スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- )
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-- : -- : -- | スポンサー広告 | page top↑
車折神社
2012 / 06 / 30 ( Sat )
車折神社(くるまざきじんじゃ)

車折神社は京福電鉄嵐山線の車折神社を下車したところにあります。

ご祭神は清原頼業(よりなり)をお祀りしています。

清原頼業は平安時代後期の儒学者で天武天皇の息子・舎人親王の子孫に
あたり、高倉天皇に任え、大外記の職を二十四年間任め和漢の学識と
実務の手腕は当代無比といわれました。
晩年は九条兼実から政治の諮問となり、兼実から「その才、神といふべく
尊ぶべし」と称えられたほどの才覚を発揮いたしました。

平安時代末期の文治5年(1189年)に逝去、清原家の領地であった現在地
に葬られ、そこに廟が建ち、やがて頼業の法名「宝寿院殿」にちなみ
「宝寿院」というお寺が営まれます。

この寺は室町時代に足利尊氏によって嵐山の天龍寺が創建されるとその末寺
となりました。

後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に遊行の時社殿の前で牛舎の轅が折れたので
門前の石を車折石と呼んで「正一位」「車折大明神」の神号を賜り以来
車折神社と名付けられたと伝えられております。

車折神社石柱

今は青紅葉がとてもきれいです。

鳥居


駒札


手水鉢

今日は6月30日、夏越の大祓の日にあたります。一年の折り返しの日
各神社では茅の輪をおいて、この半年の無事を感謝し、この先の半年の
平安・無事をお祈りいたします。

茅の輪

茅の輪を潜って心身を清めた後「人形(ひとかた)」を書いて納めると
気づかぬうちに身についてしまった罪や穢れを悉く祓われ運気がおおいに
上昇します。と書かれた案内で、人形に名前を書き100円とともに納めます

人形

本殿前の鳥居は朱がとても綺麗で新緑の緑によく映えます。

本殿

本殿でしっかりとお参りをいたします。

本殿2

車折神社には古来より願い事を叶える神石「祈念神石」というのがあります。

様々な願い事を社務所で授かった祈念神石にご神前で強く念じた後、
持ち帰り、願い事が成就した折には、自宅や海、川、山などで石を一個
拾って洗い清め、その石に「お礼」の言葉や祈願内容を書いて授かった
祈念神石と一緒に返納するというものです。

その記念神石が沢山本殿前に奉納されています。
こんなに沢山の願いが叶えられたのは幸せなことですね。

祈念神石

又車折神社の境内末社には芸能神社があり、ご祭神に天宇受売命(あめの
うずめのみこと)をお祀りされています。

神代の昔、天照大御神が天の岩戸に御隠れになりこの世が暗闇になった時
天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神を御慰めしたところ
天の岩戸が開かれ再び光を取り戻したという神話から芸術・芸能の分野
で活躍する人々から熱い信仰を得ている神社です。

お社には芸名・ペンネーム・劇団名が書かれた玉垣が2000名以上奉納されて
います。

芸能の神様


舞

明治21年から明治26年まで近代日本画の巨匠といわれた富岡鉄斎が当
車折神社の宮司を勤められました。

そのため車折神社には富岡鉄斎の作品が数多く残されていて、財団法人
車軒文庫が管理され春秋に予約制で公開されているようです。

境内に富岡鉄斎の筆塚というのがあって、この中に鉄斎が使用した筆が
2000本余り納められているといわれております。

富岡鉄斎の筆塚

境内末社の一つ清めの社です。
悪運・悪因縁の浄化を助けるてくださる神様で、円錐形の立て砂は石を
モチーフにしていると書かれております。

このほか末社は13余り祀られております。

清めの社

車折神社のメインイベントといわれる「三船祭」が毎年5月14日に
行われます。
宇多天皇の行幸のあった大堰川の舟遊びにちなみ昭和3年より始められた
行事で御座船、龍頭船、鷁首船など20数艘が様々な古典芸能を奉納し
雅な船遊び行われ、多くの拝観者が詰めかけます。
その時に使われる船主の飾りが展示されています。

龍頭

鷁首

そして6月30日は京の都では水無月を戴く日です。
氷室に氷を保存して、夏に使う先人の知恵を思い、氷に似せた水無月を
無病息災を願って戴きます。

水無月

スポンサーサイト
20 : 15 : 06 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美濃吉
2012 / 06 / 29 ( Fri )
お手軽京料理 美濃吉

京の町中で、お買い物の途中で、又待ち合わせの時に、手軽に京料理を
楽しみたい時があります。

京の百貨店、高島屋では最上階に京廻廊と名付けられたお食事処が設け
られております。
そちらでは京の老舗が出店をだしておられ、比較的お手頃なお値段で
おいしく戴くことができます。

がもっとお手軽にそれこそ地下で食料品やお菓子を買ったついでに空腹
を満たしたい時に京料理を楽しめるコーナーをみつけました。

高島屋の地下、お菓子のコーナーとお弁当を販売されているコーナーの
奥に「美濃吉」の暖簾が架かっています。

席数は8名くらいのスペースなのでよく満席になります。

暖簾

美濃吉は本社は東山三条白川橋東にあって創業290年の老舗です。
享保年間初代佐竹十郎兵衛が美濃の国から京に移り、三条大橋の
たもとで豆腐や田楽を食べさせる腰掛茶屋を開いたのが始まりと
いわれております。

三条大橋の袂から「みのきっつあ~ん」「へぇ~え」と注文の声が
聞こえたといわれ、代々美濃屋吉兵衛と名乗っていたのが明治に
入ってからその名前が詰まって「美濃吉」と名乗るようになったと
書かれています。

東山三条白川の本店では「竹茂楼」と名付けられた料亭として本格的
京料理を出されていますが、お手軽料理の支店も多く出されています。

食事

高島屋の地下では季節料理2,100円が供されております。

突き出し

きゅうりの酢の物、椎茸、海老、出汁巻き卵、青梅

造り

鯛と蒟蒻のお造り、茄子 南京 三度豆の煮物、卵豆腐じゅんさいのお汁

鮎

鮎の塩焼き

豆ご飯

豆ご飯

わらび餅

 蕨餅 

簡単で気軽に戴くお昼のメニューです。
21 : 44 : 32 | 京料理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
七条仏所跡
2012 / 06 / 28 ( Thu )
七条仏所跡

京の七条通河原町西入る材木町に七条仏所跡という駒札が
たてられています。

この辺りは平安時代中期に活躍した「定朝」始めその一族・子弟・
子孫が長く居住し、彫刻に励んだ「仏所」のあったところで「七条仏所」
「七条大仏所」と呼ばれていたそうです。

通常の民家の垣根に駒札が建てられているだけなので、殆ど見過ごして
しまいます。

駒札2

「仏所」とは仏師の集団または工房のことで、仏所の名称は承保2年
(1075年)法勝寺造営の時仏所において供養を行ったという記述が
みられ、鎌倉期には「仏所大工三条覚円法印」「仏所方眼院慶」
等仏師集団としての仏所が発展していきました。

室町期になると仏所はされに分化して「三条仏所」「七条仏所」
「五条仏所」「高辻大宮仏所」等と分化していきました。

「定朝」宇治平等院の阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で「和様」
と呼ばれる優れた彫刻様式を完成させたほか卓越した技術によって
僧網仏法橋を与えられ、仏師の共同組織として仏所の制度を整える
など仏師の社会的地位の向上に努めました。

これらのことから定朝は我が国における仏師の祖と仰がれるように
なりました。

鎌倉時代に入ってこの七条仏所から、運慶・湛慶・快慶が相次いで
現れ、多くの名作を世に送りました。

室町期に入って彫刻全体としてふるわず、この仏所も21代康正の時
四条烏丸に移転いたしました。

幕末になって兵乱によって罹災し、仏所としての遺構は完全に失われ
現在は民家になり、その遺構の駒札だけが残されております。

仏所跡
23 : 28 : 40 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
燐好院
2012 / 06 / 27 ( Wed )
坐禅体験 燐好院

京都の上高野、叡山電鉄三宅八幡の近くに燐好院という尼寺があります。
臨済宗建仁寺派に属し、、ご本尊は阿弥陀如来をお祀りされています。

禅

燐好院は慶長元年(1596年)上高野燐好町に月渓正円比丘尼が創庵され
三江紹益禅師によって開山されたと伝えられ上高野最古の庵寺だとも
いわれております。

石柱

庵寺らしい優しい感じのするお寺はそのご住職さまの面影が浮かぶ
ように感じられます。
季節にふさわしい紫陽花がお出迎えをしてくれています。

玄関

立派な燈籠がみえ、お庭も青紅葉、沙羅、どうだん躑躅、等今は新緑
が苔とともに色鮮やかに輝いております。


灯籠


お庭


夏椿

内玄関には香が焚かれ、達磨さまのお出迎えです。

燐好院のご本尊の阿弥陀さまは織田信長が比叡山焼き討ちをした時に
残された阿弥陀さまを尼さんが担いで比叡山をおり、ここにお祀り
されたもので、非常に力の強い仏様であるとご説明を受けました。

平安時代後期の作で木造の寄木造、その後修理が施され、今のお姿
ができました。
今は金箔のお姿に後背、台座も綺麗にされ輝きを増しています。

内玄関

こちらの燐好院では坐禅の体験をさせて頂くことができます。

先ず靴下を脱いで、飾りもの、時計をはずし身を整えます。
合掌をして一礼をした後、座布団に座り、足は結跏趺坐、又は半跏趺坐の
組み方(足を組んだ膝の上に乗せる)のいずれか出来る座り方。

手は白隠流(右手の親指と人差し指を輪にし、その中に左手の親指を通し
手のひらを組む方法)

目は1m先を半眼、 呼吸は腹式呼吸

坐禅は①呼吸を整える。 ②姿勢を整える。 ③心を整える

肩こりのある人、悩みのある人は警策を受けます。

初めての体験でしたので1回の坐禅は20分位、これを2回行いました。
通常は線香が燃焼する間約45分を1回とするそうです。

坐禅の後、お粥を戴きました。

一人づつ5個の大小の鉄鉢が組まれた器が布巾にセットされています。

先ず布巾を開いて、中に中敷きの布巾を膝の上に、
次に箸を口をつける箇所を外に出して置き、箸袋を膝に、
器をふき取る布巾を膝に
器を下から順に3個台座に並べます。

作法

一番大きな器にお粥が入れられます。この時手をすりすりしている間は
お粥が入れ続けられるので、すりすりを切って留めます。

次に沢庵2切れと梅干が配られます。

粥2  沢庵

ではいただきます。 沢庵は一切れだけ戴き、残りの一切れは最後に
お茶を入れて器を洗うために残しておきます。

粥

お粥が食べ終わったら、お茶がお粥の入っていた器に配られます。
残りの沢庵で粥の器をきれいに洗い、沢庵の入っていた器にお茶を
流します。 最後に梅干の入っていた器に流し、3個の器をきれいに
して、お茶を沢庵と共に戴きます。

お茶

お茶が済んだら、布巾で使った器を綺麗にふき取ります。
そして器を元通りに組み、布巾に包んで元通りのセットの状態にして
棚に戻します。

お水を使って洗い流さなくてもいいように工夫された食事の作法です。
食事の時は音を出さない。

究極のエコです。

とてもいい体験でした。
呼吸法は精神統一ができ、気持ちが落ち着き、内臓の働きが整えられる
といわれるもので、時間をみつけて毎日1回行うといいそうです。
21 : 57 : 56 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
道元禅師荼毘の遺跡
2012 / 06 / 25 ( Mon )
道元禅師荼毘の遺跡

曹洞宗の始祖道元禅師の示寂の地として当ブログ6月11日に
下京区高辻通西洞院西入るにその遺跡をご紹介いたしましたが、
その道元禅師が荼毘にふされたという遺跡が残されている地が
円山公園から円山音楽堂を経て雙林寺の近くにあります。

道元禅師荼毘の遺跡

道元禅師は村上源氏の流れをくむ内大臣久我通親を父に藤原基房の
子女を母に生を受けたと伝えられております。

13歳で比叡山にのぼり修行を積み宋にも渡り、帰国後建仁寺を経て伏見区
深草の安養院に入り、寛元元年に越前に赴き寛元2年に吉祥山大仏寺(永平寺)
を開きました。

終世権勢に近づかず深山幽谷を愛し、枯淡厳格な禅を守り、ひたすら
坐禅を通してその布教に努めたと言われる高僧でありました。

建長5年(1253年)8月に高辻通西洞院西入るの俗弟子の屋敷で54歳の
生涯をとじられ、東山の真葛ケ原で荼毘にふされました。

その遺跡が今も綺麗に聖地とされお守りされています。

荼毘遺跡

永平寺の始祖がこの京都に留まり、懐かしの地でその生涯を終えられた
ということと、その遺跡が残されているのを始めて知りました。
19 : 07 : 33 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
道祖神社
2012 / 06 / 23 ( Sat )
道祖神社

道祖神又は塞神(さえのかみ)とも呼ばれる神様は道路の魔を払い
道行く人をお守りする神様といわれております。

又村境や峠、辻、橋のたもとなどで疫病や悪霊を防いでくれる神様でも
あると言われます。

人間界と幽冥界の境を司るともされたようで、村の外れや鳥辺野への
堺、辻などにお祀りされて参りました。

その道祖神社が下京区松原通新町西入る藪下町にもあります。
小さな祠ですが地元の人々によって管理されています。

石柱

こちらの道祖神社には猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が
お祀りされています。

『今昔物語に』第20巻に「五条の道祖神」と記載されていたり、
『宇治拾遺物語』第1巻に「五条の斎」と記載があるようで、もともとは
五条の道祖神に由来するとみられているようです。
かっては五条天神社と地続きであったともいわれております。

鳥居

ご利益は旅人の守護神や首途の神様として信仰を集めていました。

本殿

道祖神社は上御霊神社の猿田彦神社や上京区幸神町の幸神社
七条のあたりにも、辻に面してお祀りされています。

地名

この松原通新町の角を「十念の辻」といわれ、江戸時代毎年12月20日に
六角獄舎から引き出された死刑囚を、五条河原の刑場(現在の松原大橋
周辺)へ引き回すにあたり、僧がこの辻で「南無阿弥陀仏」を唱えて罪人
を見送ったといわれております。

十念の辻1

死刑囚の最後をここの念仏で見送ったのは、古くからここに道祖神社が
鎮座していたことによるとも伝えられております。

十念の辻2



23 : 52 : 23 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
雙林寺
2012 / 06 / 21 ( Thu )
十二薬師霊場 雙林寺


京の八坂神社の近くに十二薬師霊場の第7番札所の雙林寺があります。

またの名を東山薬師といい正式には「大聖歓喜天雙林寺」といいます。
山号を金玉山と称し、ご本尊は伝教大師が彫られたという薬師如来を
お祀りしています。

石柱

延暦年間(782年~805年)尾張連定鑑が伝教大師を開基に招じて創建
したのが始まりと伝えられております。
その後鳥羽天皇の皇女が入寺されたこともあって、広い境内は円山公園
から西行庵のある辺りまであり、多くの塔頭,子院を有しておりました。

中世に入って衰退していたのを応永年間(1394~1427年)に國阿上人が再興
し、時宗一派の本山となり、東山道場と称しましたが、応仁の乱によって
再び衰退いたしました。

明治になって円山公園が設置された時に多くの寺地を失いました。

駒札

本堂に安置する薬師如来坐像は最澄が刻んだといわれ、平安時代の作で
重要文化財に指定されています。

本堂

この地はかって西行、平康頼、頓阿などが庵を結び住していた所として
伝えられ、本堂南西に西行堂が建てられています。

又豊臣秀吉がこの辺りでお花見の宴を催したとも伝えられております。


頓阿法師塔
23 : 36 : 25 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
竹の寺 地蔵院
2012 / 06 / 20 ( Wed )
竹の寺 地蔵院

京の西京区阪急上桂駅から徒歩13分位のところに地蔵院
あります。

山号を衣笠山と号し、臨済禅宗に属し、通称「谷の地蔵」又は
「竹の地蔵」
とも呼ばれている古刹のお寺です。
ご本尊は伝教大師の作といわれる延命安産地蔵菩薩がお祀り
されています。

この地はもと歌人の衣笠内大臣藤原家良公が山荘を営まれた所と
伝えられております。
家良公の没後、貞治6年(1367年)に管領細川頼之公が夢想国師の
高弟で、宗鏡禅師に深く帰依して当寺を建立されました。
宗鏡禅師は恩師夢想国師を開山に請じて自らは第2世となりました。

以後当寺は細川家の庇護を受けて次々と伽藍を建立、境内塔頭3院、
末寺23寺を数えるまでになりましたが、応仁の乱によって焼失して
しまいました。

江戸時代、貞亨3年(1686年)第14世古霊和尚によって再建されました。

駒札

現在の境内は東に総門が開き、その奥に本堂、中門を通って方丈、
庫裏、庭園が広がっております。

参道から総門までは今の時期は青紅葉が広がって新緑がとても
綺麗です。
何より静かな参道では鶯がこれぞとばかりに美声の限りをつくして
鳴いています。

参道

この地蔵院は一休禅師の修養の寺とも伝えられております。

一休禅師は後小松天皇の皇子として、応永元年(1394年)に当院の
近くの民家で誕生されました。

幼少のころから当院で修養され、6歳の時に安国寺に移って本格的な
修行を積まれ、大徳寺にも住され、晩年は京田辺の妙勝寺を復興して
酬恩庵とされ88歳で示寂されました。

山門

総門から真正面に本堂(地蔵堂)があります。
昭和10年に再興されたもので、置かれている位置は昔のままで
あると書かれています。

本堂

中央には伝教大師作の延命安産地蔵菩薩、右脇に夢想国師、
宗鏡禅師左脇に細川頼之公の木造が安置されています。

ご本尊(地蔵菩薩)

本堂の左手は墓所になっていて、細川頼之公のお墓と宗鏡禅師の
お墓があります。

墓所

お墓は大樹の根元に自然石が置かれているというものでこの
墓石は細川石と呼ばれ、通常のお墓のスタイルとは違い大変
珍しいお墓であるといわれております。

お墓には綺麗なお花が供えられていて
折しも今日は元首相の細川護熙氏がお墓参り兼撮影に見えたそうです。

細川頼之墓

大きな自然石の裏に「細川武蔵守頼之」と刻まれたお墓が見えます。

細川墓
 
細川家のお墓の隣に宗鏡禅師のお墓(自然石)が置かれています。

開山墓

本堂の右手に方丈へ繋がる門があり、門から方丈、庫裏、十六羅漢の
庭園があります。

こちらの十六羅漢は男山の八幡宮に願をかけているのでその方向
に少し傾いているといわれております。お庭は平庭の枯山水で苔が
とても綺麗です。

ここからは残念ながら撮影禁止となっております。

書院門

方丈は京都市の重要文化財に、庭園は京都市登録名勝となっています。

秋は今の青紅葉が一斉に紅葉し、賑わいをみせます。

22 : 31 : 43 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
徳大寺樋門の遺構
2012 / 06 / 19 ( Tue )
桂川 徳大寺樋門の遺構

桂離宮が築かれた、桂の地一体は平安中期から代々藤原氏が領有し、
鎌倉時代に入ってから近衛家の領有となりました。

この辺りは月の名所といわれ、桂離宮もその造営にあたっては月を
愛でるための古書院の正面に「月見台」が設けられたり、蹲に月を
写す「浮月」と命名された蹲がおかれていたりしています。

源氏物語の中にも

”月のすむ 川のをちなる さとなれば 桂のかげは のどけかるらむ”

と詠まれていたりいたします。

そして又この辺りは瓜の産地でもあったようです。
八条宮 智仁親王の書簡に「下桂瓜畑のかろき茶屋」という言葉もあると
いわれております。

桂離宮の池泉回遊のお庭には桂川の水が曳かれています。

この徳大寺樋門は桂川の度重なる氾濫を防ぐためのに築かれた堤防
(防塁)に設置されたもので桂離宮へ引き水をするために利用されて
いました。

徳大寺樋門の遺構


徳大寺遺構2

この樋門は明治41年5月(1908年)に改築されたものだそうですが、
流域の都市化等の変遷により平成5年6月(1993年)桂樋門新設に伴い
廃止されることになりました。

その一部が遺構として桂離宮の東側、桂川に面した整備された地に
残され展示されています。

徳大寺遺構
22 : 48 : 10 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
隆兵そば
2012 / 06 / 18 ( Mon )
蕎麦懐石 隆兵そば

桂離宮の南側、中村軒の裏に隆兵そばというお蕎麦屋さんがあります。

中村軒のご主人の弟さんが経営されています。
お店の前には田圃があって表通りの賑やかさから静かな住宅地へと趣が
変わった感がいたします。

店舗

こじんまりとしたお店で表には麻の清楚な暖簾が架けられております。
お部屋には床飾りがしてあり、こちらの掛け軸は小浜の仏国寺のご住職に
よる「関 南北東西 活路通」お花は額紫陽花、斑入り芒、升麻、下野
等が活け込まれていました。

こちらのお店では蕎麦懐石を戴くことができます。

床飾り

先ずは食前に梅とはちみつのさっぱりとした飲み物が出されました。
食欲をそそる口当たりです。


食膳梅

食前酒は滋賀県の冷酒がだされました。
どちらかというと辛口のお味がいたしました。

食膳酒

八寸盛りは
煎った粗引き蕎麦、いたわさ、じゅんさい、蕎麦板、胡麻豆腐
です。どれも上品なお味がいたします。 まずは粗引きそばから始まります。

八寸盛り

ぶぶ天
ぶぶあられが香ばしく、熱いものは熱くがよく考えられた適温でださ
ました。

ぶぶ天

十割蕎麦
いよいよ本格的なお蕎麦の種類がでてきます。
器にも凝られていて、こちの器は柴田まさあきという作家の作品だ
そうです。

十割そば(もりそば)

蕎麦がき


蕎麦がき

そば湯
塗の器に蕎麦湯が入れられて運ばれたきます。


そば湯

冷たい焚き合わせは子芋とオクラです。ゆずの香りで
さらに食欲をそそります。

炊き合わせ

次は飯蒸し
白飯蒸しの上に乗せられているお味噌がとても美味でした。

飯蒸し

かいわれ大根
 かいわれ大根が浮かべられたお蕎麦です。
 新鮮な貝割れは臭いもなくさっぱりとしたお味です。

かいわれ蕎麦

デザートは蕎麦茶のブランマルシェ
蕎麦の香ばしい香りとともに美味しく戴くことができました。

デザート

全体的にやさしいお味付けで、香りとともに熱い物は熱く、そして
器の美、蕎麦の夫々の種類の違いがあり、食材の香り柔らかさ、等
夫々がうまく奏上しあってとてもヘルシーで美味しいコースでした。

今回のコースはお昼の3500円のコースを戴きました。
23 : 11 : 15 | 京料理 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
中村軒
2012 / 06 / 17 ( Sun )
中村軒(麦代餅)

桂離宮の南側八条通に面して桂橋のある辺りは東山連山を眺めることが
でき、8月16日の京の風物詩五山の送り火もよく見えると言われる景色の
いいところです。

この街道は昔から、丹波や丹後方面への山蔭街道として栄えて参りました。

桂川

その桂橋を渡ったところにお菓子の老舗「中村軒」があります。
常に行列のできるお店としてその名を轟かせているお店です。

創業は明治16年、現在の建物は明治37年に出来たそうです。

店舗


tennpo.jpg

初代中村由松氏が

”お米さんがあまいあまいお饅頭は一個でうんざりするやろ、
  もう一つほしいと思わはるあっさりしたお饅頭つくりよし”

といわれた言葉から生まれた「かつら饅頭」が当時の丹波や丹後
の往来客の間で大層評判になりお土産として好まれたそうです。

そのかつら饅頭は明治の末頃久邇宮家御用達となり大正2年の
内国博覧会では銀賞を受賞されたそうです。

お菓子

中村軒では「かつら饅頭」に加えてもう一つの名物は「麦代餅」です。

昔は田植えや麦刈の農作業の間食として直接田畑に届けてもらって
いたという餅菓子です。

お菓子代は刈り取った麦で支払われたことから「麦代餅(むぎてもち)」と名付けられたといわれております。

店頭で販売されているお菓子は奥のお座敷で戴くことができます。
お店の雰囲気は昔の面影を残した造りが保たれていています。

いつの頃にできたものでしょうか?
木目込みがされた踊りのお人形の額がみえます。

木目込み

額は前京都市長の田辺朋之氏の筆による「福以徳招」です。

額

一輪ざしには季節の花が入れられております。

花

床飾りの花器が又面白いです。曲線を描いた竹が使われています。

床飾り

坪庭を眺めながらお菓子を戴くことができます。

お庭

「麦代餅」はしっかりと撞かれたお餅でボリュームもたっぷりあり
粒餡が入っています。

農作業の合間に戴くお菓子でひとつでしっかりとお腹もちがいいです。
程良い甘さで、餡は北海道産、備中産の白小豆が使われています。
今もおくどさんで餡をたいて手間暇かけて作られています。

麦代餅

6月だけのお菓子はやはり「水無月」です。
京の厄除けのお菓子で6月30日は水無月を食べる慣わしが京には昔から
伝わっております。

もっちりとした生地に餡がのせられていて、とても美味しい水無月です。
抹茶味、白味、黒糖味があります。

水無月

中村軒のかき氷もとても有名です。

今の季節は苺、マンゴー、柚子などのトッピングは中迄しっかりと入って
いて、氷がなめらかで絶妙なお味です。

これからこのかき氷をめざして行列ができます。

かき氷

その他にも夏はそうめんやあんみつ、ところてん等も戴くことができます。
22 : 21 : 40 | 京菓子 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
桂離宮
2012 / 06 / 16 ( Sat )
雨の桂離宮

江戸時代の初期に京の西方桂川西岸流域に営まれた離宮「桂離宮」
は総面積付属地も含めて約6万9千㎡余りといわれております。

後陽成天皇の弟(正親天皇の孫)である八条宮家初代智仁親王によって
宮家の別荘として創建されたものです。

もともと下桂周辺に八条宮家の領地があり、元和元年(1615年)ころより
度々桂に来遊され山荘の造営が始まり、その頃の親王の日記には「下桂茶屋普請」
とあり書状にも「下桂瓜畑のかろき茶屋」というのが記されているようです。

数年の間に桂山荘ができ、親王40歳の時期に古書院が建てられたものと見られて
いるようです。その後寛永6年に親王が亡くなられてから10年余りは荒廃して
おりましたが、二代智忠親王が加賀藩主前田家の息女富姫と結婚され財政的な
裏付けが出来たことや、徳川家康から銀千枚の援助や幕府からもたびたびの
援助もあり、父君の山荘の復興、増築に取り組まれました。
また、寛文2年(1662年)頃後水尾上皇の御幸に際して造営も行われ、
在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、桂棚、新御殿、月波楼、松琴亭、
賞花亭、笑意軒などを増築され、池や庭園にも手を加え、ほぼ現在の離宮の
姿になったようです。

この桂離宮が有名になったのはドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトが
「日本建築の世界的奇跡」「永遠なるものー桂離宮」と絶賛してからのことで
あると言われております。

八条宮家はその後、京極宮、桂宮と改称され、明治14年(1881年)第十一代
淑子内親王が亡くなられてから絶え、宮家の別荘として維持されてきた桂山荘
は明治16年(1883年)に宮内省所管となり桂離宮となりました。

創建以来幸いにも火災にも遭うことなく、殆ど完全に創建当時の姿が今日まで
伝えられている貴重な離宮であります。


後水尾上皇をお迎えするにあたり造られた茅葺切妻屋根をあべまきという自然木の
丸太で支えた御幸門です。

御幸門

御幸道には細かい石が見事に並べられています。

通路

御幸道を通って土橋を渡ると外腰掛けがあります。

御幸道 太鼓橋

外腰掛は茅葺の寄棟造りで茶室松琴亭のお待合腰掛けとなっております。
屋根を支えている皮つきの丸太は曲線を描いた枝ぶりが巧みに組み合わされて
います。
前には蘇鉄山があり、この蘇鉄は薩摩の島津家から献上されたものだそうです。

蘇鉄山

外腰掛の屋根

外腰掛けの前は自然石と切石が巧みに組み合わされた延段が長く続きます。

雨の桂離宮は打ち水をしなくても苔は生き生きとし、石も、新緑もそれは
しっとりとしたみずみずしい素晴らしい景色を見ることができます。

延段

黒く扁平な石が敷き詰められが洲浜は池につきだし先端に燈籠を据えて
岬に見立て、海を演出しているそうです。
その先の中島と石橋のつながりは天橋立に見立てたものだそうです。

州浜

松琴亭
松琴亭4

松琴亭は桂離宮の中で最も格の高い茶室「真」にあたり三畳台目(茶室用の
畳)で遠州好みの八窓囲いとなっております。

松琴亭2

青と白の市松模様の襖は藍染であるとか、大胆で粋な取り合わせはブルーノ・
タウトが絶賛する要因でもあったのではないでしょうか?
随所に細かい配慮がなされていて、竈構えの炉の上に天袋があるのはお湯が
冷めないような配慮があるとか、欄間にも工夫が凝らされております。

松琴亭

松琴亭3

賞花亭は中島の小高い峠の茶屋風で苑内では一番高い位置にあたります。
暑い夏の期間の避暑地にあたるそうです。

竹の連子窓から見る景色は深山幽邃の趣があるといわれております。

賞花亭2

賞花亭

賞花亭 炉

園林堂は離宮内で唯一の瓦葺で宝形造りとなっております。
持仏堂とされていましたが現在は安置されているものはないそうです。

圓林堂

扁額は後水尾上皇の宸筆だそうです。

園林堂2

笑意軒
茅葺寄棟造りの屋根に杮葺の廂をつけた間口の長い建物は笑意軒と名付け
られた田舎風の茶室となっております。

笑意軒

笑意軒の扁額は曼殊院良恕法親王の筆でその下には六つの丸い下地窓が
設けられております。この下地窓の下地はそれぞれ組み合わせが変えられて
おります。

笑意軒2

腰板のデザインも斬新なデザインが凝らされております。

笑意軒3

内側は襖で仕切られておりますが天井は一つの繋がりをもっていて
室内を広く見せる配慮がなされているとのことです。

笑意軒4

襖のとってや戸の引き手にのデザインにも随分工夫がなされています。

笑意軒5

蹲は「浮月」の銘があり、月を写して楽しめるようになっています。
風流ですね

笑意軒手水鉢

桂離宮の中枢となる書院は、古書院、中書院、楽器の間、新書院が
雁行形に連なって建てられております。

湿気を防ぐためと、桂川の氾濫から守るために高く上げられた造りと
なっております。
新御殿は後水尾上皇をお迎えするために増築された建物で、ここに
天下の三棚と呼ばれる桂棚がとりつけられております。
残念ながらそれは拝見することはできません。
(修学院離宮の霞棚、桂離宮の桂棚、醍醐三宝院の醍醐棚)

古書院からは広縁が突き出ていてお月見の宴が催されたり、苑内の主要な
景観が一望できたり納涼の場であったりするようになっております。

書院

月波楼はお月見に格好の茶室となっております。
見晴らしがよく池に移る月を眺めてよし、山にかかる月を見てよし、
素晴らしい景観のお茶室です。

化粧屋根は丸みをおびて竹の垂木が舟の底のような形に組んであるのだ
そうです。

月波楼屋根

月波楼扁額


月波楼3


月波楼

御輿寄に通じる門です。

お越寄せ

書院の玄関に当たり今まで苑内では見られなかった固い切石が
敷かれ、杉苔を配された御輿寄せは石段を上ると一枚の敷石に六人の
沓が並べられるところから「六つの沓脱」といわれているそうです。

お車寄せ2



お腰寄せに繋がる通路には黒文字垣が配せられております。

黒文字垣

正面に見える松は老松で一目で全体が見えないような工夫がなされて
いるそうです。
謡曲の「黒田節」にも謡われるもととなりました。
その姿は見事なものです。

松

こうして雨の桂離宮を約1時間かけて見学して参りました。
ゆっくり立ち止まって見る時間はないので、見落としているところも多々
ありましたが、兎に角素晴らしいです。
四季折々にその表情は違い、今回は雨の新緑の素晴らしい景観・芸術・
建築などを楽しませていただきました。

表門

表門を出て桂川沿いに面した垣根は「桂垣」と呼ばれ、生きた竹を
折り曲げて垣根に組んであるものです。

この桂垣が周囲を囲んでおります。
複雑な垣根造りでいつも青々とした竹が生きづいております。

桂垣


桂垣2
23 : 21 : 05 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
八坂神社
2012 / 06 / 16 ( Sat )
八坂神社 例祭(東遊び)

京の四条通の東正面にある八坂神社は、平安遷都の150年前、斎明天皇の
御代に創建され、もとは「祇園社」「感神院」とも呼ばれていましたが、
明治の神仏分離により八坂神社と改められました。

ご祭神は素戔嗚命、櫛稲田姫命、八柱御子神をお祀りし、7月に迎える
「祇園祭り」であまりにも有名な神社です。

全国で約3000に及ぶ分社が各地にあり、素戔嗚命は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)
(あらゆる災厄)を退治し櫛稲田姫を救って地上に幸いをもたらした神様
として多くの崇敬を集めています。

楼門

その八坂神社で6月15日は御祭神ゆかりの日を選んで決められた大祭の
例祭が行われる日です。

例祭

午前10時から宮司さまを始め神官の方々による詔が奏上され、神前に
お供え物が供えられる儀式の後、東遊びの神楽が奉納されます。

神官

式典

平安時代に宮廷でよく行われていた宴の舞いで、もとは神事芸能だった
ものが現在では神社の祭礼で行われるようになりました。

優雅な舞楽は雅楽の音にあわせ、ゆったりとした大きな舞が披露されます。

今大河ドラマの平清盛でも宮廷の宴ではよく行われ、帝に仕える武士に
とっては詩とともに必須の心得であったようです。

衣装も当時のままが受け継がれ、唯一伝統芸能などで歴史を垣間見る
ことができる機会でもあります。

東遊び

東遊び3

東遊び2


東遊び4

東遊び6

東遊び5

東遊び7

雅楽の方々です。

雅楽

そして八坂神社では来月7月は1ケ月をかけて「祇園祭り」が
行われることになっています。
00 : 19 : 22 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大福寺
2012 / 06 / 14 ( Thu )
菩提薬師 大福寺

お薬師さん信仰
薬師如来は東方瑠璃光世界の教主で病苦を救い解脱に導く仏様として
広く信仰を集めています。

冶病を願って薬師悔過(けか)や息災と安産を祈って七仏薬師像を
安置し、七仏薬師法がよく修会されました。

平安期には広隆寺の薬師如来、嵯峨清凉寺、平等寺の因幡薬師への
信仰も勅獅の月参りとされるまでに高まりました。

中世以降七仏薬師として、広隆寺、延暦寺、法雲寺、珍皇寺、
石清水護国寺、元慶寺、平等寺の七寺を巡拝することで安産、冶病
に霊験があるとして盛んに行われたと記されています。

又永福寺の蛸薬師、醍醐の赤間薬師、法界寺の日野薬師なども
洛中・洛外の名薬師とされました。

平安時代以降の薬師如来は薬壺を持つお姿の像が多く作られて
います。

このようにお薬師さんとして、広く生活の中に多くの信仰を集めた
仏様は大少いくつもの霊場があります。

ここ京の町の中心街にも80年ぶりに京都十二霊場めぐりが再開され
ました。

その内の一つに前回の「来ぬか薬師」があり、今回の大福寺の
「菩提薬師」
があります。

大福寺は麩屋町二条上るにあります。

本堂

説明書きによれば、推古天皇の御代大和国宮田郷に建立され、室町時代
に京都に移され、正式には 瑠璃光山利生院大福寺といいます。

天台宗に属し、朝家の信仰が篤かったが、天明年間に炎上し、その後
衰退し、今は僅かな面影を残すのみとなりました。

本尊のお薬師さんは聖徳太子の作といわれ京都十二薬師の一つといわれて
おります。

駒札

又京都七福神第七番布袋尊をお祀りしています。
毎年お正月には商家の大福帳に宝印を授与する習わしがあり、今でも
お商売をされている方々がお参りをされています。

布袋尊

今回再開された十二のお薬師さん霊場巡りは
平等寺の因幡薬師、東寺の金剛薬師、水薬師寺の水薬師、壬生寺の歯薬師、
地福寺の日限薬師、福勝寺の峰薬師、雙林寺の東山薬師、大超寺の鍬形薬師、
薬師院の来ぬか薬師、大福寺の菩提薬師、西光寺の寅薬師、永福寺の蛸薬師
です。
21 : 47 : 44 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
醫徳山 薬師院
2012 / 06 / 13 ( Wed )
薬師院(こぬか薬師)

京の都にはお薬師さん信仰というのがあります。
古くは平安時代から続くともいわれ、江戸時代後期に12カ寺の
お薬師さん霊場というのがあったようです。

もともとお薬師さんは「薬師如来」として健康祈願をいたします。

それぞれ謂れがあり、先般京都新聞(6月5日 朝刊9面)にも紹介されて
いました。

ここ中京区の釜座通二条上るにあるのは「こぬか薬師」として地元の方々から
信仰を集めています。

石柱

薬師院は山号を醫徳山と号し、黄檗宗に属します。

縁起によりますと、当院の薬師如来は伝教大師が16歳の時比叡山延暦寺草創の
大願により一刀三禮薬師佛を七体彫刻し、その内の一体ががこちらの薬師如来
であると記されております。

昔人有りて延暦寺の女人禁制を嘆き美濃国横倉に一院を設け安置したようです。
尾張国山田郡に右馬允明長という武士がいて、この薬師如来を大層信心いたして
おりました。 この武士は諸所の合戦で活躍しておりましたが、七瀬川の合戦で
深手を負い生死をさまよっている時一人の黒衣の僧が草を揉みてこの武士の傷に
当てたところたちどころに傷が癒え、年老うまでこの地に住み子孫が栄えたそうな。

又御堀川院の頃(1230年)寒波がおしよせ疫病が流行し死人が続出していた時に
この薬師院主の夢まくらに「一切病苦の衆生我が前にくれば諸病忽ち除く」
「来也(こぬか)・来也(こぬか)」とのお告げがあったので民衆に告げ参詣
したところ諸病は平癒した。  ゆえに「来也薬師(こぬかやくし)」と称し
するようになったようです。

その後美濃国に住まいする法蓮房道三斉藤山城守がこの薬師如来を現在の地に
移し今日にいたるようです。

本堂2

元冶元年(1864年)の蛤御門の変で堂宇は焼失してしましました。
明治21年三井家近衛家の援助により当院の緑樹院竺丈禅師が再建しました。

かとう窓

扁額

本堂内

現在のお堂は極小さなお堂となっておりますが
隆盛時は境内は広く、大黒町二条通一体に薬市や夜店等が立ち並ぶ賑わいを
みせていたところから、二条通に薬問屋漢方薬店が多いのはこの名残である
と記されています。
18 : 44 : 28 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
道元禅師示寂の地
2012 / 06 / 11 ( Mon )
西洞院界隈 道元禅師示寂の地

京の西洞院高辻界隈に道元禅師示寂の聖地と言われる石碑が建てられて
おります。

かってこの辺りは呉服関係の染屋さんや、悉皆屋さん、呉服問屋さんが
多く軒を連ね活況を呈してていたところです。

今は呉服の需要が減少して呉服屋さんの大きなお屋敷はマンションや
ホテルにその様相を変えてきつつありますが、それでもまだ呉服街の
様相は保たれております。

そんな町の一画(高辻通西洞院西入る)に道元禅師示寂の聖地と書かれた
石碑が建てられております。

ちょっと見過ごしてしまいそうですが、近隣のかたによっていつも御花が
供えられ、きれいに整備されています。

京の下町はいまもそんな素晴らしい心持や伝承が受け継がれているところ
です。

石柱2 井戸

道元禅師は正治2年(1200年)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、建仁寺
の栄西の門に入り禅を学びました。

貞応2年(1223年)宋に渡り、各種の禅体験を積みました。

安貞元年(1227年)に帰国、建仁寺に入って『普勧坐禅儀』などを著し、
深草に興聖寺(後に宇治に移転)を建立し教化活動をいたしました。

晩年にいたってから中央の権勢からのがれて越前(福井県)の地に永平寺を創建
著述と布教に努めました。

駒札

建長五年(1253年)療養のため弟子を伴い俗弟子の覚念の屋敷のあったこの地に
留まり同年8月に54歳で入寂いたしました。
その石碑が建てられております。

石碑

この石碑が何時誰によって建てられたかは説明に書かれていませんでした。
11 : 52 : 57 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
五條天神社
2012 / 06 / 10 ( Sun )
五條天神社(義経・弁慶出会いの場所)

京のビジネス街、高層ビルが立ち並ぶ一角(松原通西洞院西入る)に
五條天神社があります。
ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命・天照大神

石柱1

五條天神社は別名「天使の宮」(天使社)と呼ばれ、延暦13年(794年)
桓武天皇によって平安遷都されるに当たり大和国宇陀郡から天神を
勧請したのが始まりと伝えられております。
以来社地は一度も変えられることなく現在の地に継承されています。

後鳥羽天皇の時代に「五條天神社」と改められ、当時は社域も広く
社殿も広大であったようですが、度重なる火災に罹災し、蛤御門の
変によって焼失してしまいました。

駒札

現在の社殿は近年に再建されたものだそうです。

正面鳥居


本殿


本殿2

屋根

又五條天神社は古来医薬・禁厭(まじない)の神としても地元の人から
崇敬されています。

特に節分の際には厄除け祈願に多くの方が参詣され、宝船図が授与されます。
この宝船図は極シンプルなもので、宝船に稲穂が一本載せられているものですが
日本最古の宝船図ともいわれております。

石柱

五條天神社のこの辺りは牛若丸と弁慶が最初に出会ったところと
「義経記」に記されていて、これを取材した能楽の「橋弁慶」から
知られるようになったようです。

五条大橋はもともと今の松原通にあったもので豊臣秀吉によって現在の
五条に架け替えられた所から見ても、義経と弁慶の出会いの場所
であったということも或いはあったのではないかと考えられるようです。
22 : 38 : 33 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
菅大臣神社
2012 / 06 / 09 ( Sat )
菅大臣神社(かんだいじん)


京の下京区仏光寺西洞院に菅大臣神社というのがあります。
ご祭神は菅原道真公、尼神、大己貴命をお祀りされている神社です。

この辺りはその昔、菅原道真の父菅原是善(これよし)の邸宅が
あり、道真誕生の地と云われ天神御所または白梅殿といわれて
おりました。

仏光寺通は平安京の五条坊門に相当するといわれ、これを挟んで
北側に紅梅殿、南側に天神御所があったと「拾芥抄』に記されて
いるようです。

この天神御所は菅原家累代の邸宅で、紅梅殿は道真一代の邸宅
であったらしく、邸宅に紅梅が植えられていたことから紅梅殿と
名付けられたようです。

鳥居


駒札


本殿

道真が大宰府に左遷されるとき

 ” 東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ ”

と詠んだところ、その梅の花が後に大宰府にまで飛んでいったという
飛梅伝説はここを舞台とするとあります。

その伝説の飛梅が植えられております。

飛梅(区民誇りの木)

この菅大臣神社も応仁の乱や文明の乱で焼失してしまいましたが、後に
曼殊院宮良恕法親王により再興され、明治維まで曼殊院の許にありましたが
明治6年(1873年)独立いたしました。

現在の社殿は明治2年(1869年)下鴨神社の社殿を移築したものだそうです。

境内には道真が産湯に使った井戸が残されています。

道真の縁の井戸は烏丸通の菅原天満宮にも残されております。

白梅講


紫陽花
23 : 34 : 26 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
高松神明神社
2012 / 06 / 08 ( Fri )
保元の乱の舞台 高松神明神社

今NHK大河ドラマ平清盛が放映されていて、前回は丁度保元の乱の
場面でした。

ここは京の中心街、姉小路西洞院東入るに高松神明神社があります。
この辺りは、高松殿址にあたります。

高松殿は後醍醐天皇の皇子源高明(たかあきら)の邸宅で高明の娘
明子は当所に住まいして高松殿と称されました。

後に藤原道長と結婚され、藤原一族の住まいとされていました。

院政期、久安2年(1146年)後鳥羽上皇が内裏とされ「高松内裏」と
なりました。
久寿2年(1155年)には後白河天皇が高松内裏で即位されました。

保元の乱(1156年)の際には崇徳上皇方の白河北殿に対して、
後白河天皇の本拠地となり、源義朝、平清盛らの軍勢がここに集結
し、白河の地へ攻め入り夜襲が成功して勝利したことで知られて
いるところです。

その後の平冶の乱(1159年)に内裏は焼失いたしましたが、邸内に
祀られていた鎮守社高松神明は現在も高松神明神社として残って
いるものです。

鳥居

もともとこの高松神明神社は真言宗東寺宝菩提院の末寺で
高松神明宮宝性院と称する神仏混合のお寺でしたが、明治の
神仏分離により宝性院は廃寺となり、高松神明神社となりました。

応仁の乱や蛤御門の変により焼失し、境内や社殿も縮小し、
現在の社殿は明治44年に造営されたものだそうです。

駒札

ご祭神は天照大神、八幡大神、春日大神、誉田別命、天児屋根命
がお祀りされています。

本殿

境内には区民の誇りの木「オガタマノキ」が茂って今は緑葉が綺麗です。

区民誇りの木 オガタマノキ

高松神明神社には「神明地蔵尊」がお祀りされています。

神社にお地蔵さまがお祀りされているのは大変珍しいことですが、
もともと神明宮宝性院があったことに由来いたします。

地蔵堂

神明地蔵尊は宝性院の僧が紀州九度山の真田庵に毘沙門天とともに安置
されていた二体の地蔵尊の内の一体を拝領して神殿の東側に三間四面
の地蔵堂を建てお祀りしたことにより始まります。

この地蔵尊は智将で知られる真田幸村の念持仏といわれ、「幸村の知恵の
地蔵尊」
として信仰が厚く、そのお姿は半踟坐像の大変美しく優しい
お顔をされています。

地蔵尊

地蔵堂の正面台座をさすって子供の頭をなでると知恵を授かると地元の人の
信仰を集めています。

以前は地蔵尊にお供えされた洗米と小豆を蓄えておいて、地蔵盆には
小豆粥としておまいりをされた方々に供養されていたと伝えられて
いるそうです。

台座 石2
19 : 43 : 41 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
木戸孝允邸宅跡
2012 / 06 / 07 ( Thu )
木戸孝允邸宅跡

京の中心街、京都ホテルオークラに木戸孝允の銅像が置かれていますが、
その京都ホテルオークラから南東、土手町通竹屋町下るに
京都市職員会館かもがわの中に、木戸孝允の邸宅跡があります。

外観

石柱には明治天皇行幸所木戸邸と刻まれています。

石柱

木戸孝允は長州藩出身で明治維新のころに活躍した政治家、
別名桂小五郎とも称しのちに木戸孝允と改められました。

吉田松陰の門下生で、西郷隆盛、大久保利通らとともに尊王攘夷、
統幕運動に指導的役割を果たしました。

文久年間から慶応年間の京都の政局は主導権をめぐり激しく動いて
おりました。 その中心は朝廷であり、御所を核として公卿屋敷
が政治の拠点となっておりました。

この木戸旧邸はその拠点の一隅に位置し、近衛家の下屋敷を譲り受け
て別邸となしたものです。

駒札

1階は大きな広間で、2階は2間となっております。

明治10年(1877年)5月19日木戸孝允が病気療養中に明治天皇が行幸
され、同月26日に44歳で亡くなりました。

お屋敷

お屋敷2

建物は質素なもので、妻の松子は尊王攘夷の頃木戸を庇護した
芸者幾松で有名です。

夫婦のお墓は東山の霊山に定め、同地に神道碑が置かれています。

庭

この建物は昭和18年に京都市に寄付され、現在は京都市の管理下に
あります。

今出川橋

同じ敷地内にある達磨堂は木戸の子、忠太郎氏の達磨コレクション数万点
が保存されています。
中には下村観山の達磨の衝立も保存されています。

だるま堂
00 : 23 : 48 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
撞木町
2012 / 06 / 05 ( Tue )
伏見の 撞木町遊郭跡

伏見の欣淨寺から南へ約200m足らずのところに撞木町廓入口と書かれた
石柱が残されております。

この辺りは伏見区両替町以北の T字形 の地でその形から鐘を打つ撞木に
似ているところから名づけられたと言われております。

撞木町石柱2撞木町石柱1

江戸期は恵美酒町(恵比寿町)と称し、伏見城の外濠造成後に発展した、
木挽町筋の一つで角倉番所に集まる船頭さんたちの町でした。

町内には慶長元年豊臣秀吉が公許した傾城町が置かれていました。
当時は賑わっておりましたが、伏見城の戦火と大地震のために衰退
いたしました。慶長9年渡辺掃部、前原八右衛門が再興を許され富田
掃部・前原八右衛門が再興を許され、富田屋信濃守屋敷に撞木町遊郭
を開きました。

天神以下の遊女を置く傾城町として元禄期(1688~1704年)には
賑わいをみせておりました。

元禄忠臣蔵で有名な大石良雄も山科から、京の都に通途次に
この廓でよく遊んだと伝えられております。

享保期(1716~1736年)には中書島遊郭にとってかわられ、次第に
衰退していきました。

が、今もそのしるしとなる石柱が残されております。

20 : 36 : 10 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
欣淨寺
2012 / 06 / 04 ( Mon )
深草少将ゆかりの 欣淨寺(ごんじょうじ)

京阪墨染駅の西、墨染寺の南隣に「欣淨寺」があります。

曹洞宗に属し、 清涼山と号し、 
ご本尊は毘蘆遮那佛・・「伏見の大仏さま」といわれております。

本堂は鉄骨で出来ているようで、お堂のような感じがいたします。

本堂

説明書きによれば、寛喜2年(1230年)から天福元年(1233年)まで
道元禅師がこの地で布教に努め当時を創建したと伝えられています。

当初は真言宗であったが、応仁の乱以後曹洞宗となり、その後浄土宗
となり、文化年間(1804~1818年)にもとの曹洞宗に改宗された
そうです。

本堂には丈六の毘蘆遮那仏が安置され、「伏見の大仏」さん呼ばれ地元
の人から信仰を集めています。


駒札


山門石柱

また当地は昔「深草少将」の御屋敷があったところといわれ、
ここから小野の小町の居宅(現在の隋心院)まで百夜通いを行ったと
いわれております。
池の東、藪蔭の道は「深草少将の通い道」と呼ばれ、この道を通ると
訴訟事のある人が通ると願いが叶わないと伝えられています。

この地から毎夜百夜もよく通われたことか?と思われます。

池

栞度を潜ると深草少将遺愛の「墨染井」と呼ばれる井戸が残されています。
 ”通う深草百夜情け 小町恋しの涙の水が 水も湧きます欣淨寺

墨染井

池の奥には深草少将と小野の小町の供養塔が建てられております。

小町塚

これで深草少将も遠くまで通う必要がなくなりました。
22 : 15 : 21 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
墨染寺
2012 / 06 / 03 ( Sun )
墨染寺(ぼくせんじ)

京阪の墨染駅から西へ少し行くと「墨染寺(ぼくせんじ)」というお寺が見えます。

特に謡曲や和歌に歌われる 「墨染桜」が有名なお寺です。


山門

山門2

この墨染寺がある門前の道は旧東海道筋にあたります。
この一帯には元禄年間(1688~1704年)に開かれた墨染遊郭があったところと
いわれ賑わいを見せていたと伝えられております。

駒札

豊臣秀吉と姉の瑞龍尼の帰依を受けていた日蓮宗の日秀上人は秀吉の信任が厚く
貞観寺の旧地を寄付されて「墨染桜寺」として開創し、後に現在地に移転した
そうです。 扁額にはその「桜寺」と掲げられております。

扁額

この墨染寺は隠れた桜の名所ともいわれております。
それは、 その昔、平安時代初期、日本史上初めて寛平3年(891年)関白に
就任したと言われる藤原基経の死を悼んで上野朝臣峯雄が

  ”深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染にさけ”

と和歌よ詠んだところ、その花びらが薄墨色に染まったというものだそうで、

その薄墨桜は貞観寺の旧知辺りにあったと言われております。
墨染寺にはその薄墨桜の3代目に当たる桜が植えられております。

この地を墨染と称されるのは、あるいはこの詩から称されるようになった
のではないかともいわれております。

墨染桜

今は葉の緑がまぶしく輝いていますが、来年は薄墨の桜が咲いている頃に
是非訪れてみたいものです。

22 : 50 : 52 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
藤森神社
2012 / 06 / 02 ( Sat )
紫陽花の宮 藤森神社

京の伏見区、京阪電車の墨染駅から徒歩5分位のところに藤森神社
あります。

藤森神社は平安遷都以前に創建された古社で、ご祭神は素盞嗚命、
神功皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を
お祀りされています。
地元の人々からは洛南の産土神として崇敬され、又「菖蒲の節句」発祥の
神様としても知られています。

石柱 石柱2

毎年5月5日には「藤森祭」という、鳥居から拝殿に続く馬場を曲乗り
の妙技を披露しながらの「駆け馬神事」が行われることから、勝運と
馬の神社
としても人々から信仰を集めています。

ここの鳥居は正徳元年(1711年)の銘が刻まれています。
この鳥居に額がないのは、その昔は後水尾天皇の宸筆が掲げられて
いました。 江戸時代神社は前の道が両国大名の参勤交代の道筋にあたって
いたので、各大名は神社前を通る時は必ず駕籠から降りて拝礼をし、槍などを
たおして通過しておりました。
しかし幕末の動乱の時代にこのような悠長なことはそぐわないとして、新撰組
の近藤勇がはずしてしまったと伝えられているそうです。

鳥居

拝殿は御所より賜ったものと伝えられ、割拝殿として有名と言われております。
拝殿の奥に本殿があります。

舞殿

本殿は檜皮葺きの切妻造り、正徳2年(1712年)中御門天皇より賜った宮中
内侍所(賢所)にあった建物で現存する賢所としては最も古い建物であると
言われております。

藤森神社は勝運の神様であり、また日本書紀の編者で日本最初の学者といわ
れる舎人親王を祭神ともしているところから学問の神様としても信仰されて
おります。

本殿

絵馬

本殿の東に神功皇后が轟旗を樹てられたところで当社の発祥の地として
記念碑が建てらtれております。
その横のイチガシの古木は「いちのきさん」と親しまれお参りすると腰痛
が治るといわれ、新撰組の近藤勇もお参りし、腰痛を治したそうです。

神功皇后塚

神鎧像(かむよろいぞう)
5月5日に斉行される藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭として節句に飾る武者人形
には藤森の神が宿るといわれていて、その象徴として建立されたものだ
そうです。

兜

不二の水
伏見の地は名水の地として伏見の酒蔵としてもよく知られていますが、
こちらのご神水も「不二の水」といわれ、二つとないおいしいお水と
いう意味から武運長久、学問向上、特に勝運を授ける水として、地元の
人が汲みにこられています。

不二の水

本殿西におかれている摂社、大将軍社
祭神は盤長媛命、延暦年間、桓武天皇が平安遷都のおり王城鎮護のため
四面に大将軍を祀られその南西の守護神がこのお社といわれております。
古来この神様は方除けの神様として信仰を集め、現在の建物は室町時代
永享10年(1438年)時の将軍足利義教寄進によるものだそうです。
今は国の重要文化財に指定されています。

大将軍社

大将軍神社と並んでお祀りされているのが八幡宮社社殿でこちらも国の
重要文化財に指定されています。
こちらの祭神は応神天皇をお祀りされています。

八幡宮

白松(はくしょう)
珍しい松で白皮松とも白骨松とも呼ばれ、中国の宮殿などに植えられる高貴な
松と言われております。

白松

菖蒲の節句発祥の地として5月人形がおかれています。

菖蒲の節句発祥の地

藤森神社は紫陽花苑でも有名で「アジサイの宮」とも呼ばれ、
約3500株の紫陽花が植えられていて、毎年6月15日には「紫陽花祭」
が行われます。
6月2日に紫陽花苑が開園されます。
今年はまだ蕾でちらほら咲き始めています。見ごろは6月中旬頃かと
思われます。

紫陽花2

紫陽花3

紫陽花4

参道には「蒙古塚」というのがあります。
昔は七つの塚があり、七ツ塚とも呼ばれていました。
蒙古の将兵と戦利の兵器を納めたところだそうです。

蒙古塚
18 : 45 : 37 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
薪能
2012 / 06 / 02 ( Sat )
京の風物詩 「薪能

6月水無月といえば、京の風物詩「薪能」が京都市と京都能楽会
の主催で今年も平安神宮で開催されました。

京都能楽会に加わる能や狂言の各流派が集い、演能を競う催しで
昭和25年に始まって今年で63回目を迎えます。

興福寺御能にならい全国に先駆けて復興され薪能ブームの端著となり
京の都では初夏の風物詩となっております。

63回目の今年のテーマは源平盛衰です。
5月31日には「吉野静」「清経」「口真似」「鞍馬天狗」が
6月1日は「安宅」」二人静」「柑子」「碇潜」が上演されました。


応天門

平安神宮は明治28年(1895年)に平安奠都1100年記念祭に
京都の始祖桓武天皇をお祀りして京都の総鎮守社として創建された
ものです。


看板

社殿は平安京の朝堂院(大内裏の正庁)を模して8分の5の大きさに縮小
し、二層の神門は応天門、拝殿は大極殿を模して建立されました。

紀元二千六百年に当たる昭和15年(1940年)に孝明天皇を合祀して
社殿や回廊が増築され現在の姿が整えられました。

東龍

白虎

2日目の第1演目「安宅」では金剛流の宗家がシテ「弁慶」を演じられました。
義経と弁慶の一行が山伏に扮して安宅の関所を突破するという勧進帳の演目で
恰幅のある宗家はさすがに豪快な弁慶を気品をもたせ、時には軽やかに
時には重々しく、素晴らしい安宅を堪能させて戴きました。

第1演目が終わった頃には夜の帳がおり、辺りはそろそろ暗くなり始め
火入れ式が行われました。

火入れ式

灯り2

篝火が焚かれると幽玄の世界は一層雰囲気が盛り上がります。

源平盛衰の2番目の演目は「二人静」静御前の霊の乱舞

狂言は「柑子」、柑子を食べてしまった太郎冠者の言い訳に、
島流しにあった俊寛や清盛のお話を滑稽に繰り広げると云うもの。

最後は「碇潜(いかりかずき)」
壇ノ浦に現れた平家の亡霊、平家一門の最後をみせるもの、平知盛
の亡霊は平家の滅亡を栄枯盛衰の儚さを表しているものでした。

灯り

この薪能ならではの、京都の能楽に携わっておられる各流派総出の
豪華な能を楽しむことができる催しです。

演目が終わった頃には丁度応天門の上には月が輝いていました。

月
00 : 10 : 14 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。