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京都ハリストス正教会
2012 / 05 / 30 ( Wed )
京都ハリストス正教会

京の中心街 柳馬場通二条上るに 京都ハリストス正教会というのが
あります。

この建物は、京都府庁旧本館を設計された「松室重光」氏によって設計
されたもので、明治34年(1901年)に完成したものです。

この建物が出来た後、明治37年に京都府庁旧本館が出来ております。

松室重光氏は明治30年に東京帝国大学で西洋建築学科をまなび卒業後、明治
31年に京都府の技師として採用された方です。
岡崎の武徳殿(明治32年)なども設計されておられます。

チャペル

この京都ハリストス正教会 生神女福音聖堂はギリシャ正教会の京都聖堂と
して建てられました。

建物は明治34年に完成いたしましたが、ロシア正教会から寄付された聖障、
教鐘、大鐙明等の到着が明治36年になってしまったので正式な聖堂成聖式
は明治36年に行われたようです。

もともとは押小路高倉に講議所として設立されましたが、明治30年に
京都能楽堂跡地とされていた現在地に建築されたものです。

駒札

この聖堂は日本ハリストス正教会の中でも本格的なものとして現存最古
の遺構といわれ、これ以後建築された木造聖堂の模範とされていたようです。

又松室重光氏の日本における数少ない現存作品の一つとして昭和61年に
京都市の指定有形文化財となっております。

教会2


木造、平屋建でロシア・ビザンチン様式教会堂といわれるこの建物は
正面から玄関、啓蒙所、聖所、至聖所が一列に並び、最も広い聖所を中心
とする十字形の平面構想となっていて、聖所と至聖所を仕切っている聖障は
柱と梁で区画されて油彩聖人像のパネル30枚が嵌め込まれ見ごたえがあると
いわれております。

kyotoin2.jpg

京の中心街にこのような教会があることは市内に住む住人もあまり知られていない
ようですが、貴重な建物として後世に引き継がれていくといいですね。

18 : 20 : 15 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
下御霊神社
2012 / 05 / 29 ( Tue )
下御霊神社

京の寺町通の丸太町を下がったところに下御霊神社があります。

平安初期、貞観五年(863年)神泉苑で行われた後霊会で祀られた
崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢など八所御霊を
出雲路(上京区)の地にお祀りしたことにより始まります。

いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物がお祀りされていて、
疫病の流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮める
ために御霊が祀られたと伝えられております。

当初は御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれ
天正18年(1590年)に豊臣秀吉により現在地に移転されました。

古来より京都御所の産土神として崇敬され、享保年間に霊元天皇が
行幸されたと言われております。

鳥居

表門は旧建礼門を移したものと云われております。

駒札

手水鉢から流れるお水は「感応水」と名付けられております。

江戸時代明和7年(1770年)の秋、京の市中は旱魃に見舞われました。
当時の神主(第8代)出雲路定直が夢のお告げにより境内の一か所
を掘り起したところ清らかなお水が湧き出、枯れることがなく
万民に組ませることができた。といわれ今はこの井戸の跡はありませ
けれど現在のこの井戸水も同じ水脈で、多くのひとに用いられて
おります。

手水鉢

本殿は天明8年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を
寛政3年(1791年)に移築したものです。

唐破風の拝所に幣殿からは南北に入母屋造りの廊が伸びている
建物です。

本殿

本殿2

検非違使2 検非違使

内宮、外宮もお祀りされています。

内宮 外宮


22 : 17 : 02 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
白山神社
2012 / 05 / 28 ( Mon )
白山神社

京の町中、麩屋町通押小路下がるに白山神社というのがあります。

小さな神社ではりますが、由緒が面白い神社です。

鳥居

社伝によれば、平安末期、治承元年(1177年)高倉天皇の御代に加賀の国
白山社の僧徒が神輿三基を担いで強訴に及びました。

しかしその願いが聞き入れられなかったために担いできた神輿を放り出して
帰ってしまいました。

そこでこの神輿の一基をお祀りしたのが白山神社の始まりと伝えられて
おります。

ご祭神は菊理比売(きくりひめ)別名白山媛命(しろやまひめのみこと)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)

夫婦和合、家運繁盛、子孫長久にご利益があるそうです。

駒札

更に、後桜町天皇が歯痛で悩まされていた時、女官が白山神社の神箸と
神塩を受け、歯痛につければ忽ち平癒されたという故事にちなんで
歯痛快癒の神様として信仰を集めております。

又、幼児の食初めにこの神箸を用いれば無病息災の成長が叶うとも
言われております。

毎年9月19日に近い土・日曜日に例祭のお祭りが行われます。

本殿2
16 : 05 : 10 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
仏光寺
2012 / 05 / 27 ( Sun )
佛光寺

京の仏光寺通を烏丸通から東へいくと佛光寺があります。

浄土真宗佛光寺派の本山 山号は渋谷山、ご本尊は阿弥陀如来

親鸞上人が流罪を許され越後から帰って建暦2年(1212年)に山科に
一宇を建立し、興隆正法寺(興正寺)と号したことにより始まります。

鎌倉時代の末、元応2年(1320年)に第7世了源が東山の渋谷(汁谷)に寺基を
写し、寺名も佛光寺に改めました。

佛光寺の寺号は、後醍醐天皇から「阿弥陀仏光寺」略して「佛光寺」の寺号
を賜ったことにちなむと伝えられております。

天正14年(1586年)に現在地に移転いたしました。

伽藍造りは本堂(阿弥陀堂)と御影堂が並んで建てられる浄土真宗形式。

阿弥陀堂には阿弥陀如来像と聖徳太子立像ほか真宗七高僧像がお祀り
されています。

山門では結婚式の前撮りが行われていました。

山門

雨トユ
御影堂には親鸞上人の坐像が安置されています。
広い御影堂の中央のお厨子が灯りをともされているので幻想的です。
両サイトドには松と鶴の襖絵がはめられております。

全体的に非常に煌びやかな雰囲気となっております。

天明の大火や禁門の変により堂宇は焼失し、現在の建物は明治に再建
されたものです。
御影堂は明治17年(1884年)に、阿弥陀堂は明治37年(1904年)に完成
したものです。

本堂

本堂内


襖絵2 襖絵

阿弥陀堂には木造の聖徳太子の立像が安置されております。
この聖徳太子立像は南北朝時代の作とされ国の重要文化財となって
おります。


阿弥陀堂2


阿弥陀堂

庇の飾り金具も黄金色で蕪型の懸魚も素晴らしいです。
普段は比較的ひっそりと落ち着いたお寺です。

庇飾金具
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京都 大神宮
2012 / 05 / 25 ( Fri )
京都のお伊勢さん 京都大神宮

京の中心街、寺町を四条下がったところに「京都 大神宮」というのが
あります。

鳥居

明治維新を迎えてから、江戸末期より盛んに行われていたお伊勢詣りが
叶わない人々のために、全国都道府県に、伊勢神宮が遙拝できる設備が
設けられることになりました。
また同時に伊勢神宮の大麻の配布などをおこなうことへの要請が出され
ました。

このため明治6年7月に伊勢神宮の内宮、外宮より、天照皇大神、豊受大神
の分霊をお迎えし、諾冊二神、八柱大神、大地主神、倭比売命を配祀して
風神講社が設立されました。
戦後になってこの風神講社が「京都大神宮」として再出発しました。

と説明書きされております。

京都のお伊勢さんと呼ばれる神宮は、他に蹴上の日向神社があります。

こちらの手水鉢は秀吉が築いた伏見城にあったものが寄進、移築された
ものと言われております。

手水鉢

本殿は一条家の書院を移築したもので、唐破風の玄関は優美で日本でも
有数と言われております。


本殿

明治時代には、明治天皇の皇女、親王殿下、時の大臣など多くの参拝が
あり風神講社も百壱社に及んで結成されたそうです。

その名残が本殿の庇廻りに掲げられております。

祇榊 丸壽

講社

寺町通で見過ごしてしまいそうなところですが、謂れのある神社を
みつけました。
17 : 09 : 51 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
聖光寺
2012 / 05 / 23 ( Wed )
聖光寺

京の都 寺町通は豊臣秀吉が都市改革を行ったことによお寺が寺町通に
集められました。
その名残で寺町通には北は鞍馬口通から南は五条通迄寺院が多く建ち並んで
おります。

その中で寺町通の四条を下がったところに「聖光寺」があります。

聖光寺は浄土宗の鎮西派に属し、錦陵山と号し、正式には曼荼羅寺と
称します。
ご本尊は清涼寺式嵯峨釈迦如来をお祀りしています。

山門

寺伝によれば、この辺りに平安時代後期の仏師「康慶」の居宅があったと
伝えられ、その後浄土宗第二祖聖光房弁長(鎮西上人)の草庵が
あったと伝えられています。

元久元年(1204年)弁長の帰郷に際し、康慶がその別離を悲しみ、
弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、聖光庵と名付けられたこのにより
始まると伝えられておます。

境内には開運地蔵尊がお祀りされています。

開運地蔵


地蔵尊


本堂

また境内には赤穂浪士の大石良雄の母と綿屋善右衛門好時(天野屋利兵衛)の
お墓があります。

天野屋利兵衛は元禄時代、熊本藩細川家や岡山藩池田屋の大阪屋敷に出入りして
いた大阪の商人でした。、仮名手本忠臣蔵第十段目に赤穂浪士を支援していた
かどで捕縛され、拷問されましたが、その拷問に耐え一切口を割らず
「天野屋利兵衛は男でござるぞ 子にほだされ存ぜぬことを存じたとは申さぬ」
という科白の場面で知られております。

今は知る人も少なくなりましたが、映画「鞍馬天狗」の主人公で有名であった
俳優の嵐寛寿郎のお墓もあり、参拝される方も多いようです。

天野利兵衛3

天野利兵衛2

寺町通の四条を下がる通りは昭和の時代から電気店が多く立ち並ぶ通りでしたが
近年またそのロケーションが少しづつ変わり始めています。
22 : 13 : 45 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
六勝寺
2012 / 05 / 20 ( Sun )
六勝寺(大河ドラマ 平清盛)

平安時代後期に現在の岡崎辺りは(鴨川と白川に囲まれたあたり)
院政期に次々と壮大な寺院が建立されました。

白河上皇が始めて院政を開き、堀川、鳥羽、崇徳、近衛と五代にわたり72年間
政治の主権をにぎり、この岡崎に「勝」のつく寺院を6ケ所に造営いたしました。

これらを総称して六勝寺(りくしょうじ)といいます。

六勝寺


最初に造営されたのは承暦元年(1077年)「法勝寺」で白河上皇の
御願で創建されました。
金堂、阿弥陀堂、講堂、五大堂、法華堂等の諸堂とともに高さ82mの
八角九重塔が建立されたと言われております。
この八角九重塔は当時、東大寺の大仏殿に次ぐ大きさであったようです、

八角九重塔

この八角九重塔は京都市動物園の観覧車の辺りから大規模な基礎が検出され
ました。
金堂は動物園の隣接する二条通の北側あたりに建立されました。

尊勝寺は康和4年(1102年)堀河天皇の御願寺として建立されました。
法勝寺に次ぐ規模で金堂、阿弥陀堂、五重塔、五大堂、観音堂などが
建立されました。
これらは現在の京都会館の辺りの造営されたことが調査で判明しております。

最勝寺は元永元年(1118年)鳥羽天皇の御願寺として造営されました。
現在の岡崎グラウンド周辺と推定されています。

円勝寺は大冶3年(1128年)鳥羽天皇の中宮待賢門院の御願寺として
建立されました。ご本尊は大日如来が祀られたようです。
現在の美術館の周辺と推定されています。

成勝寺は保延5年(1139年)崇徳天皇の御願寺として建立されました。
規模としては一番小さいものだと言われております。
現在の府立図書館の辺りと推定されています。

延勝寺は久安5年(1149年)近衛天皇ご御願寺として建立されました。
金堂、九体阿弥陀堂などが建立されました。
現在の京都市都メッセのあたりと推定されています。

これらの堂宇は院政治期には政治の舞台や信仰の中心となりましたが、
中世になると戦乱などにより焼亡し、江戸時代にはこの辺りは水田となった
ようです。
近年発掘調査がおこなわれ、その様子が次第に明らかになってまいりました。

今大河ドラマ「平清盛」が放映されていて、そろそろ保元の乱へと突入する
ところです。



23 : 56 : 01 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
繁なり
2012 / 05 / 19 ( Sat )
京料理の繁なり

京都御苑にほど近いところ(小川通丸太町上る)に京料理の繁なりがあります。

もともと「二和佐」という京料理の仕出しを専門にされていているお店が、
お食事を頂ける「繁なり」のお店を出されおもてなしをされています。
二和佐は90年の歴史あるお店です。

京の町では、お客様をお呼びする時は、仕出し屋さんからお料理を取り寄せ
るのが慣わしとなっていました。

そんな時には仕出し屋さんは腕を奮ってお料理をお届けいたします。

今日はお店に出かけて、ちょっとした会合の後、お昼のお食事を戴きました。

繁なりさんは3階建てのビルになっています。

玄関

玄関を入りますと、千客万来の額がかけられ、季節のお花が活け込まれています。

玄関2

2階はお座敷が3つほどあり、人数の多い時は全室使ってお部屋が広げられます。

お座敷

今日お伺いしたお部屋は椅子席にしつらえられていて、
お花は、夏ははぜ、ホタルブクロ、姫百合が活けられていました。
緑がとてもきれいでした。

花

掛け軸は「一期一会」です。

かけ軸2

繁なりの一番は「だし巻き」です。お出汁がじわっとでてくる美味しい
だし巻きです。
エビ、サワラの幽玄焼、鮎の甘露煮、しんじょ、きのこの白和え
ゼリーです。

前菜

お造りはウニが板にのせられていてちょっとした演出です。
タイ、カツオの三種です。

お造り

煮物は、小芋、ナス、きぬさや、巻物、麩


煮物

海老と野菜のかきあげ、白身の魚、 満願寺とうがらし 茄子の田楽


天麩羅

ご飯、香の物(キュウリ、白魚、昆布、長芋) しじみの赤だし


ご飯

デザートはメロン、オレンジ、さくらんぼです、


フルーツ

どれも上品な素材を活かしたやさしいお味で美味しく戴きました。

お昼のお料理は2,700円、3,675円、57775円があります。
今日いただいたのは3,675円のコースです。

繁なりさんへは事前予約が必要です。 電話075-211-8701
18 : 31 : 12 | 京料理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
上御霊神社
2012 / 05 / 18 ( Fri )
上御霊神社 御霊会

5月18日は上御霊神社の御霊会が行われる日です。

上霊神社の御霊会は貞観6年(863年)に悪霊退散を願って行われた
御霊会が起源とされています。

上御霊神社と御霊会についての詳細はこのブログ2010年5月18日に記し
ておりますが、その神輿渡御が行われる様子を御紹介いたします。

三基の神輿は夫々、今出川口、小山郷、末広会が運営いたします。
今出川口、小山郷の神輿は安土桃山・江戸時代の第107代後陽成天皇、
第108代後水尾天皇寄進の鳳輦を造り変えたものだとも云われているそうです。

細工も細かく、煌びやかな菊模様と葵の葉が連なり、神輿の胴体には
飛び出す鳩、左右の胴には龍が嵌め込まれています。

氏子町内には御霊会の旗がたてられております。
巡行には清めの榊が沿道を清めて進みます。

旗  榊

上御霊神社を出発したお神輿は今出川通へ出て、御所の今出川御門より
三基が参内し、朔平門の前で神輿の差し上げが行われます。

この御苑巡行は江戸時代まで行われてていましたが、東京遷都以降は
途切れていました。
それが2009年からはお神輿三基の巡行が復活いたしました。
そして今年から140年振りに牛車が先導して巡行されることになりました。

その後、今出川通から寺町通を下がって、荒神口から河原町にでて、河原町を
上ってきます。


その間獅子は子供たちの頭が良くなるようにと頭を噛んでいきますが、子供たち
はおお泣きし、お母さんにしがみついています。

でも今の獅子は学生さん中に入って、いかにも可愛い獅子です。

獅子 獅子2

約400年前に天皇から寄進されたと言われる牛車も立派に牛が曳いて
いきます。

最近は牛が飼育されているところが少なくなり、牛の手当てが大変と
聞きます。

牛車

牛車2

神官の姿も凛々しく神輿の先導をされていきます。

神官

河原町通を上ってきたお神輿の内、今出川口のお神輿が河原町今出川で
神輿振りを行います。

神輿

神輿振りを行うのは昔からその地域の神輿を振って御魂を活性化し、
その地区の疫病、悪霊、邪気を鎮め、五穀豊穣を祈り、その地域を
清浄化し、活性化するというのだそうです。

”ホイット ホイット”と掛け声も軽やかに担ぎ手が景気よくお神輿
を辻回しいたします。

神輿1

神輿2

交差点を一周したお神輿は、中央で高く差し上げられます。
3tとも4tとも言われる重いお神輿は大勢の若衆が高く差し上げます。
ここがクライマックスです。

神輿3

いなせなお兄さんさんの衣装は夫々違っています。
真っ赤な足袋を履いたこの姿は「青年団」の衣装だとか。
写真を撮ってもいいですか? の問いに気前よく”いいよ”とお返事
いただきました。この方は青年団の副会長さんでした。

昭和50年頃まではお神輿を担ぐ時は「わらじ」を履いていたそうですが
今は足袋から考案された地下足袋を履きます。

この地下足袋というのは、大正11年(1922年)石橋兄弟(後の国産タイヤ
の先駆者でブリジストンタイヤ創立)が考案したものとか、三池炭鉱で使用された
ものが人気を博し広まったとも、関東大震災後の復興作業用として履いたもの
ともいわれているようです。
地下足袋と呼ばれるようになったのは、じかに履物として使える足袋からとも、
地下で使う足袋からそのように呼ばれるようになったとも言われております。
今では作業用に特に建築作業用に便利に使われております。

青年団

小山郷のお神輿です。

神輿4 

末広会のお神輿は少し形が変わっていて、大きな鈴が前後につけられて
おります。
明治期に造られたともお聞きしました。

末広会神輿

いずれのお神輿も細工が凝られていて立派なものです。
そして、毎年御霊会が継続して行われることに大きな意義あるように
感じられます。世の中が平穏でありますように!
22 : 46 : 16 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
壇王法林寺
2012 / 05 / 16 ( Wed )
壇王法林寺

京の三条京阪駅の北側に「だん王」さんとして地元で親しまれている
壇王法林寺があります。

正式名は「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」という長い名前です。
元は天台宗に属し、蓮華蔵院と称していましたが、文永9年(1272年)に
望西楼了恵上人が浄土宗に改め、悟真寺と称したことにより始まります。

この悟真寺は永禄年間(1558~69)に焼失し、廃絶いたしましたが、
琉球から帰国した袋中上人が慶長16年(1611年)京都に入り、この地に
草庵を建立「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名付けました。
ご本尊は阿弥陀如来

この後を継いだ2世團王上人が寺院興隆に力を尽くされ、阿弥陀堂(本堂)
を建立され、人徳も厚く町衆信者との交流を深められ「だんのうさん」
として親しまれてきました。

袋中上人は中国へ渡り勉学をし、未渡の経論を持ち帰りたいと願いましたが
許されず、琉球に3年間滞在の後帰国いたしました。
その琉球滞在中にも布教に努め王からも深く帰依されたと言われています。

琉球の伝統芸能エイサー踊りにも袋中上人の念仏の教えの影響がみられる
とも言われています。

そんな影響もあってこのだん王さんには琉球の雰囲気が感じられるところが
多くあります。

石柱


駒札

山門は瓦葺の唐破風屋根の下に仁王様がおられます。

山門


仁王像 仁王像2


蹲

本堂は京都市の指定文化財になっていて、寛政3年(1750年)12世上人の
時に建立されました。
内陣には細かな細工が施され、荘厳を極めた造りになっています。

まただん王さんでは、猫は古くから主夜神様のお使いであるとされ、江戸中期
より主夜神様の銘を刻んだ黒色をまとった招福猫(招き猫)が作られ信仰を
集めています。
寺社関連の招き猫としては最古のものだともいわれているようです。

当山でお祀りされている龍神様は加茂川龍神、または八大龍神とも呼ばれ
晴雨を司り、日照りや水難から守ってくださると龍神様で、6月の第1土曜に
「龍神法要」が営まれます。

本堂

西の川端通りに面した「川端門」も京都市の重要文化財になっています。
明和3年(1766年)本堂再建の際、有栖川音仁親王の寄進により建立された
ものだそうで、主夜神堂へ続く門であるため朱塗の開運門と呼ばれています。

西門

日頃通り過ぎてしまうところではありますが、中に入ってみるといろいろな
発見があり興味深いものがあります。

19 : 49 : 05 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
鶴屋吉信
2012 / 05 / 14 ( Mon )
京菓子の実演 鶴屋吉信

京の堀川今出川西入るにお菓子司の鶴屋吉信があります。
こちらのお店では京菓子の出来るまでの実演を拝見しながらお茶を戴く
ことができます。

店舗

お店の2階は数寄屋づくりのお休み処となっていて、「菓遊茶屋」で
熟練したお菓子の職人さんによる、京菓子の実演を拝見し、お茶を戴く
ことができます。

月替わりでお菓子の種類が変わります。5月のお菓子は「岩根つつじ」と「花菖蒲」の
いずれかから選んで作って頂きます。


実演1 実演2

花菖蒲は白餡が中にはいります。
先ず外側の菖蒲をそめた生地に花菖蒲の中心を白餡でぼかしをいれます。
それを裏返して中に白餡を包み込み、茶巾しぼりにして形を整えます。


         実演3

茶巾しぼりをする時の襞のとりかたがポイントとなるそうです。
あっと云う間にできあがります。

         実演4

岩根つつじは「きんとん」で中は粒餡が入ります。
躑躅になる部分の生地を裏ごしにしてほそく出てきたのを餡に
くっつけていきます。
この裏ごしの時には一挙に力強く押し出すのがポイントだそうです。
そうしないと細いものや均等にできないそうです。

実演7 実演8

躑躅の花びらとなる処はさらに細かい裏ごしをかけます。
鮮やかな赤い花びらが緑に映えてとても綺麗です。


       実演5


    実演6

完成した出来たてのお菓子と抹茶を戴きます。
甘すぎず、抹茶お福加減もとてもよくおいしく頂きました。

完成

鶴屋吉信さんの菓遊茶屋は水曜日がお休みです。
実演と御抹茶は800円で戴くことができます。


           お菓子
17 : 23 : 11 | 京菓子 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
弥次さん 喜多さん
2012 / 05 / 13 ( Sun )
弥次さん、喜多さん像

京の三条大橋は天正18年(1590年)豊臣秀吉によって東海道の
西の起点、東からは終点にあたる京の玄関口として架けられました。

その三条大橋の西詰めの辺りに弥次さん、喜多さんの像が置かれて
いるのをご存でしょうか?

駒札

この像は江戸時代後期享和2年(1802年)から文化11年(1814年)に
かけて初刷された十返舎一九が書いた『東海道中膝栗毛』の主人公
である弥次郎兵衛と喜多八をモデルにして造られたものです。

膝栗毛とは自分の膝を馬のかわりに使う徒歩旅行の意味です。

江戸は神田八丁堀の栃面屋弥次郎兵衛と居候の喜多八が厄落としに
お伊勢詣りを思い立ち東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都大阪
へと巡る様子を滑稽に描いた紀行文です。

物語では大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊って”はしご”を
買わされることになってしまう話になっています。

その三条大橋の西詰めに三条小橋商店街の方々によって平成6年に
建立されました。
作者は二科会の会員で彫刻家の小山由寿氏によるものです。

京都には旅の安全祈願をする西院春日神社があり、その春日神社に
旅行安全を、また還来成就の神である”還来(もどろき)神社に
ご祈祷をして頂いたありがたい像であります。

当時旅の姿や長閑な様子がうかがえます。

銅像


その弥次喜多像の隣にあるのが「撫で石」です。

「無事還りくる」を祈願する還来(もどろき)神社にならって、旅の
安全を祈願する「撫で石」も同時に設置されました。

この石を撫でて無事楽しい京都の旅が成就できることを祈ります。

この石は鞍馬から産出した「鞍馬石」で鉄の含有により玉葱状に
剥離が現れ鉄錆色が前面を覆っているのが特徴である石だそうです。

なで石

つい最近も京都祇園で痛ましい交通事故が起きました。
どうぞ事故がありませんように、京都に訪れてくださった方の安全を
お祈りいたしました。
22 : 39 : 39 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
櫟谷七野神社
2012 / 05 / 12 ( Sat )
櫟谷七野神社

京の上京区大宮通芦山寺上るに櫟谷七野神社があります。

鳥居

5月は京都の三大祭り、葵祭が15日に行われますが、その葵祭の斎王代に縁の
あるのが櫟谷七野神社です。

ご祭神は高紗大神、春日大神、武甕槌命をお祀りされています。

この辺りは平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎王が身を清め
住まわれていた御所(斎院)のあった場所で紫野と呼ばれていました。
「紫野斎院」とも呼ばれておりました。
その紫野斎院の一画にあるのが櫟谷七野神社です。


地元では春日神社とも呼ばれ文徳天皇の皇后(染殿皇后)が奈良三笠山の
春日神社に祈願して皇子(清和天皇)が誕生したことにより貞観元年(859年)
当社へ春日大神を奉祀したのを起源とするとあります。
社名は七つの神社を合祀して七野と名付けられたようだとも、または平安京周辺
の七野の惣社との説もあるようです。

本殿

お社


応仁の乱で灰塵に期しましたが永正9年に再興されたが織田信長が遊宴のために
社を麓に引き下ろしたのを、秀吉が山内一豊に命じて再建されました。

その時秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋が刻まれて
いたのが、今でも残されております。

石垣 家紋

石垣 家紋2

本殿横には賀茂斎院跡の石碑が建てられていて、毎年葵祭の斎王代が決まったら
まずこの櫟谷七野神社に参拝されることになっております。

賀茂斉院跡

また当社では毎年春になるとどこからともなく一頭の鹿が神前に現れ、奈良へ送り
返すということが明治6年まであったようで、この神縁により明治28年当社の依頼
により奈良の春日神社から神鹿2頭が貸与されたとの記録が春日大社に残っている
ようです。

今では鹿の銅像が置かれています。

春日神社石碑

鹿

又第59代宇多天皇の皇后が離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと
祈ったところ神前に白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよとのお告げがあり
その通りにしたところ天王の愛情が戻ったとの言い伝えから、社前に白砂を
積めば浮気封じ・愛情復活の願いが叶うと言われ、社前に積む砂「高砂山」
と呼ばれ今も信仰を集めています。

御祈祷

御祈祷の砂

砂で愛情を取り戻すというのもなかなか面白いです。



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萬壽禅寺
2012 / 05 / 11 ( Fri )
京都五山 萬壽禅寺(万寿寺)

足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると禅宗を信仰して
いたため夢想疎石が中心となり京都の寺院から新たに五山が制定
されました。

室町時代、第3代足利義満が相国寺を創建してから京都五山、鎌倉五山を
区別し、南禅寺を五山の上に置くと云う改革が行われました。

その京都五山のうちの一つ万寿寺があります。
東大路通の東福寺バス停前に萬壽禅寺と書かれているのが当該の
寺院です。

山号は京城山、 ご本尊は阿弥陀如来坐像

白河天王の皇女郁芳門院の御所(下京区万寿字通高倉付近)を寺として
改めた六条殿が前身といわれております。

正嘉年間(1257~59年)十地覚空、その弟子東山湛照が東福寺の開山
円爾弁円に帰依し浄土宗から禅宗に改宗し、萬壽禅寺といたしました。
京都五山第5位に列したが永享6年(1434年)現在地にあった三聖寺に
移して再興されました。
伽藍は東福寺北大門の東北一体に広がっていましたが、1935年
京都市電の開通で東福寺の伽藍から分断されることになりました。

石柱

鐘楼門は国の重要文化財に指定されています。

山門

新緑がまぶしい境内は綺麗に整備されています。

本堂

通常は非公開で中に入ることはできません。

お庭
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西陣魚新
2012 / 05 / 10 ( Thu )
有職料理 西陣魚新

京の西陣に、宮中のお料理司として御奉仕されていた西陣魚新が
あります。

安政2年創業の「西陣魚新」さんは大正・昭和天王の即位大饗の宴や
今上天皇の即位の茶会、又宮家にと明治維新まで仕えてこられた由緒ある
料亭です。

その料理の流儀は四条山蔭流を祖とする流れを組んでおられます。
京都で今まだ有職料理を継承されているのは西陣魚新、萬亀楼、中村屋
の三軒のみのようです。

御所に出入りを許されたお店のみが掲げられる白の麻暖簾がかけれらております

表構え

この辺りは昔は室町幕府がおかれていたところで室町幕府の「七松観」と
呼ばれる七本の素晴らしい松のうちの一本がこの魚新さんの中庭に残されて
おります。

七松観址

玄関には宮内庁御用の看板が掲げられております。

ご用

玄関

敷地内に置かれている井戸は藤原定家がお茶に使ったと言われる名水の
井戸が残されております。

井戸

手前が桜の木でその奥に七松観の松が見えます。

松

丁度端午の節句でお飾りがしてあります。

「京甲冑」は国宝の模写で本金の大鎧、 
  京都伝統産業優秀技術者の安藤桂甫氏によるものだそうです。

とても立派なもので、保存もよろしく輝きが違います。

京甲冑


甲冑2

正倉院御物の写し「子の日箒」
これは年頭の初子の日に衣食の豊を祈る儀式に用いられるもので、
箒は玉真蚕などを掃くための道具だそうです。
始めて拝見いたしました。

箒

檜による兜だそうです。 宮中では窺い知れないいろいろなものが
あるのですね。

檜兜

お座敷の床飾りも素晴らしい調度品が並べられております。
螺鈿の香炉台は細かくて色も時代が醸しだす落ち着いた素晴らしい色が
でております。
掛け軸は八坂神社の絵が描かれています。  作者は聞き洩らしました。

床飾

床飾り2

屏風も宮中の雅な遊びが描かれております。

屏風

屏風2

さて本日のお料理です。

ちまき寿司が3色よもぎの葉が添えられております。
傍には山芋にカニの身が添えられております。
豆乳豆腐にウニが載せられています。 

料理1ちまき寿司

器が素晴らしいです。季節の菖蒲が本金で描かれていてどれも手描きなので
夫々模様が変えられております。

椀

牡丹鱧に玉子豆腐、アスパラと柚子が香り付けに添えられています。
素材を生かしたやさしい味付けはさすが京料理です。

鱧吸い

お造りはイカ、鯛、鰹の3種、 しろみのお魚は自家製のポンズで
色のお魚はたまり醤油で、夫々素材を生かした薬味を使います。

造り

稚鮎におたふく豆、茄子の田楽です
鮎がもう食べられるのですね! 頭から骨まで全て戴くことが出来ます。
柔らかくて、焼加減も鰭の塩加減も素晴らしいです。
季節の先どりです。

鮎

次のお料理は魚新さんの名物料理の「今出川豆腐」です。
色とりどりの野菜のあんがたっぷりかかったお豆腐に若狭のぐじを使った
お料理です。
旧宮家のお気に入りのお料理で別名宮様豆腐とも呼ばれていたそうです。
江戸時代に刊行された豆腐料理の「豆腐百珍」にもでていたそうです。


土生姜の香りがとてもよく、お豆腐にお味がしみ込ませてあるのであんと
マッチして名物のお味をじっくりと戴きました。

今出川豆腐

天麩羅はホタテとウニの挟み上げ、茗荷のかきあげ、とうがらしです。
サクサクとしていて、揚げたての茗荷は香りもそのまま楽しめます。
ホタテの天麩羅は始めて頂きました。

天麩羅

豆ご飯は海老が添えられています。彩りも山椒の香りがとてもよく食が進みます。

ご飯

シャーベットは微妙なお味です。麹と生姜のほのかな味のするシャーベットは
始めての体験で、とても美味しいでものでした。
苺もまさに今旬です。

デザート

どのお料理も素材の味が生かされていて素晴らしいでした。それと同時に器の
素晴らしさ。なかなか味わえない体験でした。

富岡鉄斎

富岡鉄斎の額や金箔の山水画の屏風、鯉の屏風は夫々お部屋の雰囲気に合わせて
組み合わされていて、まさに芸術鑑賞です。
屏風3

京のお料理は器の美、しつらえの美、素材の美・彩り、五感で味わう素晴らしい
ものです。
西陣魚新さんへは予約が必要です。
住所は上京区中筋通浄福治西入る、  電話075-441-0753です。
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筒城宮伝承地
2012 / 05 / 09 ( Wed )
京田辺の古刹巡り最終章 筒城宮伝承地

1986年京田辺市に同志社大学が開校されてから早26年が経ちました。

同志社大学

当時この辺りは何も施設のないところで、97万㎡にも及ぶ広大な土地に
新たな環境をもとめ、最先端の設備・機器・教育設備が整えられた大学
として注目を集めました。

同志社キャンパス

校舎は煉瓦タイルで統一され廻りの景色との調和を大切にして建設されました。

チャペル

この同志社大学の敷地内に「筒城宮址」の碑が建てられています。

この辺りは京田辺市多々羅都谷という地名です。

「筒城宮」は継体天皇が樟葉宮で即位をした後、511年から518年まで弟国宮に移る
までの7年間、都をおいた地として日本書紀に記されているといわれます。
が学術的に証明されたわけではないそうです。

この同志社がおかれている地名が「都谷」というところから根拠の一つであるとも
いわれています。

昭和36年(1961年)に筒城宮跡顕揚会が結成され「筒城宮跡」の石碑が建てられた
そうです。

駒札

石碑

この筒城宮の石碑の建立に合わせて「継体天皇皇居故址」の碑も隣接地に
建てられたそうです。

1986年にはこの碑は地元の要望もあり同志社国際高校から同志社大学構内の
不動尊置址碑の脇に再度移設され現在に至っているようです。

大学構内にこのような遺跡がおかれているのも珍しいことです。

継体天皇皇居址


石碑2

以上京田辺の歴史をひもときながら歩いてみました。

かって山城国といわれた京都府の最南端の地は大阪、三重、奈良、滋賀の四府県に
囲まれ古くから東海、北陸、山陽、山陰に続く街道として重要な役割を果たして
きたところです。

又ずっと昔、平城遷都とともに南山城の地は風光明媚な地として木津川の
ほとりに離宮が営まれました。

聖武天皇は一時期ここに恭仁京(くにきょう)を営むことになったといわれる
南山城はそんな歴史ある地で、お寺などは奈良時代や平安時代に創建された
古刹が残る地でもあり、感動を覚えるところでした。
18 : 31 : 47 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
観音寺
2012 / 05 / 08 ( Tue )
京田辺の古刹巡りⅥ 観音寺


京田辺の古刹巡りも愈々終盤になってまいりました。

朱智神社から天王のバス停の水取方面に下ったところに天王墓地があります。
この墓地に一石多尊石仏が三面並んでいます。
一石多尊石仏は室町時代以降に現れたものと伝えられております。

多尊石仏

右側の石仏は三十三の石仏が碑面一杯に彫られて、最上段の右側が一番で
最下段の左下が三十三番で終わるように配置されています。
この前で一度手を合わせると三十三か所の観音霊場を巡った御利益があるそうで
庶民がまだ旅に出るのが困難だった時代には有難い仏様だったようです。
高さは150cmで江戸時代の作だそうです。

左側の石仏は十六尊仏碑で
阿弥陀如来と地蔵菩薩が交互に彫られています。
夫々像の右側に女性の名前が刻まれていることから生前に死後の法要を
営む逆修の碑とみられているようです。
高さは115cmで天正18年(1590年)の銘があります。

このように天王から生駒市にかけてこうした石仏碑が散在して見られる
ようで貴重なものと云われております。

石仏


石仏を通り過ぎて程なくのところに観音寺が見えてきます。
お寺までの両参道には桜が今は新緑で、花の頃は桜と菜の花でそれは
綺麗な光景が見られるところと地元の人々に親しまれております。

観音寺は真言宗智山派に属し、大御堂とも普賢寺とも呼ばれております。
ご本尊は十一面観音菩薩立像。

かってこの辺りは壮大な伽藍を誇る大寺がありました。
寺は奈良時代に創建された普賢教法寺の後身となるようです。

寺伝では天武天皇の勅願により義淵が開基となり、次いで聖武天皇の
御願により天平16年(744年)良弁が伽藍を増築し普賢教法寺と呼ばれた
ようです。

以来再三の火災によって焼失いたしましたが、その都度藤原氏の帰依を
受けて再建されてきました。

駒札

盛時には諸堂十三、僧坊二十を数える大寺であったようですが、
永享9年(1437年)の火災で殆ど焼失いたしました。

その後再建はされたものの、往時の寺勢はなくなりました。
現在の本堂は昭和28年に再建されたものです。

ご本尊の十一面観音菩薩立像は国宝で、もとは普賢教法寺の旧仏で
良弁によって天平16年(744年)に安置されたものだそうです。

気品のある穏やかなお顔の観音様です。

本堂

またこの地は奈良のお水取り「修二会」に使われる竹送りの地でも
あります。
竹送りの当日は朝8時から竹藪に入り目星をつけておいた竹を伐り出し
観音寺へ運び入れ、旅の安全を祈願してから大八車に積んで二月堂へ
運んでいきます。


二月堂竹送り


竹送り2
23 : 14 : 29 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
朱智神社
2012 / 05 / 07 ( Mon )
京田辺の古刹巡りⅤ 朱智神社

千鉾山から下ってくると朱智神社へと出てまいります。
朱智神社は式内社(官幣小社)でご祭神は主神に迦邇米雷王命
(かにめいかづちのみこ)配神に素盞嗚命(牛頭天皇)と
天照國照彦火明命をお祀りしています。

垂仁天皇の時代(BC29~AC70)迦邇米雷王命がこの地を治め、その子孫が
朱智姓を名乗ったと伝えられています。
仁徳天皇の御代69年(381年)この地より西方の西峰山頂に社殿を創建、
迦邇米雷王命と大筒城真若王を祀ったといわれております。
宣化天皇元年(535年)に朱智大王と称し、この地に遷座されたとあります。

平安時代初期空海が当地を訪れ、素盞嗚命を牛頭天皇に配した(置き換えた)と
いわれ、以後社名を牛頭天王社としました。
近年に天王社より朱智神社に戻し、郷社(1873年)となったそうです。

参道入り口には大きな自然石による燈籠がおかれています。
昔は燈籠は町への道しるべにもなり重要な役目も果たしました。

灯籠

境内入り口には明神鳥居と両部鳥居があります。

鳥居

 石神


駒札

本殿は慶長17年(1612年)に建てられたもので、一間社流造の桧皮葺
京田辺市内でも最大級の大きさだそうです。

朱智神社

正面蛙股には唐獅子や牡丹、周囲の四面の蛙股には鶴、大黒天、巾着
など桃山様式の豪華で色鮮やかな彫刻が施されています。

蛙股

社殿は平成16年、17年に改修され、軒下の彫刻も彩色復元事業により
極彩色の色鮮やかな姿は創建当初の姿と言われているそうです。

社殿

社殿2

牛頭天王像がお祀りされていて頭上には牛頭をいただき、憤怒の表情
を持ち正面及び左右の顔を持ち、唐様の装束で身を包み、右手を上へ
左手には宝珠を持つ、一木造の神像は10世紀後半の作で類例の少ない
貴重なる像であると記されております。

牛頭天皇

牛頭天皇2
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千鉾山
2012 / 05 / 06 ( Sun )
京田辺の古刹巡りⅣ 千鉾山

笠上神社からさらに稜線にそって登っていくと京田辺市の最高峰千鉾山
到着いたします。

千鉾山2

戦国時代落ち武者がこの山頂まで逃げ延び、刀や鉾をこの地に埋めたところ
から千鉾山と名付けられたそうです。

また江戸時代、大阪(堂島)の米相場通信の中継点といわれ、交野の「旗振山」
から伝わった米相場を大山崎の天王山に旗振りで伝えたといわれております。
堂島から交野までわずか4分で伝わったそうで、明治26年(1893年)に電話が
開通しましたが、早さはこの旗振り通信にはかなわなかったそうです。

旗振りは堂島~千鉾山~天王山~伏見へと伝わったそうです。

面白い発見でした。


千鉾山3

又ここは三角点でもあり、地図を作るための大切な基準点でもあります。
10年ほど前までここに櫓を組んで測量されたそうです。
今はカーナビのように人工衛星から測量するそうです。
三角点の3つを3時間ほどで歩ける珍しいところといわれております。

三角点

頂上には生駒山の歓喜天の揺拝所跡の石碑がおかれています。

千鉾山

山間は今は新緑で緑の匂いがいたします。

千鉾山新緑

京田辺の内田、高船から天王にかけての地層はほとんどが花崗岩からできて
いるようです。
山肌があわわになったところでは地層の変化がみられます。
この花崗岩は約8000年前からできたそうです。説明書きに書かれていました。

地層

自然の中には高山植物も自生しています。
雪持草とも、まむし草とも呼ばれるサトイモ科の多年草でまむしの頭の
形のによく似ているところから名付けられたといわれております。

まむし草

山間の狭い土地には棚田があり、お野菜が植えられていたり、
これから田植えが始まるようです。

棚田

まだまだ自然が残された豊かな心地のするところです。
18 : 02 : 07 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
笠上神社
2012 / 05 / 05 ( Sat )
京田辺の古刹巡りⅢ 笠上神社

石船神社より高台へ登っていくと田辺市では最高所、南山城南部、
奈良方面が一望できる景勝地へと出てまいります。
この辺りから西方へいくと生駒市くろんど池へ、さらに尾根伝いに
北方に行くと天王山へと続きます。

表示

その高台に笠上神社があります。正式には瘡神社(かさじんじゃ)
というそうです。
創建は定かではないようで、祭神は豊受比売命 社各は無格社

駒札


鳥居

現在の本殿は昭和初期に篤志家によって再建されたもので
瘡を患う人々の平癒祈願の信仰がある神社だそうです。

昔は子供の病気で一番恐れられていた瘡を患うと命にかかわる病気
で藁にもすがる思いで世の親たちは恐れていました。

しかるに瘡の神様への信仰は子を持つ親には救いの神様であった事
でしょう。

本殿

本殿は明神鳥居の後、一間社流造で覆屋にかこまれております。

本殿2

境内には本殿のほかに、身代わり不動尊堂があり、その奥には
石造りの不動明王坐像がお祀りされています。

木々の中に威厳を表した不動明王像で、一人では不気味な気が
いたします。

神紋

不動尊


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石船神社
2012 / 05 / 03 ( Thu )
京田辺の古刹巡りⅡ 石船神社

極楽寺から徒歩で15分位のところに石船神社があります。

創建は定かではないようですが、物部氏の降臨神話を伝える神社
と言われています。

「伝承によると、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天磐船に乗り
先ず高船地区の櫂峯(カジガミネ)に降臨し、その後河内の国、哮峯(タケルガミネ)
に天下りし、大和国鳥見白庭山に遷ったと云う」
と伝えられているそうです。

鳥居の種類には神明鳥居、明神鳥居、両部鳥居、変形鳥居が
あります。

こちらの鳥居は二本の柱が八の字型に据える転びという形式のもので
この形を「明神鳥居」といわれます。
この明神鳥居の形は八坂神社の鳥居が典型的な形といわれております。

鳥居

創建が定かでない本殿はかなり時代を感じさせます。
割り拝殿形式で、本殿の左右に事代主神社と大国主神社が覆屋で覆われています。

割拝殿

大国主命は国造りの神様、農業、商業、医療の神様として信仰されています。

事代主命は託宜の神様で国譲りの神話において釣りをしていたことから海に
関係の深いえびす様と同一視され海の神様、商業の神様として信仰されています。

お社2

お社
08 : 09 : 19 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
極楽寺
2012 / 05 / 02 ( Wed )
京田辺の古刹めぐり 極楽寺

京田辺市は京都、大阪、奈良の中間点として交通の要衝として栄えた
町で、豊かな自然に恵まれ、近年同志社大学が置かれてからは交通の
利便性も図られ学研都市として発展している町です。

その京田辺市では観光ボランティアガイドの方々が案内される観光コース
の企画が実施されています。

今回はその一コースを巡りました。

JR三山木駅からバスで約20分位標高200~300mの山手に向かいます。
高船バス停で下車、ここから今回の古刹巡りが始まります。

高船バス停から徒歩
最初に到着したのは極楽寺です。

石柱

極楽寺は西山浄土宗に属し、山号を八王山、ご本尊は阿弥陀如来坐像
天正年間(1573~1591年)乗阿大空上人を開山として創建されました。

駒札

本堂にはご本尊阿弥陀如来坐像の他に浄土宗の開祖法然上人と善導大師像が
安置されています。

本堂

境内には鎌倉時代後期の作と伝えられる五重の石塔が二基がおかれて
います。

その内の一基には軸部分に梵字が刻まれています。
東面には阿閦如来(あしゅくにょらい)、西面には阿弥陀如来
北面には不空成就如来、 南面には宝生如来
が表されているそうです。

五輪塔1 五輪塔

もう一方の五重の石塔の軸部分には四体の仏像が彫られています。
東面:薬師如来、西面:阿弥陀如来、北面:弥勒菩薩、南面:釈迦如来

五輪塔2 五輪塔3

また、1.75mの花崗岩製の珍しい板石塔婆があり、柱の上部には
阿弥陀如来の梵字「キリーク」が彫られています。


塔婆

極楽寺の南側の土手には饒速日命(にぎはやひのみこと)がこの高船地区に
降臨されたと伝えられる石船の舳先の部分が残されているそうです。

山間の鄙びたお寺です。


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無二荘の牡丹園
2012 / 05 / 01 ( Tue )
無二荘の牡丹園

京都府の最南端といわれた京田辺市,精華町、木津川市あたりはかって山城国
といわれ、木津川の水を利用した水運とともに、政治、経済、宗教などに
その重要な役割をはたしてきた地です。

そんな南山城の田辺町に「無二荘」という牡丹園があります。

無二荘とは二つとない山荘の意味だそうです。
こちらの牡丹園はまったく個人のお家で、牡丹を毎年1000株以上ともいわれる
位沢山の牡丹が作られております。
この牡丹を丹精込めて作っておられる方は辻尾仁郎氏で、御自身は
お仕事を持ちながら、又書家としての顔も持ちながら、この園を立派に
育て上げられてこられました。

見事な牡丹はお爺様の代から営々と牡丹を増やし続け現在の牡丹園にして
こられました。

広い敷地には丁度満開の花々が咲き競っております。

風景

芍薬は背が低いので立って観賞を、牡丹は背が高いので座って観賞を
 ”立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花”

暫しその華麗なる大輪に釘付けされます。

お花を愛でるのは朝早くがいいと言われます。開花の瞬間は「パア!」と
音がするそうです。

牡丹4

牡丹1

牡丹2


牡丹3

牡丹5

牡丹6

躑躅も丁度満開となっておりました。

躑躅

沢にはシャガが新緑の中で可憐な花を咲かせております。

シャガ

牡丹は丁度今が満開です。急ぎ足ではなくゆっくりと一種類づつ
特徴を、色合いを、大きさを愛でるのが最高です。



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