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島津旧本社
2012 / 07 / 30 ( Mon )
島津製作所 旧本社でフレンチを

世界的に有名な島津製作所の本社はもともと、河原町御池上るに置かれて
いました。

現在旧本社とされている河原町御池上るの建物は昭和2年(1927年)に
武田吾一氏の設計によって建てられ85年の歴史をある建物です。

正面玄関はアーチ形をしていて、ステンドグラスがその調和を引き立てて
います。

旧本社

現在島津製作所の本社は西大路三条に置かれておりますが、
この旧本社が今年2012年3月8日に新たなスタートをきりました。

旧来の建物を活かし、地域の活性化を図る目的から、plan・do・seeが
1階をレストラン、フレンチビストロのお店”forune garden kyoto”
として、2~4階を結婚式場としてオープンされました。

旧本社2

レストランの雰囲気は旧来の建物を活かしたレトロな感じの中に
とてもいい雰囲気が漂っています。

店内

中庭がおかれ、池泉回遊式のお庭になっていて庭内をお水が流れ、亀が
のんびりと甲羅干しをしています。
竹の青さと苔の青さが暑い夏の旱を緩和しています。

お店は若い女性客が圧倒的に多いです。

フォーチュンガーデン1

お昼のメニューです。
前菜盛り合わせ。(シーフード、おむれつ、他)
香草の香りと、蛸の歯触りがとてもいい感じです。

前菜

フランスパンはかりっとしていて歯ごたえがあります。

パン

じゃがいものポタージュは濃厚なお味でゆっくり味わいました。

ポテトのポタージュ

メインはイサキと海老のソテーです。
イサキは白身で淡白なお味ですが、フレンチになると味付けが変わり
しっかりとメインをつとめます。

メインデイッシュ

デザートはお好みを選ぶことができます。(3種ありました)

デザート3


デザート2

デザート

とても雰囲気のいい新しい趣向のお店で、結構いつも満席になります。
予め予約しておいた方がよさそうです。

フォーチュンガーデンキョウトの電話は075-254-8843です。
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23 : 03 : 01 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京あられ 菱屋
2012 / 07 / 29 ( Sun )
京あられ 菱屋

京の島原大門の入り口近くに京あられの「菱屋」さんがあります。
創業は明治19年(1886年)で120年余りの歴史ある老舗です。

看板

創業当時は島原の辺りは全盛期を誇った賑わいも、花街の変遷で
過ぎたころではありました。

明治になり天皇が東京に行かれてから、京のお公家さんや、商工業者も
こぞって東京にいってしまつて京の都は衰退をきたしておりました。

第2代京都府知事の槇村正直氏や第3代の北垣国道氏の活躍により
舎密局や新京極通が出来、京都博覧会が開催され、我が国で初めて小
学校ができ、明治23年には琵琶湖疏水が出来、水力発電ができ、我が国
で始めて電車が京都に走ったと目覚ましい、国家百年の事業といわれる
大きな事業が成し遂げられ、今日の京都の礎が築かれた時代でもありました。

このようにしていち早く復興し、京の物作りは世界を凌ぐ技術が今日
まで連綿と続けられております。

京の町では創業100年以上という老舗はいろんな職種で沢山みられます。
これは素晴らしいことです。菱屋さんのそんな老舗のうちの一軒です。


大正10年ころのお店の雰囲気です

大正10年

京都駅から発着する市電の様子です。

京都駅前

昭和3年に開催された大禮記念京都大博覧会で「菱屋」の「鬼あられ」が
銀牌を受賞された時の賞状が飾られていました。

賞状2

お店の入り口の高いところには「おふくさん」がお座布団を高く積んで
鎮座しておられました。 商売繁盛を祈願して!

おふくさん

やはり島原のおかき屋さんでは「太夫あられ」が販売されています。

菱屋さんでは今でも、お米(もち米)から厳選して、お餅をついて、
あられにし、天日で乾燥させて、一枚づつ手焼きをして販売されている
丁寧な、オリジナルなおかきです。

太夫あられ

特にメインのおかきは「うすばね」です。
厚さ3~5mm位の、吹けば飛ぶような薄い、薄い、おかきです。
それは口に入れると瞬間にとけそうな香ばしい余韻の残る美味しい
おかきで、やみつきになりそうな独特のおかきです。

うすばね

あまり大々的な宣伝もなしに、家族でこつこつと今も昔の製法を守って
おいしいおかきをつくっておられる素晴らしいお店です。
21 : 10 : 42 | 京菓子 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
島原 角屋
2012 / 07 / 28 ( Sat )
島原 角屋(すみや)

角屋は島原開設当初から連綿と建物、家督を維持しつづけ、江戸期の
饗宴、もてなしの文化である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年
(1952年)に国の重要文化財に指定されました。

駒札

島原は饗宴の場である「揚屋」と揚屋に太夫や芸妓を派遣する「置屋」
からなる分業制をとっておりました。

外観

正門

家紋は「蔓三つ蔦」です。

家紋

揚屋は江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されて
いて、さしずめ現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。
饗宴のための施設ということから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を
配すると共に、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴と
していると言われます。
現在の規模になったのは天明7年(1787年)の増築後であると伝えられ
ております。

おくどさん

おくどさん2

島原も全盛期を迎えていたころ、文政元年(1818年)には頼山陽が郷里から
伴なった母を角屋南隣の八文字屋に案内して宴席でもてなし、揚屋が親孝行
の場になったともいわれております。

また、各藩の武家屋敷の大宴会も角屋をはじめとする揚屋が担って参りまし
たが、幕末になると勤皇派の密議の場に使われたり、新撰組の出入りも多く
ありました。

明治維新以後は大型宴会の需要もなくなり、足場の悪さもあって島原全体が
衰退し、それ以降は祇園が花街の主役へと変わっていきました。

帳場

1階の台所の間です。帳場があったり、神様がお祀りされていたり、箱火鉢
があったり、床下収納庫があったり、広い台所の間で、重要文化財となって
おります。

箱火鉢

お客様はここで刀を預け、刀箪笥へと納められます。

刀箪笥

大座敷(松の間)
襖絵は岸連山の「桐に鳳凰の図」です。額は薩摩剛毅によるものです。

お座敷1

お座敷2

お座敷3

お座敷4

臥竜松の庭といわれ、枯山水で白砂が敷かれています。
現在の松は2代目にあたります。

2代目松

お茶室は曲木亭の茶室(重文)と清隠斎茶席(重文)があります。

茶室

その他1階には「網代の間」があります。
天井が網代で組まれているところから「網代の間」と呼ばれています。
棹縁、長押は北山杉が使われていて豪華なつくりとなっています。

棚

2階は撮影禁止となっておりますが、
緞子の間、御簾の間、扇の間、草花の間、馬の間、青貝の間などが、
そのお部屋によって趣向が凝らされています。
天井や障子のさんが桧垣組みになっていたり、与謝蕪村の「夕立山水図」
の襖絵があったり、壁・建具に青貝が用いられていたり、円山応挙の
「少年行の図」があったりして、どのお部屋も見ごたえのある素晴らしい
ものです。

16 : 59 : 16 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京の夏の旅 櫻谷文庫
2012 / 07 / 28 ( Sat )
京の夏の旅 櫻谷文庫

京の夏の旅として、7月7日から9月30日までの期間文化財の特別公開が
行われております。

その中の櫻谷文庫 木島櫻谷旧宅を訪れてみました。
木島櫻谷旧邸は衣笠の地、北区等持院東町にあります。

京の夏の旅

木島櫻谷は明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。

明治10年に三条室町に生まれ、本名は文治郎で16歳の時に京都画壇の
大家であつた、今尾景年に師事し、四条、円山派の流れをくむ写生を
基本に動物、風景、人物などの幅広い技量を発揮された画家であると
いわれております。

20歳の時に第1回全国絵画共進会で「忠臣身を殺して主を救うの図」と
いうのが見事2等賞に入賞、それ以後は毎年上位入賞を果たし、京都
画壇の人気を竹内栖鳳とわけ華々しく注目される画家となりました。
また明治45年より京都市立美術工芸学校の教授も務めました。

晩年は中央の権勢から離れ静かに余生を過ごし、62歳で不慮に事故
により亡くなったそうです。

薬医門

木島櫻谷は当初中京区室町御倉町に住んでいましたが、明治45年頃に
現在の衣笠に転居いたしました。

当時のこの衣笠辺りは竹林に覆われていて、雪深い地であったようで
その当時に描かれた作品「寒月」がまさに衣笠の風景で、櫻谷がよほど
この地に惹かれるものがあったのではないかといわれております。

また当時の京都の大家上田麦僊、山口華楊、村上華岳、小野竹喬等も
移り住み、「衣笠絵描村」と呼ばれるようになったと言われております。

表札

現在の建物は大正2年に建てられたもので国の登録有形文化財となって
おります。

敷地は広大なもので和館、洋館、画質、庭園からなります。

和館は住居になっていたようです。

玄関

竹を好んでいろいろなところに竹が使われております。
玄関を入りますと客間、仏間、居間、台所と2階は4部屋から
なります。

お座敷

相当の財力があったようで、家の造りも凝ったつくりとなっております。

屏風

欄間は東山連峰が描かれたものだそうです。

欄間

居間には虎屋さんのお菓子箱が揃えられていて、虎屋さんが直接お届
されていたようです。

居間

昔懐かしいミシンや、下駄、当時の有松絞りが反物のまま残されていました。

居間2

おくどさんがおかれています。 昔は書生さんや、女中さんと大勢の賄いを
するためおくどさんも大きいものです。

昔は土間で、薪をくべ煮焚物をする女性は大変な作業でありました。

台所

庭園は今は改良されているため昔の面影はありませんでした。
春日燈籠がかなり古い物のようでした。

庭園

洋館には櫻谷の作品が架けられております。 
特に洋館は明かりとりとなる大きな窓や竹を配した腰板など櫻谷がデザイン
したものでとても明るい感がいたします。

洋館

画室は別棟となっていて、当初は全てが渡り廊下で繋がっていたようです。
80畳の大画室となっていて絵画制作や、弟子の指導にあたる場所となって
いたようですが、今回は画室の特別公開はありませんでした。

00 : 30 : 11 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
御手洗祭(下鴨神社)
2012 / 07 / 26 ( Thu )
御手洗祭(下鴨神社)

今日は土曜の丑の日に当たります。

ここ京の都の下鴨神社では、古代より受け継がれてきた水の祓えの儀式
みたらし祭、足つけ神事とも言われる夏のお祭が26日から29日迄行われ
ます。

遠い昔から、「禊は」生命と精神の蘇生と再生に重要な役割を果たし、
季節の変わり目や大切な儀式の前に「禊」を行ってまいりました。

疫病が流行り出す夏には特に「禊」が重要視され、いろいろな形で
行われて無病息災を祈りました。

祇園祭りもそうですし、夏越の祓もそうです。

鳥居

下鴨神社では池から湧き出た水が御手洗川となり糺の森を潤していますが、
土用の丑の頃になるとその湧水の量が増えるといわれ、「鴨の七不思議」
云われております。

御手洗祭

その湧水の上に祀られているのが本殿の東にある井上社です。

本殿

井上社では祭神に瀬織津姫命が祀られています。
瀬織津姫命は罪穢れを大海原に流す災厄祓除の女神といわれ、
この井上社の下から湧き出て、御手洗川に流れる水に足をつけることで
知らず知らずのうちについた罪や穢れを祓い、神の水に浸ることでその
霊力を頂き、心身の生命を甦らせるというものだそうです。

御手洗社

またこの神池に足をつけ、燈明をお供えし、御神水を戴くと、諸病に
かからず、延命長寿のご利益があるそうです。

説明

まず靴をぬぎはだしで、水にぬれないように裾をたくし上げます。

初穂料

受付で初穂料200円をお支払いして、蝋燭をいただきます。

蝋燭

それから御手洗川に入ります。 通常は入ることができませんが、この
3ケ日だけ入ることができます。

お水はとても冷たいです。
暫くいくと膝のあたりまで水かさが増してきて、足がとても冷たくなります。

御手洗川

途中で燈明の明かりとりにきたら、手元に蝋燭に火をともして、消えない
ように進みます。

灯明

蝋燭台についたらお参りをして、納めます。

蝋燭台

御手洗川には大人も、子供も、愛犬も、一緒に大勢の人がお参りいたします。

御手洗川2

御手洗川から上って足を拭き、靴を履くと、今までの冷たさがじんわりと
暖かくなり、ほかほかしてきます。

足付け後

御手洗川の上で、御神水を手にかけて頂き清めます。

ご神水

ご神水を戴いて、無病息災、延命のご利益を戴きます。

ご神水2

この足形の祈祷木に家族の名前を書いて無病息災をお祈りいたします。

祈願

この神池から探れた黒い小石は「かん虫封じの神石」として昔から
信仰されているそうです。

神石

京の都の、夏の風物詩「みたらし祭」は本日26日から29日まで午前9時から
午後10時まで行われています。

境内ではみたらし団子も販売されていて長蛇の列ができるくらい繁盛して
います。

みたらし団子

23 : 42 : 00 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
島原
2012 / 07 / 23 ( Mon )
花街 島原

島原は江戸時代以来公許の花街(かがい)として発展してきたところです。

豊臣秀吉が京の町を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許
しました。 それが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、
六条三筋町として栄えました。

その後京の町の発展に伴い寛永18年(1641年)市街地の西に当たる当時の
朱雀野の地に移されました。
その移転騒動が九州で起きた島原の乱を思わせるところから「島原」と
名付けられたそうです。正式地名は「西新屋敷」といいます。


駒札

花街と遊郭の違いは、花街は歌舞音曲を伴う遊宴の街で、遊郭はそれらを
伴わない歓楽の町との違いがあります。

島原は単に遊宴を催すだけでなく和歌・俳諧等の文芸も盛んんで、江戸中期
には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しておりました。

また、最高位である太夫の名称は慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が
女歌舞伎を催した時優れた傾城を「太夫」と呼んだことが「太夫」の始まりと
いわれております。

明治以降は洛中の遊里支配権を失い、昭和33年には公娼制度廃止に伴い
次第にさびれ、現在はその面影を残すのは島原の入り口となる大門
揚屋(今の料亭)の「角屋」と置屋(太夫や芸妓を派遣する店)「輪違屋」のみ
となりました。

大門

  嶋原のでぐちのやなぎをみて なつかしき やなぎのまゆの 春風に
   なびくほかげや さとの 夕ぐれ   (蓮月尼)

現在残されている「大門」は度々火災で焼失後、慶応3年(1867年)に
神社仏閣並の本格的な高麗門として建て替えられたものです。
昭和61年(1986年)京都市の登録有形文化財となっております。

大門2

当時の京の都は度々火災が起こりました。一たび火災が発生すると
瞬く間に広がり大火となりました。
そんな防火のために防火桶が据えられておりました。

防火桶

当時の様子は『都名所図会』や『都林泉名所図会』などで垣間見ることが
できます。
当時の嶋原は東西99間、南北123間で、外周にほりを巡らし、堀の内側
には土塀が築かれていて、出入り口当所は東口でけであったのが享保17年
に西口が設けられました。

都名所図会

現在唯一残されている置屋の「輪違屋」です。
元禄年間の創業で現在の建物は安政4年(1857年)に再建されました。
輪違屋は建築的に質が高く、また最古の置屋の遺構として貴重であると
言われております。
昭和59年(1984年)京都市指定有形文化財に指定されています。
現在はお茶屋さんとして営業されていて、非公開になっております。

この輪違屋さんで太夫さんの「かしの式」をみることが出来ます。

太夫道中はこの「置屋」から「揚屋」までの間を練り歩いたといわれて
おります。
太夫が禿を従えて、黒塗りの三本葉の下駄で、外八文字を踏んで練り歩く
道中は豪華で華々しく、今日の太夫を呼んだのは何処の大旦那かとその
権勢を競いあったといわれております。

輪違屋
22 : 17 : 04 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
下駄
2012 / 07 / 20 ( Fri )
浴衣と下駄

京の都では祇園祭とともに浴衣姿の人々を多く見かけるようになります。

一昔前は夕方にもなると、浴衣に角帯の粋な旦那衆と小粋に着こなした
ご婦人が鴨川の床から東山連峰に見える月を楽しんだり、子供たちは
花火を楽しんだりと、なんとなく時間の過ぎ方が緩やかであったような
感じがいたしました。

最近また、都には浴衣が流行り出しました。
それも、若い人たちが、浴衣の色・柄も現代風に変化し、若いカップルが
祇園祭に繰り出し、祭を盛り上げて微笑ましい風景が見られるようになり
ました。

着物の似合う京の町ではこのような風潮は大歓迎です。

着物や浴衣の変化にあわせ、履物も変化して参りました。
浴衣下駄も色のバリエーションも増えお洒落なものが沢山出ております。

下駄

舞妓さんのコッポリから草履と間違えそうな高級な下駄から可愛い子供用
まで飾られております。

下駄2

ところが昔は下駄が日常の履物であったころは、鼻緒のすげ替えをして貰える
お店が何軒もありましたが、最近ではあまり見かけなくなりました。

鼻緒が切れるまで履きこむこともなくなって、古くなれば新しい物を買い求める
時代へと変わって、職人さんが高齢化し、少なくなってしまったのです。


たまたま私の持っていた下駄は母から頂いたもので、鼻緒が擦れて痛いので
鼻緒をすげ替えて頂けるお店を探してみました。

何軒か電話でお尋ねしてみたところ、ありました! 嬉しいですね!
まだそういうお店が残っていたことが!

早速持ち込んでご主人にお願いいたしました。

鼻緒

新大宮通の今宮上るに当代で四代目に当たり百年以上続いていると
お聞きしました。
手際良く、下駄の台に合わせた鼻緒の太さを選んで、すげ替えて頂きました。

鼻緒2

また新しくなった下駄を履いて、浴衣姿で祇園祭りの町中へと繰り出しました。

下駄3
22 : 06 : 51 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
新撰組
2012 / 07 / 16 ( Mon )
新撰組京都同好会(祇園祭パレード)

京都市中京区西ノ京に「京都新撰組同好会」という会があります。
昭和51年に発足し、政治色を一切いれない一般市民で構成されている
同好会だそうです。


剣術1

元冶元年(1864年)三条小橋にある池田屋にて倒幕派の浪士が集い、
倒幕戦を起すとの情報を得て新撰組が京の治安を守るため出動した
と世にいう池田屋事件は祇園祭の宵々山の夜のことでありました。

その新撰組が結成されてから今年で百四十九年になるとか、、、

「京都新撰組同好会」では幕末維新に尊い命を捧げた新撰組隊士はじめ
佐幕勤皇等数多くの志士の霊を慰め、長く語り継いでいくことを目的に
毎年祇園祭の宵々山の日に「池田屋事変記念パレード」を行ってこられ
ました。

今年も7月16日の今日祇園祭りの宵々山の午後4時から壬生寺を出発して
八坂神社まで新撰組のだんだら模様の羽織を着てパレードが行われます。

そのパレードの前に事務所に集結した同好会の方々が剣術の練習をされて
いました。

剣術4

いろいろな形があって、指導役の方の合図に合わせて刀を抜き大上段に
構えて真剣な表情で練習をされていました。

剣術3

練習は足袋はだしで、すり足をしながら形を全員であわせておられました。

剣術2

それにしても昔はこのような物騒なものを腰に下げて往来を歩いていたの
ですね。
剣術は武道として極める精神がいい形で受け継がれていくことは時代を風化
させないためにもいいものではないかと考えます。

剣術

凛々しい剣術の練習風景を拝見いたしました。
23 : 32 : 25 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
祇園祭
2012 / 07 / 16 ( Mon )
祇園祭 船鉾・放下鉾・菊水鉾

今年の祇園祭は3連休に挟まれ大変な賑わいをみせております。
宵々山の15日は29万人が四条通の歩行者天国に繰り出し流れに
逆らっては歩けない状況となりました。

今年は特に露天商の数が制限され新町・室町通では片側のみの出店
となりましたので比較的歩きやすいのですが、さすがにこれだけの
人が繰り出すと圧感です。

鉾シリーズの今回は船鉾・放下鉾・菊水鉾です。

船鉾は新町の四条を下がっていったところに建てられております。
船鉾は他の鉾とは違って船の形をしております。

由来は身重でありながら男装して海戦に見事勝利をしたという
神功皇后の説話からなづけられました。

舳先には金色の鷁が大きく羽根を広げて掲げられております。

皇后の神面(文安年間作1444~1448年)は古来安産に奇瑞があるとされ、
宮中でも尊敬され、明治天皇のお誕生の時には宮中へ参内していると
いわれております。

皇后の神像は岩田帯を沢山まいて巡行いたしますが、巡行後は妊婦さんに
授与され安産のお守りとされています。

船鉾

平成21年に高欄下の水引が新調されました。


船鉾2

船尾には螺鈿細工の舵が飾られております。

船鉾3

車輪も大きく立派なものが取り付けられております。

船鉾車輪

放下鉾は新町四条上るに建てられております。

放下鉾は真木の中ほどの「天王座」に放下僧の像を祀る処から放下鉾と
名付けられております。

放下鉾2

鉾頭は日・月・星が下界を照らす形を示し、その形が洲浜に似ているところから
別名「すはま鉾」とも呼ばれております。

放下鉾でも昭和4年までは長刀鉾と同様稚児が同乗する鉾でした。
現在は久邇宮多嘉王殿下より名付けられた三光丸と名付けられた稚児人形が
巡行の際には乗せられ、稚児舞ができるようになっています。


放下鉾頭

破風正面の三羽の丹頂鶴は幸野楳嶺の下絵を高浮彫したもので大正6年
に完成したものです。

放下鉾3

前掛け・胴懸けはインドやペルシャの絨毯が架けられております。

放下鉾4

菊水鉾は室町四条上るに建てられております。

菊水鉾は菊の露を飲み長寿を保った枕慈童の故事にちなんで名づけ
られました。
町内にはかって名水の「菊水井」があったところでもあります。

鉾頭には金色の透かし彫りの菊の花をつけております。
「天王座」には彭祖像をお祀りされています。
菊水鉾は元冶元年の兵火で焼失し、昭和27年に88年振りに再興された
「昭和鉾」として年々装飾が加えられてまいりました。

菊水鉾1

菊水鉾の屋根は唯一唐破風の屋根で懸魚には海老名峰彰作の鳳凰が
飾られております。

菊水鉾2

軒下に翆簾を掲げるところは他の鉾とちがっています。

菊水鉾3

天井画は三輪晁勢画伯の絵が描かれております。

菊水鉾天井龍

近年皆川月下画伯の孔雀図の豪華なものが完成し、巡行には掲げられて
おります。

菊水鉾見送り

車輪にも菊水の紋がつけられております。

菊水鉾車輪

今回は鉾を重点に見てまいりました。
これらの鉾は長刀鉾を先頭に明日威風堂と巡行をし、動く美術の数々を披露
しクライマックスを迎えます。
23 : 27 : 46 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
祇園祭
2012 / 07 / 15 ( Sun )
祇園祭 鶏鉾

鶏鉾は室町通の四条を下ったところに建てられています。

鶏鉾の名前の由来は、昔唐堯の時代に天下がよく治まり訴訟用に使われていた
太鼓(諫鼓(かんこ))が使われなくなり、苔が生え鶏が宿ったという故事
に因んで名づけられたとも言われております。

鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諫鼓の中にあることから鶏鉾の象徴となって
いるとも言われるそうですが、はっきりとしたことはわからないそうです。

真木の「天王座」には航海の神といわれる住吉神社をお祀りされています。

鶏鉾1 鶏鉾頭

屋根の蟇股には鶏の彫刻がなされています。作者は書かれておりません。
金細工も細かく豪華な彫刻がみられます。

鶏鉾4

天水引は下河辺玉玉鉉、下水引は松村呉春、松村景文など四条派の画伯
による下絵によって製作されたものだそうです。

また前掛けはペルシャの絨毯、胴掛けはインドの絨毯等、
見送りはベルギー製で江戸時代初期に輸入されたものといわれ、国の
重要文化財に指定されています。

巡行の日が好天であればこれらの鉾飾りが拝見でききるものと思います。
22 : 04 : 49 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
祇園祭
2012 / 07 / 14 ( Sat )
祇園祭 函谷鉾

函谷鉾は四条通の烏丸西入るに建てられております。

函谷鉾1

函谷鉾の名前の由来は中国の戦国時代(403~221年)の史話によるもので
孟嘗君は斉の相宰であぅたが、招かれて秦の国の宰相となり、讒言にあい
逃れて函谷関に着くが、この関を開けるには鶏の鳴き声であくことを知り
食客に鳴き真似をさせ無事通過したという故事にちなむものと伝えられて
おります。

真木のなかほどの「天王座」には孟嘗君、その下には雌雄の鶏が添えられて
います。 なかなか高いところなので下からは見えにくいです。

宝永の大火、天明の大火で焼失いたしましたが公家や町衆の寄付や、
当町に屋敷をもっていた鴻池善右衛門氏から百五十両が贈られ再興され
明治2年には鉾として一番に巡行したと伝えられております。

函谷鉾では特殊行事として毎年鉾が建つ期間中に高田御坊龍源寺(宇多野)
にお参りにいくことと、愛宕神社に無事故を祈願して参拝し、網隠しの
内側真木に祀符を貼っているといわれております。

函谷鉾4

屋根裏の金地著彩鶏鴉図は今尾景年(1845~1924年)画伯の筆によるもの
です。

函谷鉾3

前掛けは旧約聖書創世記の場面を描いたもので重要文化財となっております。
平成18年に復元新調されています。

胴懸けは17世紀の李氏朝鮮絨毯、花文様のインド絨毯や中国絨毯など3枚が
使われています。

その他山鹿清華作の手織郡鶏図、皆川月下のエジプト天空図などが新調
されています。

函谷鉾2
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祇園祭
2012 / 07 / 13 ( Fri )
祇園祭 月鉾

梅雨の末期のころ京の都は蒸し蒸しと湿度の高い暑い日が続きます。
毎年祇園祭りを境に梅雨が明けると言われてまいりました。

そんな暑い7月は京の都は祇園祭一色となります。
1日の切符入りからお千度、くじ取り式、神面改め、山鉾建てと
毎日行事が続きます。

12日頃になりますとどこの鉾町、山町でも山鉾建てが済んで曳き初めが行われます。

山・鉾が立ちあがると、まさに町中は美術館の様相を呈してまいります。

夫々ご自慢のお宝が展示され、また飾りつけられて巡行日を待ちます。

この祇園祭の山鉾は33基あり、室町・新町・烏丸を中心に御池通から
下、高辻通から上の間で建てられます。

月鉾

そんな鉾・山の中に月鉾があります。
四条通の室町を西入にあって、鉾の中では重量・高さともに全山鉾随一
と云われています。(重量3トン高さは27mもあります。)

月鉾は鉾頭に新月型をかざしているところから月鉾と呼ばれております。

真木の中ほどの「天王座」には「月読尊」をお祀りしております。

応仁の乱、天明の大火によって罹災いたしましたが、失われたのは
真木一本のみで、文化の頃に再建されたのが現在の月鉾だそうです。

当時月鉾町には岩城清衛門宗康という富豪がおられ、月鉾の装飾に
大金を投じて他の鉾より立派にされたと書かれております。

月鉾2

屋根の草華図は天明4年(1784年)円山応挙の筆によるもので。
破風の蟇股は左甚五郎作によるものと伝えられております。
鉾先の方は兎と亀、後方は兎と馬が彫られています。

軒桁貝尽くしの錺金具は松村景文の下絵によるものだそうです。

また胴懸けはインドやトルコの絨毯が用いられておりますが、
今年胴懸けは新調されたそうです。

巡行までは雨が多いのでまだ架けられておりませんが、巡行当日
好転に恵まれれば新調の胴懸けを見ることができると想われます。

彫刻や絵画などまさに豪華絢爛な鉾であります。

月鉾3
21 : 29 : 06 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
八坂神社
2012 / 07 / 11 ( Wed )
八坂神社は祇園造り

7月1日から1ケ月に亘り繰り広げられる祇園祭りが今年も1日の切符入り式
から始まりました。

祇園祭りは京都の八坂神社の祭礼として行われております。
その八坂神社は斎明天皇2年(656年)に高麗から来朝した伊利之(いりし)
が牛頭山の素戔嗚命の神霊を八坂郷に祀ったとも、又貞観18年(876年)
に南都興福寺の円如が堂宇を建て後祇園天神堂を建立したとも伝えられて
います。

楼門

その八坂神社の本殿は祇園造という建築様式で建てられております。

神社建築の成立時期や形態は遺構が残されていないので明らかではないと
いわれておりますが、最古の神社は出雲大社だといわれております。

奈良時代初期には神明造、大社造、住吉造の建築様式が出来ていたらしく、
その後、春日造(京都では吉田神社等)、流造(上賀茂神社や
下鴨神社)八幡造(石清水八幡宮)、祇園造(八坂神社)などの様式が
見られ仏寺に用いる建築上の影響がみられるようになったと伝えられて
おります。

現在の神社の本殿の形式は平安時代や鎌倉時代の様式が大きく影響し
衣装や装飾、組物、蟇股等が一層華麗で複雑なものとなって現代に
伝わっているといわれております。

祇園造り1

祇園造は祇園社とも通称される八坂神社本殿特有の様式です。

本殿

正面は五間、側面は二間の母屋に四方に庇を巡らせて、その前に
正面七間、側面に二間の礼堂を加えて本屋とし、この上を一つの
屋根で覆うというもので他三面には孫庇がつけられております。
その造りは複雑なもので寺院建築に最も近いといわれております。

本殿屋根

孫庇

大屋根と孫庇の入り組んだところには寸分も違えることのない
見事な造りがなされております。

本殿後

直角に切り込んだコーナーには支えのちょうつがえがあり、これが
耐震性の強度をもたせているのでしうか

祇園造り3

神社にお参りをしても、なかなか建築様式にまで目が届きませんが
ゆっくりと本殿、拝殿など建築面から拝見するのもまた素晴らしい
発見があります。

今年も祇園祭が盛大に恙なく行われることをお祈りいたしました。
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旧二条城跡
2012 / 07 / 09 ( Mon )
旧二条城跡

京の都の二条城といえば堀川御池上るに慶長7年に徳川家康によって
築城された世界文化遺産に指定されている城をいいます。

ところが、上京区下立売通室町西入るの平安女学院校舎の一画に
旧二条城跡と書かれた石柱が置かれています。

二条城が二つあったのかと疑問に思われます。

この旧二条城跡というのは
永禄12年(1569年)に織田信長が最後の室町幕府第15代将軍足利義昭
のために将軍座所(居城)として現在の烏丸通、新町通、丸太町通、
下立売通に囲まれた一丁四方にほぼ70日間で築いた城であると文献に
残されています。

短期間ではありましたがこの二条城は二重の堀や三重の天主を備えた
堅固な城であったそうです。

その後信長は旧二条城から足利義昭を追放し、正親町天皇の皇太子
東宮誠仁親王を迎え入れ城は「二条御殿」として使われていましたが、
室町幕府が滅んだことにより廃城となりました。

天正14年(1576年)旧二条城は解体され、信長の安土城築城に際して
建築資材として再利用されたと伝えられております。

石柱

地下鉄烏丸線の工事の際に発掘調査が行われた時に出水、下立売、椹木町、
丸太町の4ケ所で石組のある大規模な濠が発見され、位置的に旧二条城の
ものと考えられると言われております。

丸太町上るの石組
丸太町石組

出水の石組
出水の石組

当時ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが書きのこした「日本史」に
信長は吊りあげ橋のある非常に大きく美しい濠を造り、その中に種々
の(多数の)鳥を入れた。彼はそこ(濠)に三つの広大でよくしつらえた
入り口を設け、そこに見張所と砦を築いた。
その後ろには美しい広い中庭があった。 と書かれているようです。

もう一つの二条城の謎が解けたようです。
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西芳寺
2012 / 07 / 07 ( Sat )
西芳寺(苔寺)

京の世界文化遺産の一つ西芳寺は通称苔寺としてその名を
よく知られています。

西芳寺は今から約千三百年前聖徳太子の別荘として建立された
ものを聖武天皇の勅願により行基が畿内四十九院の法相宗の寺
として開山いたしましたうちの一つといわれております。

建武の兵乱で荒廃していたのを藤原親秀(松尾大社宮司)が
夢窓疎石を住持に迎え再興され臨済宗に改められ今日に至ります。

総門は現在通用門としては使われておりません。
参拝は西芳寺川を伝って山門から入山いたします。

総門

山門には「衆妙」という扁額が掲げられています。
西芳寺は、山号を洪隠山と号し、ご本尊は阿弥陀如来

山門

山門 扁額

山門の横の小門をくぐり中に入ります。
今は蓮の花が丁度見ごろを迎えています。
西芳寺の蓮は「大賀連」と名付けられていて、約2000年前の蓮種
で発芽させて育てられたもので通称二千年蓮ともいうそうです。

大賀蓮

昨夜来の雨で雨滴が葉の上にまだたまっていて、色鮮やかさを
増しています。

大賀蓮2

現在の本堂は昭和44年に再建されたもので「西来堂」といいます。

本堂

本堂にはご本尊の阿弥陀如来をお祀りされていて、内部の襖絵は
堂本印象画伯による抽象画が描かれ百四面からなるそうです。

この本堂で参拝者は先ず3000円の冥加金をお支払い後、般若心経の
写経をいたします。
参拝は相当人数の方がおられ、全員午後1時から約30分間位写経を
して後般若心経を3回唱和致します。
唱和が終わればご本尊の前で写経を納めお参りをして、庭園散策へと
続きます。

本堂扁額

庭園は苔寺といわれる由縁、境内一面苔に覆われていて、その種も
百二十余りもあり、一年で梅雨時が最も美しい時期といわれています。
今日はまさに絶好の機会でした。
庭園への通路から先ず観音堂へと続きます。


庭園へ

観音堂は藤原時代に彫られた観音菩薩がお祀りされています。

観音堂

観音堂の前には苔庭の中に小庵堂茶室があります。
二条中板様式のお茶室らしいですが、中は拝見することはできません。

小庵堂茶室2

庭園は下段の黄金池を中心に池泉回遊式庭園と上段は枯山水式
庭園で構成されていて国の史跡及び特別名勝に指定されています。


この黄金池は心から象られていて心字池とも呼ばれています。

黄金池1

黄金池はどこから眺めても池に木々が写し出され、一幅の絵の
ようです。自然が醸しだす風景の素晴らしさを感じます。

黄金池2

国の重要文化財に指定されている西芳寺の茶室は千利休の次男、
千少庵によってたてられました。
その遺跡として石柱が建てられております。
又岩倉具視公の旧蹟と書かれた石柱も建てられておいます。
どのような関係があったのかは説明にありませんでした。

千小庵遺跡 石柱

慶長年間(1596~1615年)千少庵によって建立された茶室は湘南亭
名付けられております。

湘南亭1

四畳半台目のお茶室でトユも自然素材の竹で作られています。

湘南亭2

開放的な広縁付の茶室は庭園と連続するように構成されていて、
天井は土塗でできているのが特徴ともいわれております。

湘南亭3

昔はこのように工夫を凝らした茶室で一服の茶を通して、朝に
昼に、夜に夫々の木々の息遣いを感じながら風情を楽しんだの
でしょうね。 優雅な世界です。

湘南亭4

湘南亭の前には石垣が作られていて、ここは船着き場であったのか
又は建物があったのでしょうか?

石垣

まるでビロードで覆うように木の根を苔が繁茂しています。
光が当たるとキラキラと瑞々しい苔が反射し、蔭の部分では
苔の緑が一層綺麗に見えます。

苔2

以前は黄金池に渡してある橋を巡りながら自然を観察されたの
でしょう。苔むした橋に足跡がみられます。

黄金池3-2

潭北亭と名付けられたお茶室です。
ここは通常のお茶席とは異なり、立礼式のお茶室だそうです。

潭北亭

こじんまりとした茶席は極少人数で楽しまれた茶室のようです。
壁にはいろいろな色紙のようなのが貼られていますが、よく読めません。

潭北亭2

円窓からは黄金池が眺められ、向こうには舟が浮かべられていました。
おの黄金池も舟で回遊されていたのでしょうね。

潭北亭3円窓

向上閣と書かれた門をくぐるということは禅の修行の第一関門
を潜るということだそうです。

ここから下段の池泉回遊式庭園から上段の枯山水庭園への境
となります。
門をくぐると49段の石段があり、険しい山路を表し、
禅の修行の厳しさを戒め、一段又一段のぼることにより悟りの
世界へ近づいていくといわれております。
この先に開山堂である指東庵があります。


向上閣

指東庵の右手が枯山水の庭園となっています。
左手には坐禅石が置かれています。

指東庵

枯山水庭園は約六百数十年前に夢窓疎石によって築かれた日本最古の
枯山水の石組であるといわれております。
この石組は上から三段構えになっていますが心眼でとらえるもので
あるとされ滝の流れる姿を現しているともいわれております。

枯山水

開山堂には眞如法親王の位牌と藤原親秀夫妻の像が正面に
安置されています。

位牌

又夢窓国師の像と行基の位牌も安置されています。

夢窓疎石

夢想国師が三週間断食修行をされたといわれる坐禅石があります。
今は苔に覆われていますが、三週間もの間ここで断食の修行を
されるということは生死にかかわる修行であったのではないで
しょうか?

座禅石

坐禅石の下には湧水がありました。

座禅石2

木の幹に出来た茸は光を浴びていました。

茸


流石に苔寺という名で親しまれている西芳寺の苔はその種類と
広さと色鮮やかさは素晴らしいものでした。

長く継承され幾世代も引き継がれていくことを願いたいです。
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大連寺
2012 / 07 / 06 ( Fri )
蓮の花が見頃 大連寺

京の東山二条西入るに浄土宗の大連寺があります。
大連寺は慶長5年に深誉上人によって建立されました。

山門

ご本尊は阿弥陀如来。
大連寺の阿弥陀如来様は安産の寺に由来いたします。

その謂れは
第三代天台座主の慈覚大使が晩年比叡山の念仏堂にこもり修行の後阿弥陀如来を
彫っておられると夢の中で、「比叡山から下りて京に入り女人の厄難(お産の
苦しみを救いたい」とお告げがあったそうで、その阿弥陀様を真如堂に安置され
ました。 するとたちまち女性から圧倒的な信仰を集めるようになりました。

応仁の乱により真如堂が荒廃し、阿弥陀様は行方知れずになってしまいました。
大連寺の開山である深誉上人が伏見の町を歩いていた時、一軒のお堂の中から
光まばゆい阿弥陀様を見つけ、誰もお守りをしている気配がなかったので
慶長5年に大連寺を建立して、阿弥陀様を安置いたしました。

元禄年間に真如堂が復興され、失った阿弥陀様を探したところ、大連寺の阿弥陀
様がそれらしきことが判明し、幕府から返却するよう命じられました。

深誉上人は21日間念仏を唱え続け、成願の日の朝なんと阿弥陀様が2体に分かれ
ていたので、一体を真如堂に、もう一体を大連寺に安置した。
ということが現在迄伝えられているそうです。

安産阿弥陀如来

大連寺さまでは今、蓮の花が見ごろを迎えています。
その種類も多く大輪の花が咲き誇って、浄土の世界をあらわしています。

蓮


蓮2


小舞妃
小舞妃と名付けられています。


仏足蓮
仏足連

又、大連寺には、その昔祇園社(八坂神社の前身)の中に観慶寺(祇園寺)があり
大連寺の深誉上人が観慶寺の勧請をつとめたことで江戸時代には深い関係にあり
ました。 廃仏毀釈で観慶寺は廃寺となり、観慶寺に安置されていた薬師如来、
十一面観音が大連寺に移されたと伝えられています。
その十一面観音が洛陽33観音霊場の8番札所として受け継がれているそうです。

大八番札所

大連寺にはユニークな「走り坊さん」というお話があります。

現在のように交通が発達していなかったころはひたすら人力に頼って
いました。

お寺にお参りできない妊婦さんのために京都中を走りながら
「安産のお守り」を届けたそうです。
現在の宅配便のような役割を大連寺のお坊さんが担っていたそうです。

走り坊さん

健脚な走り坊さんにあやかった足腰健常のお守りも800円で授与されている
ようです。  今では走って届けては戴けません。

足腰健常のお守り
19 : 31 : 35 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大将軍神社
2012 / 07 / 05 ( Thu )
大将軍神社

京の東山三条大橋東三丁目下がるに大将軍神社があります。

素盞鳴命を主神にして相殿に藤原兼家をお祀りしています。
桓武天皇が平安京に都を定めた時に大内裏鎮護のため、四方四隅に
祀られた大将軍神社の内の東南隅の一つとされています。

特に平安京東のこの地は三条口の要地にあたり,邪霊の侵入を防ぐ
ということで重要視されてまいりました。


石柱 駒札



鳥居

この辺りに建てられた藤原兼家の邸宅は応仁の乱によって焼失して
しまいましたが、境内に東三条社として名跡を止めていると伝えられて
います。

東三条社の石柱の隣には天満宮のお社がおかれています。

天満宮2

中央に拝殿がおかれていて、境内は広いです。

拝殿

本殿は唐破風のどっしりとした構えです。

本殿

本殿に樹齢800年といわれる大銀杏の大樹がそびえ、かって鵺の森とも
呼ばれていたようです。

大銀杏

この大将軍神社には源頼政が鵺退治をしたと言われる平家物語に記されている
伝説があります。

源頼政は大江山の酒吞童子を退治した源頼光の子孫で武勇に誉れ高い人物でした。

任平3年(1153年)東三条社の森から夜な夜な黒雲が湧きだし、天皇の住まい
である清涼殿を覆い、さらに近衛天皇が得体のしれないものに襲われるという
事件が起こりました。

その得体のしれないものは鵺のような不気味な声で鳴くというので僧を招いて
祈祷を行ったが効果がなく、そこで化け物を退治するため武勇の優れた源頼政
に白羽の矢があたりました。

頼政は邸内の鎮守社に祈祷して化け物の襲来をまちました。
すると丑の刻に東三条社の方角から黒雲が湧きだし、内裏へと近づいてきました
その化け物の中から「頭は猿、胴は狸、手足は寅、尾は蛇」という異様なもの
が現れました。頼政はすわ1と「南無八幡大菩薩」と唱え矢を放つと見事命中
して恐ろしい悲鳴とともに化け物は落下しました。

退治された化け物は都中を引き回されたが、疫病が流行り出したので、バラバラ
に刻んで空舟(うつぼふね)に乗せ鴨川に流したそうです。

この功により頼政は帝から「獅子王」という名刀を拝領した。

というお話です。
22 : 18 : 22 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
須賀神社
2012 / 07 / 04 ( Wed )
須賀神社

京の左京区聖護院円頓美町、聖護院門跡の南に須賀神社があります。

平安時代末康冶元年(1142年)美福門院創建の歓喜光院の鎮守と
して創始されたもので、ご祭神は素盞嗚命、櫛稲田姫命を主神と
して五柱がお祀りされています。

もとの社地は平安神宮蒼竜楼の東北にある西天王塚で、岡崎の
東天王社に相対して古くは西天王社と呼ばれていました。
現在地には大正13年(1924年)に移されました。

鳥居

昭和39年(1964年)には交通安全の神として交通神社が分祀された
とあります。

交通神社

駒札

現在地に移されてからは聖護院一体の産土神とされ、縁結び、厄除け
交通安全のご利益がると地元の人々から信仰を集めています。

毎年5月の10日には神幸祭として「角豆祭(ささげまつり)」が行われ
ます。
ささげの蔓葉に多くのさや豆がつくようにと祈願し、氏子の繁栄を願い
家族親族揃って参拝に訪れます。

本殿

白龍大明神、稲荷大明神もお祀りされていて、この神様は商売繁盛、お金が
貯まる有難い神様として信仰を集めているようです。

白龍大明神 社

交通神社ともいわれお守りも立派なものです。

交通安全お守り

2月節分の日に限って須賀神社では懸想文という独特のお守りが授与されます。

懸想文

烏帽子に水干姿で顔を被って、肩に梅の枝をかつぎ「懸想文」を手に持って
売り歩きます。
この懸想文は縁談、商売繁盛など人々の欲望を叶える符札でこれを隠して
鏡台やタンスの中に入れておくと顔形がより一層よくなり良縁が早くきたり
着物が増えたりするといわれ、その昔平安の京の町ではこぞって買い求めた
といわれております。

又この懸想文売りが顔を被ったのは平安時代お金に困った貴族が小遣い稼ぎ
にラブレター代行をしていたため顔をみられたくないと顔を被ったとも
いわれていています。

懸想文  懸想文売り

来年の節分には是非訪れて懸想文を買ってみては如何でしょうか?
当日は大勢の人が参拝に見えます。
又節分の当日のみ販売される「須賀多餅」というのが2ケ入り260円で販売
されています。


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曇華院
2012 / 07 / 03 ( Tue )
竹の御所 曇華院

京の右京区嵯峨北堀町、鹿王院の隣に曇華院があります。

臨済宗の天龍寺派に属し、山号を瑞雲山ご号します。
ご本尊は十一面観音(非公開)で通称「竹の御所」と呼ばれております。

応暦年間(1338年~1342年)に智泉聖通(足利義満の外祖母、足利義詮の
夫人の母)が東洞院三条の高倉宮(以仁王)御所跡に創建された通玄寺の
東庵が前身であります。その後通玄寺と合併され曇華院となったようです。

7尼門跡寺院の内大聖寺、宝鏡寺に次ぎ3番目の寺格に列せられました。
足利義満の時には尼五山の一つに列せられたとも伝えられております。

応仁の乱により焼失、延宝年間(1673~1681年)に後西天皇の皇女
大成尼によって再興されました。以来歴代皇女が住職を務める尼門跡
となりました。明治4年(1862年)に現在地に移転され天龍寺派から
独立し単律寺院となりました。

山門

表札

寺宝には御所人形や室町時代作といわれる貝合わせ365組みや双六、
山口雪渓による襖絵、杉戸などが東洞院三条から兵火を潜り抜けて
現在も引き継がれ所蔵されています。

中でも次郎左衛門雛といわれる雛人形は大成宮が寛文11年に曇華院に
入寺される時に持参されたものだといわれております。

塀

通常非公開につき、事前にお願いして許可をえなければ拝観することは
できません。

お庭は杉苔や青紅葉など新緑がとても綺麗で明治の移転時に東洞院三条
から種を持参し育てられたといわれる日光椿や月光椿が春先には見事に
咲くそうです。

玄関

東洞院三条にあった曇華院は『洛中洛外図屏風』にも描かれているようです。

玄関2

嵯峨に赴いた節には是非鹿王院、曇華院は訪れてみたい寺院です。
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鹿王院
2012 / 07 / 02 ( Mon )
鹿王院(ろくおういん)

京福電鉄の鹿王院駅(終点嵐山から2つ手前の駅)から徒歩7分位の
ところに鹿王院があります。

正式には「覚雄山 宝幢禅寺 鹿王院」といいます。

足利三代将軍、義満が康暦2年(1380年)二十四歳の時、延命祈願
のために建てた禅寺で、開山に義満の師 普明国師(春屋妙葩)を
迎え、覚雄山大福田宝幢寺となづけました。
当時は京都五山十刹の第5位といわれた名刹であったようです。

嘉慶元年(1387年)開山の春屋妙葩の塔所として宝幢寺内に鹿王院が
建立され、14世紀末から15世紀にかけて宝幢寺、鹿王院は全盛期を
極めました。

その後応仁の乱、文永の乱により宝幢寺は消失し鹿王院だけが残り
ましたが、伏見大地震により鹿王院の伽藍は倒壊し、現在の建物は
江戸寛文年間(1660年代)に再建されたものだそうです。

山門

山門は切妻式の本瓦葺 棟門式で両サイドには土塀が続きます。
山門に掲げられている扁額「覚雄山」は足利義満のの筆によるもので
   覚雄は・・・碩学(優秀な人材の意)

山門扁額


山門から中門までの参道には江戸時代に中国から渡来した健胃、整腸
沈痛に薬効があるといわれる天台烏薬や、見事な紅葉等数種類の銘木
が茂っていて苔の青さとともに、今は新緑がとても綺麗です。
秋には紅葉となって又趣の違う素晴らしい光景を楽しむことができます。

参道

参道には守護神の神様もお祀りされています。

その昔一休和尚が少年のころ(応永2年 12歳)この山門を潜って
維摩経の提唱を聴いて修行されたそうです。

鳥居

中門を潜って庫裏へと続きます。

中門

庫裏は1660年代に再建されたもので、中に入った正面には「韋駄天」が
安置されています。(韋駄天は仏法の守護神のひとつ)

玄関

客殿は明治23年(1890年)に再建されたもので、客殿の裏には
茶室「芥室」、茶庭があるようですが、非公開で拝見はできません。

客殿3

客殿の扁額「鹿王院」はやはり足利義満の自筆によるものだそうです。

客殿の扁額

客殿から舎利殿に至る瓦敷きの歩廊の中間に本堂があります。
本堂には運慶作の釈迦如来、十六弟子像が安置され、創建当時のまま
伝わっていると記されています。

釈迦如来像の後段右に開山の普明国師、左に開基の足利義満像が
お祀りされていて、開山国師像の下は宝筐塔があるそうです。

本堂


鹿王院の本庭の中心に舎利殿がおかれていて、舎利殿には鎌倉
将軍源実朝が宋の国から招来した仏牙舎利が多宝塔に安置されて
います。

この仏牙は天下泰平の霊仏で日本の博多に無事着船したのが
10月15日であったことから、毎年10月15日を「舎利会」と定めて
御開帳をされているそうです。

この仏牙は後光厳天皇から普明国師に賜ったもので、後奈良天皇、
正親町天皇、後水尾天皇も礼拝供養されていると伝えられております。

舎利殿2

舎利殿を中心とした本庭は嵐山を借景に室町時代の石組や四百年の
木斛(もっこく)の銘木で格調が高いといわれております。

舎利殿

今はこの鹿王院では仏教研修の女性の禅道場が開設されているようです。

ちょっとメジャー化していない素晴らしいお寺で、秋には又訪ねたい
ところです。


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