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河合神社
2012 / 10 / 20 ( Sat )
鴨長明 『方丈記』 800年記念

今年は賀茂御祖神社(下鴨神社」の摂社河合神社縁の鴨長明が
『方丈記』を執筆してから800年の記念の年を迎えました。

その記念展が今下鴨神社・河合神社で10月1日から12月16日迄
行われています。

鴨長明は久寿二年(1155年)下鴨神社禰宜長継の次男として
生まれました。
7歳の時下鴨神社の第6回式年遷宮が行われた際には神職の道に
つき従五位下に叙せられました。
幼少から学問に秀でて46歳の時には後鳥羽院から召されて院の
歌会や催しに和歌を献じることになり、和歌所の寄人に任ぜ
られました。 が、50歳の春宮中の席を辞して洛北大原に隠遁
いたしました。

その時『新古今和歌集』に
石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たずめてぞすむ
十首菜録されました。

建暦2年(1212年)3月『方丈記』ついで『無名抄』を著した
長明は建保4年6月に62歳で没しました。

下鴨神社の摂社河合神社には鴨長明が隠遁生活を送った「方丈」の
模型が置かれていて、今多くの見学者が訪れています。

河合神社も開放的に改修されていました。

河合神社

本殿

鴨長明の方丈記は
長明が50歳の時全ての公職から身をひき大原に隠遁、その後世の無情
と人生のはかなさを随筆として著したのが『方丈記』であります。

「ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず・・・」という
書きだしから始まるこの方丈記には厄災を克服して未来を切り拓いて
きた先人の姿を知ることができる作品であるといわれております。

そして今まさに方丈記が記された厄災が現代社会でも起こっている現状
はなにか先人の思いと重なるものがあるようにも思われます。

駒札

鴨長明が大原から各地を転々と流浪し、その落ち着いた各地を移動して
入る時に「栖」として仕上げたのが「方丈」であります。
組み立て式になっていて広さは一丈(約2.73坪)間口、奥行きも
一丈四方というところから「方丈」と名付けられたそうです。
その模型が河合神社に置かれております。

無駄を配した究極の簡素な造りがなされております。
この方丈の特徴は土台状のものが置かれて、その上に柱が立てられている
ことで、この土居桁の構造は下鴨神社の式年遷宮にあわせて移動を念頭に
おいた構築にヒントを得たものといわれております。

鴨長明の庵

下鴨神社の神福殿では800年を記念してスタジオジブリが描く乱世
と題して「定家と長明」展が、
研修道場では鴨長明『方丈記』の世界と題して長明自筆本や縁の品々が
展示されております。

神福殿

河合神社の絵馬は鏡になっています。
河合神社のご祭神玉依姫命さまは神武天皇の御生母で玉のように美しい
姿から美麗の神様と信仰を集めていて絵馬に自身で化粧を施し、外面
だけでなく内面的にも美しい女性になれますようにとのねがいをこめて
絵馬に託すという珍しい絵馬です。

絵馬

下鴨神社では他にも『方丈記』800年記念の連続講座も催されております。
近々では10月20日下鴨神社の新木直人宮司による講演や10月28日には
麻生圭子さんの講演なども行われております。

又下鴨境内では草月流の華展も行われていて、広い神社境内や糺の森一体
で力作が展示されていて、とても見ごたえのある立派な華展も楽しむことが
できます。


花展

花展2

花展3


21 : 56 : 50 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
十七烈士のお墓
2012 / 10 / 19 ( Fri )
禁門の変 十七烈士のお墓

天王山の秀吉の旗立て松から更に登ると「十七烈士の墓」
というのがあります。

幕末期長州藩を核とする尊攘派が公武合体派の排除を要求して
上京、御所で武力衝突を起した事件が禁門の変であります。
(蛤御門の変ともいわれております。)


記念碑

文久3年政変で京都から追放された長州藩は、進発と割拠を
めぐる論争を重ねていたが、元冶元年池田屋事件以後一挙に
進発論が高まり長州藩主は益田・国司・福原三家老に軍令状を
与え、約3000の兵が京都に入りました。
兵は山崎宝積寺、伏見長州屋敷、嵯峨天龍寺に分営、久留米
水天宮の真木和泉の一隊も山崎に布陣いたしました。

そこで三方から市中へ進軍を開始、伏見の福原隊は早く敗れ
ましたが天龍寺の国司隊は御所に到着し、薩摩、会津、桑名、
大垣など幕府勢と戦闘を開始いたしました。

短時間で長州藩は敗退、天王山で真木和泉守以下十七士は自刃
いたしました。

その十七烈士を供養するためここに十七烈士のお墓が建てられました。


駒札


墓表


十七人の隊士は新政府樹立を夢見、革命を図りましたが、残念ながら夢は
果たせず次の時代に夢を託して散っていきました。
新政府が樹立されたのは禁門の変後4年後のことだと記されております。

お墓
22 : 59 : 40 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
旗立て松(大山崎)
2012 / 10 / 17 ( Wed )
秀吉の旗立て松


大山崎の宝積寺から天王山へ20分ほど登ったところに山崎合戦の
由緒が残る旗立て松があります。

主君織田信長が明智光秀に倒されたことを聞いた秀吉は備中高松城で
戦っていたが、すぐさま京へと引き返し光秀との戦いに臨みました。

京都を守る光秀は山崎辺りを戦場と判断し、俯瞰のきく天王山を
目指しました。 秀吉の前線もやはり天王山を目指しました。
実際の合戦の前哨戦は天王山までいかなくて大山崎の東を流れる
小泉川を挟んだ地で行われたと言われております。

秀吉軍は40,000、明智軍は16,000圧倒的に軍勢の多い秀吉軍では
ありましたが、更に味方の士気を高めるためこの天王山の松に千成瓢箪の
旗印を掲げたところ、戦局に大きな影響を与え勝利を手中に納めたと伝え
られております。

その旗を立てた松がここにある秀吉の旗立ての松であります。

山崎合戦の石碑

駒札

現在の松は六代目にあたるそうです。

松


さすがに両軍が目指した天王山はこの7合目からでも視界が広がり
大パノラマです。木津川、鴨川、宇治川が合流する地点から、高速道
比叡山の山嶺まで遠望することができます。
ここは隠れた京の名所でもあります。

展望


秀吉は勝利を収めて、天王山にお城を築き大阪城が完成するまでの
居城といたしましたが僅か1年余りで(天正12年)山崎城は廃城され
天主も壊されたようです。

今も天王山の頂上にはお城跡の土塁、空堀、石垣などが残されております。
19 : 56 : 46 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
宝積寺
2012 / 10 / 14 ( Sun )
宝積寺


阪急大山崎駅より10分位の処に宝積寺があります。
寺名の由来は聖武天皇が龍神から授かった打出の小槌を本堂西の
小槌宮に祀ったことからと伝えられております。

真言宗の智山派に属する宝積寺は天王山と号し、ご本尊は
十一面観音が安置されております。

聖武天皇石碑

仁王門は鎌倉時代の制作といわれ、木造の金剛力士像(国重文)が
安置されています。

山門

宝積寺は神亀年間(724~729年)に聖武天皇の勅願で行基が開創し、
本堂に十一面観音を安置したといわれ、行基が山麓の淀川に山崎橋を
架け橋寺としたのが当寺の始まりとみられております。

260px-Hoshakuji02s1440.jpg

扁額

本堂は桃山時代様式でご本尊の十一面観音(国重文)や板絵著色神像
(国重文)が安置されています。

本堂

仁王門を潜った正面参道の右手に三重塔が建てられ、「一夜の塔」
別称されております。
豊臣秀吉によって桃山時代に建立されたと推定され、一層目に葺かれて
いる瓦は豊臣期大阪城で検出された瓦と同范であるようです。
 
三重塔の傍には「千年桜」と名付けられた桜が大きな枝を張り、開花の
時期には素晴らしい眺めが楽しめるところでもあります。

一夜の塔 千年桜

本堂の右手には近年新装された「閻魔堂」があり、中には
閻魔王坐像、司禄坐像、司命坐像、倶生神、闇黒童子(いずれも国重文)
が安置されています。
閻魔王坐像はかなり大きく、閻魔王坐像以外の彫刻は西観音寺にあった
ものですが明治時代初期の廃仏毀釈によって宝積寺に移されたものだ
そうです。

閻魔堂

本堂前には秀吉の「出世石」なども置かれていて、山崎合戦により
秀吉が山崎の地で大きな功績を残した跡が随所で見受けられます。

秀吉出世石


宝積寺は鄙びた面持ちのするとても素晴らしいお寺です。

20 : 30 : 16 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
離宮八幡宮
2012 / 10 / 13 ( Sat )
油祖 離宮八幡宮

阪急大山崎駅から徒歩3分天王山の麓に位置するところに離宮八幡宮があります

鳥居

ご祭神は応神天皇、酒解神、田心姫命、市杵島姫命がお祀りされ厄除け、
勝運、立身出世など所願成就に御利益があると信仰を集めております。


本殿



当地はかって嵯峨天皇の河陽離宮のあったところで、貞観元年(859年)
八幡神を宇佐より迎え、石清水八幡宮を鎮座した時、この地に最初に
神霊が留まったということから当社が創建され、離宮八幡と称された
といわれております。

河陽宮故址

平安時代始め離宮八幡宮の神官が、神託を受けて「長木」という油絞りの
道具を発明し、これを使って荏胡麻というシソ科の植物の種子より我が国で
初めて油が作られたことから本邦精油発祥の地として知られるようになり
ました。

鎌倉、室町時代には荏胡麻油の商売に携わった大山崎神人の在所であった
八幡宮はその人たちの信仰によって支えられてまいりました。

この油は京の都の朝廷や社寺に灯明の油として納められ、離宮八幡宮は
「油座」とし精油、販売の拠点として栄えてまいりました。

江戸期に入って菜種、綿実を原料とする製油技術が開発されると旧来の
荏胡麻油の地位は低下し、油神人の活動も急速に衰えていきました。

が現代においても離宮八幡宮は油の神様として崇敬されております。

境内には本邦精油発祥の地という石碑や、油祖像が建てられております。

     胡麻発祥石碑

シソ科の荏胡麻は今でも少量ではありますが家庭で栽培されています。

油祖像 荏胡麻

境内には菅原道真公の腰掛け石が置かれていました。
菅原道真公が九州へ流される時、この石に腰掛けて休まれ
歌を詠まれたそうです。

 君が住む 宿の梢を ゆくゆくも かかるまでも かえり見しかな


菅原道真腰かけ石 道真腰かけ石2


離宮八幡宮では毎年4月3日、9月15日に油座まつりが開催されます。
14 : 30 : 55 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大山崎町歴史資料館
2012 / 10 / 12 ( Fri )
大山崎町歴史資料館

大山崎町は南は桂川、宇治川、木津川の三川合流の地点に位置し、北は
長岡京市、西は大阪府、南は八幡市、東は京都市に接する地で古来より
京都と大阪を結ぶ水陸の要衝として栄えてきた町であります。

天正10年(1582年)6月13日には天下分け目の「山崎合戦」が戦われた地でも
有名です。そのシンポルが天王山であるといわれております。

天王山と淀川に挟まれた地で行われた戦は秀吉が勝利し、秀吉は天王山に
お城を建て、天下統一に向けて大山崎からスタートを切りました。

その城下町には千利休や今井宗久はじめ豪商などが訪れ、商売だけでなく
文化面においても多くの功績を残した地でもあります。

その歴史を紹介しているのが大山崎町歴史資料館で、阪急電鉄大山崎駅
よりすぐのところにあります。

大山崎町歴史資料館h阿大山崎商工会の建物の2階にあります。

商工会


航空写真により、三川合流地点でありかっては水陸の交通の要衝であった
様子が映し出されています。

全体像

大山崎町歴史資料館では大山崎の歴史と資料の展示の概略が示されています。

古代=交通と要衝、その文化ゾーン、中世=油生産と町の繁栄、
中央に山崎合戦、利休と待庵(復元模型)、近世=城下町から神領支配

図面

天王山からの夕景、宝積寺の十一面観音菩薩立像、三重の塔、
荏胡麻油の生産など代表的な映像が紹介されています。

史跡

信貴山縁起絵巻(平安時代 国宝 複製)
第1巻 山崎長者の巻 飛び倉の場面で面白い逸話があります。

信濃の国より奈良にきて受戒した法師(命連)が帰郷を思い留まり信貴山が
みえたところに堂を建て修行しておりました。
命連上人が山崎の長者のもとに度々托鉢を飛ばして布施を求めていたが
長者は度重なる托鉢に嫌気をさし米倉にその鉢を閉じ込めてしまった。
するとその鉢は倉から飛び出し、校倉造りの倉を鉢にのせて信貴山へ
飛んで命連上人の所まで帰ってしまった。
慌てた長者は馬に乗り倉を追って後を追い信貴山の命連上人に倉を返して
くれと頼みました。命連上人は倉は返さないが、米は返すと約束し、
鉢に米俵を一つ乗せるように指示すると俵を乗せた鉢は長者宅に帰って
きた。そこで皆大喜びした。

というお話です。何とも愉快なお話が絵巻に記されています。

信貴山縁起絵巻

後鳥羽上皇宸翰御手院置文(鎌倉時代 国宝 複製)

後鳥羽上皇は水無瀬離宮を造り多くの公家従え度々行幸をされていました。
承久の乱で隠岐へ流された後水無瀬離宮を管理しているものにこの置文を
送り上皇が死亡した場合これを弔うよう指示した内容文面に上皇自ら
手印が押されたというものです。

後鳥羽上皇

長谷川等伯による千利休像(複製)桃山時代の作品が架けられています。

千利休像

またこの歴史博物館には千利休が唯一残したといわれる茶室「待庵」
模型が展示されていて、妙喜庵に行く前にこの模型で学習をしてから実物を
拝見すると余計そのしくみがよく判ります。
17 : 55 : 06 | 京の暮らし | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
妙喜庵
2012 / 10 / 10 ( Wed )
国宝 待庵 (妙喜庵)

国宝の茶室「待庵」がある妙喜庵はJR大山崎駅の前にあります。

妙喜庵は臨済宗東福寺派に属し、ご本尊には聖観世音菩薩、と千利休像が
安置されています。

妙喜庵は江戸時代末期まではこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといわれ、
明応年間(1492~1500年)に俳人であり、連歌師でもあった山崎宗鑑が隠居所
として建立したものであると伝えられております。

開山は東福寺の春嶽禅師で、もと連歌の祖であった山崎宗鑑の屋敷を寺にし、
妙喜庵と名付けられたといわれております。

妙喜庵には豊臣秀吉と明智光秀の山崎合戦(1582年)(天王山合戦)
直後に千利休が建立した草庵風茶室の代表的な遺構といわれる国宝の茶室
「待庵」と、重要文化財に指定されている春嶽禅師創建の室町時代の書院造り
「対月庵」があります。

妙喜庵石柱 外形
    
      扁額

 駒札

書院縁側の杉戸には狩野山雪による表側には松に鶴、裏側に雪中枯木に
山鳥が二羽の絵が描かれています。

杉戸

書院前のお庭は枯山水で書院から月が昇る様子がよく眺められ、秋の夜長は
月見の茶会などが開かれ風流を楽しんだと思われる侘茶の風情が感じられます。

書院前のお庭

五輪の塔もあまり高くなくそれほど広くないお庭にあわせた造り、
樹木とともに邪魔しないでそっとおかれているという心配りの塔です。

五輪塔

明月庵の奥に置かれている手水鉢は真四角でとがった石ののうえに
なんとも不安定な形でおかれています。


蹲

「待庵」と名付けられた茶室は、天王山合戦の際秀吉が千利休を招いて
山崎に二畳隅炉の茶室を造らせ、利休は秀吉に陣中の苦労を慰めたと
言われる茶室を後に解体して妙喜庵に移されたものと言われております。

待庵は千利休独特の構想で建てられ現存する茶室建造物としては日本最古
のもので千利休の遺構としては唯一のものであると言われております。

工夫された待庵は掛け込み天井と棹縁天井の組み合わせ、床間の隅や
天井を塗廻した室床の構想から二畳敷の割には広く感じられるように
されています。
又連子窓、下地窓の配置、壁の塗り方、やや広い躙口などは後世に残る
数寄屋の見本とされていると言われております。

ガレージ位のスペースに造られた茶室には、数限りない工夫と繊細な
緻密な計算のもとに造られた素晴らしい茶室です。

待庵の前庭には秀吉の袖が触れたということから「袖摺松」と名付けられた
現在は3代目に当たる松が植えられています。

裏千家の宗匠がこの老松の枝より作られた茶入れは妙喜庵の名物となって
いるようです。

袖すりの松

国宝といわれる茶室「待庵」ですが、年々老朽化し、維持が中々大変な
ようですが、このように素晴らしいものは長く保存されることが望まれます。
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赦免地踊り
2012 / 10 / 08 ( Mon )
八瀬天満宮 赦免地踊り

京の左京区、比叡山の山麓を流れる高野川が急流となる辺りに八瀬の里が
あります。
この辺りは風光明媚な地で清流と秋は紅葉がすばらしい里の風景が続きます。
八瀬と呼ばれる由来は、天武天皇が壬申の乱(672年)の際この地で背中に
矢傷を負ったためとも、又急流、岩瀬が多いところからとも言われております。

この八瀬の地に住まいする村民は古来より八瀬童子と呼ばれ皇室と関わりが
深く禁裏参内の特権を有し、天皇の行幸・還幸の際の駕輿丁を努めたと
いわれております。

その八瀬の秋元町には比叡山の法性房の阿闍梨尊意が菅原道真の死後勧請
したと伝えらている八瀬天満宮社があります。
菅原道真が幼少のころ尊意に学んだといわれ、この神社で休息したという
故事にちなみ菅原道真がお祀りされたようです。

この八瀬天満宮の摂社に秋元神社があり、江戸時代の老中秋元但馬守が
お祀りされています。
謂れは比叡山と八瀬村民との間で土地争いが起こり、村民は幕府に上訴
いたしました。村民の度重なる上訴に時の老中秋元但馬守が御裁きを
下されました。そのお裁きで村民が救われたことから高恩に報いんがため
秋元神社を建てお祀りされているものです。

その秋元神社において毎年10月に300年の歴史を誇る赦免地踊りが継承
されていて無形文化財に指定されています。
今日7日はその赦免地踊りが行われる日です。

皇后陛下御歌

八瀬天満宮社の鳥居前には美智子皇后陛下が踊りをご覧になった思い出の
歌碑があります。

 「大君の 御幸祝ふと八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」

八瀬釜風呂

壬申の乱の時に背中に矢傷を追った大海人皇子(天武天皇)が八瀬の
かま風呂でその傷を癒したといわれる八瀬かま風呂があるところです。

行列

祭は10月7日の午後7時30分頃に市立八瀬小学校前を出発いたします。

音頭取りを先頭に太鼓打ち、汐汲みの少女の行列に燈籠を頭に被り女装
した13歳~14歳の少年「燈籠着」が四か所から行列に加わります。
音頭取りが全員揃ったことを確認してから伊勢音頭に合わせて
八瀬天満宮社へと行列が進みます。

灯籠

頭につける燈籠は重さ5kgもあるとか、不安定なもので中々大変
そうです。
各町内で丹精をこめて赤紙にすかし彫りの絵模様を白の地紙に
張りつけて造られたものだそうです。
この燈籠一対には16人もの人が製作にかかわっておられるようです。

灯籠着

神事は真っ暗闇の中でしずしずと音頭に合わせて進められます。

神殿

燈籠着の行列は真っ暗闇の中でその灯りが天満宮社の長い階段を
ゆっくりと上ってくるのを上から眺める光景は幻想的なものです。

行列2

本殿に到着後は舞殿において御神酒を頂くという神楽が披露
されます。

神楽

地元の小学生(12歳~13歳)による可愛い汐汲み踊りが披露されます。
夏休みからずっと練習に励んできたものだそうです。
とても愛らしく祭を盛り上げていました。

又境内では燈籠廻しという、燈籠着が境内を廻るのも披露されました。

汐汲み踊り

灯籠まわし


今はもう殆ど見られなくなった、大道芸の南京玉すだれが東映の女優さん
によって披露されました。

南京玉すだれ

京の都に残されている、素晴らしい伝統行事(無形文化財)であります。
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