空の生き物ですが、禅寺の多くに描かれているのは龍は雲を呼び雨を
もたらすとして火除けのために描かれているともいわれているそうです。

三門

三門は三解脱門ともいわれ、空、無想、無作の煩悩から解脱して仏門へと
入る門であるといわれております。
東福寺、南禅寺、知恩院の三門と並んで威風堂々とした三門です。
21 : 43 : 49 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京の街 柳小路
2012 / 03 / 05 ( Mon )
京の街 柳小路

京の街中には家の間に通じた細い路地や辻子と呼ばれる通りがあります。

京に都がおかれた平安京は朱雀大路を挟んで左京、右京に分かれそれぞれ
左京を東京(ひがしのきょう)「洛陽城」右京を西京(にしのきょう)「長安城」
と称され両京は大行政区となり、条坊制というシステムによってブロックごとに
区切られていました。

これらの条坊制では町の区画は正方形が基本となっておりましたが、商業が
発達し、商人が表通りに面して店舗を構えてくると、正方形の区画がくずれだし、
中心部が空白となってしまいます。
そこでこの空白部に道を通すと、また新たに店舗を増やすことができます。
また武家屋敷や寺院の移転に伴い今までの区画に新たな通りができたりして
生まれたのが、路地であったり辻子であったりします。

これらの路地や辻子(図子)は通りが隣の通りまで突き抜けていたり、
行き止まりであったりします。
通りをはさんでコの字型に家の玄関が面していて突きあたりになっている
ような通りを路地と呼び、突き抜けているものを辻子と呼んで区別している
ことがあります。

柳小路 柳小路2

そんな大路、小路が残されている中の一つに柳小路というのが、京の繁華街に
見られます。
ここは新京極通と裏寺町通りに挟まれた人が行き交うのも窮屈な通りです。

明治の初め第2代槇村知事によって東京遷都により京都が衰退していた状況を
打破しようと歓楽街を作られたのが新京極通りで明治30年ころには東京の浅草、
大阪の千日前とともに日本の三大盛り場として知られるようになりました。

その新京極通の隣の裏寺と呼ばれた通りは、大人の特に男性が集まる盛り場でも
ありました。仕事帰りに屋台のお店で一杯飲んで、若者が気安く仲間と飲んでいく
賑やかな高度成長期の活気ある通りとして名を馳せておりました。
柳小路もそんな通りでした。
最近この通りも整備されて石畳も整い、おしゃれなお店も見られるようになり
灯りがともされる頃には賑わいを見せる通りともなります。

京の都はいろいろな顔を持つ街があり、歴史をたどると奥深いものがあります。
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祇園女御塚
2012 / 03 / 04 ( Sun )
祇園女御塚

京の祇園、円山公園を通り抜けて、ねねの道から二年坂へ通じる通りへ
出ると間もなく祇園女御供養塔と書かれた札が目につきます。
この辺りに平安時代の後期、祇園女御の屋敷があったと伝えられております。

祇園堂

祇園女御は生没年は定かではありませんが、白河天皇の寵愛を受けた妃で
あるといわれております。

NHK大河ドラマでも松田聖子演じる祇園女御、
白河殿・東御方とも呼ばれて、平家物語によれば白河法皇は子供を身籠った
女御を平忠盛に下賜され、生まれた子供が平清盛であると説明書きがなされて
おります。
また一方では下賜されたのはその妹であるともいわれております。

駒札

女御は屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建立し、法皇崩御の後は菩提を弔って余生を
送ったといわれているようです。
現在のこの地には女御の菩提を弔う祇園女御塚が置かれてたようで、
京都祇園堂が建築されている間移築されていたものが、祇園堂完成に伴い
改めて建物の表に安置されたようです。

今までここを通っても見かけなかったのは建築中であったことと、それまでは
説明表示もなかったせいかもしれません。

塚

大河ドラマの効果は大きいようです。歴史物語は作者によっていろいろな説に
分かれますが、又ひとつ遺跡が表舞台へ出されひもといていく楽しみも生まれます。
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こだわりマルシェ
2012 / 03 / 03 ( Sat )
こだわりマルシェ(京都府庁旧本館)

”食にこだわる春の一日”と題して、京都府庁旧本館でマルシェが今日(3月3日)
開かれました。
マルシェとはフランス語で「市」のこと。
主催は府庁旧本館実行委員会、NPO法人日本都市農村交流ネットワーク協会等が
開催されておられます。

ポスター

食の安全、生産者の顔の見える商品、安心安全の食にこだわった商品の数々
が並べられ、昨日の雨もあがり暖かな朝、10時からすでにお客様が品定めを
されておられます。


市1

京都府庁旧本館は明治37年に竣工された建物で、設計者は松室重光という方、
明治31年の府の技師として採用されこの建物を設計されたのは20代後半とか
若い青年が後世に残る素晴らしい功績を残されました。

ルネッサンス式様式の建物はモダンで格式があり平成16年には国の重要文化財
に指定されております。
その建物を囲んで玄関、中庭、建物内とそれぞれに自慢の商品が並べられて
おります。

市2

上京区の佐伯さんのお野菜は無農薬で栽培されておられ、朝掘りの野菜は
新鮮でつやつやしております。
特に九条ネギは佐伯さんの農場で種から生育した京野菜だそうです。
お大根もみずみずしくてとてもおいしそうでした。

佐伯さんの野菜

その他にも地元で収穫された商品。地産地消のこだわりです。

地元野菜

こんな可愛いおにぎりのお弁当も販売されていました。
よもぎ、さくら、小豆、大葉等

おにぎり

保津町のまちづくりと産品づくりに取り組んでおられる保津町自治会
では今も水車で精米をされているそうです。
24時間かけて”くるくるとんとん”ゆっくりやさしく、だから美味しい水車米

今保津橋のたもとで、保津川くだりの発着場近くに”絆と出合いの町 保津”
水中に浮かぶような農園づくり、八ノ坪を生かした新しい町づくりに取り組んで
おられます。

保津川農園

保津川農園2

水尾の里は柚子の名産地。柚子を生かした柚子茶、マーマレイドなどの
商品づくりにも力を入れておられます。
すばらしい町づくり構想が完成する日を楽しみにしたいです。

保津川農園3

館内では癒しの足マッサージやフードホールとして、お弁当を食べたり
中庭ではコーヒーを飲みながら、小川冶兵衛作のお庭を楽しんでだり
三々五々に楽しんでおられます。

フードホール

2階正庁では人形劇も行われておりました。

人形劇

梅がほころび始めた暖かな春の一日ゆっくりと建物の素晴らしさとともに
出店された方々との対話を楽しむ「市」となりました。

次回開催は6月10日を予定されています。
23 : 50 : 34 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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