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大岩邸
2013 / 10 / 28 ( Mon )
高瀬川源流庭苑 大岩邸

木屋町の二条から流れる高瀬川は、角倉了以によって作られた運河で、
鴨川から取水されています。

鴨川から取水された水は、慶長16年角倉了以によって作られた別荘跡の庭園を
くぐって再び姿をあらわします。

この角倉了以の別荘跡はその後山縣有朋の別荘、第2無鄰菴となり、
第3代日本銀行総裁の川田小次郎の別荘、阿部市太郎の所有を経て大岩邸となり、
現在はがんこ二条店となっております。

この別荘は第7代小川治平衛の作庭で回遊式庭園はとても素晴らしいです。

石柱


駒札

鴨川からの取水口から流てきた水はさざれ石が敷かれた上を流ていきます。
さざれ石は水音をよく響かせる性質をもっているので小川を思わせます。

鴨川取水口

清流

大岩氏の所有になってからは燈籠や巨岩を用いた滝などが配置されるように
なり、当時から残されている燈籠は4つだけのようです。

ひときわ大きな燈籠は日本一大きな燈籠で吾妻屋燈籠と名付けられています。
高台にあり、移りゆく庭の景色を楽しむためのものでしょうか?

巨大灯篭

一枚板の滝は東山から高瀬川が滝のように流れるイメージで作られたそうです。

滝

おばけ燈籠と名付けられたこの燈籠は自然石を組み合わせて作られた
そうです。 なんとも不安定な形をしておりますが、これがまた夜景
には一際面白味があります。

灯篭3

庭園の一部茶室の辺りは小堀遠州の作庭のようです。
豊臣秀吉が好んだ金の茶室と同じ形式の茶室でにじり口はなく貴賓口が
設けられております。

茶室

茶室前にある蹲はこの庭園では一番古い燈籠と蹲のようです。

蹲

こちらの燈籠も了以の別荘当時のものだそうです。
苔むした風情が醸し出されております。

灯篭2

たがそでの蹲と名付けられ、着物の袖の形をしているところから
名付けられたそうです。

手水鉢

そろそろ紅葉が始まりかけて、庭園のもみじも化粧待ちというところでしょうか?
最盛期には真っ赤に色づき、町中の紅葉の見どころでもあります。
19 : 43 : 48 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
元立誠小学校
2013 / 10 / 25 ( Fri )
映画発祥の地 元立誠小学校

元立誠小学校は明治2年(1869年)に河原町通三条下がるに下京第六
番組小学校として開校された小学校です。

昭和2年に現在地に新築移転されました。

番組小学校とは日本で最初に作られた小学校で、「番組」というのは
江戸時代の町組をもとにつくられた自治組織のことをいいます。

上京に33下京に32の計65の番組がおかれその番組にほぼ
一つづつの小学校がつくられました。

元立誠小学校はその第6番組目の小学校になります。

この元立誠小学校が昭和2年に移転しました蛸薬師通河原町東入
辺りはその東側には高瀬川が流れ繁華街に真ん中にあります。

現在の校舎は昭和3年に完成したもので、その後生徒の減少などで
平成5年(1993年)にその役目を終え現在は自治会の行事や、アート
イベントなどに活用されています。

校舎

木屋町通を流れる高瀬川は角倉了以が開削した人口の運河で
鴨川の二条辺りから水を引き入れ伏見港につながる全長10km
の水運に利用されてきました。

その記念碑がこの小学校前に置かれています。

角倉了以銅像

この辺りはまた、日本映画発祥の地ともいわれております。

駒札

明治30年(1897年)実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も
務めた稲畑勝太郎氏(1862~1949)が初めて映画(シネマトグラフ)
の実験に成功した場所であります。

明治29年(1896年)万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は
フランス留学時の級友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ
(映写機構カメラ)とその興行権、フィルムを購入し、リュミエール
舎の映写技術兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国しました。

そしてその翌明治30年の雪の降る夜京都電燈株式会社の中庭(現在の
元立誠小学校)で国内で初めて試写実験に成功いたしました。

この功績を機会に日本の映画は発展しつづけてまいりました。
 
稲畑勝太郎

その後横田永之助が稲畑勝太郎からシネマトグラフの興行権を譲り受け
横田商会をつくり日本各地で映画を上映いたしました。

マキノ省三は横田永之助の目にとまり横田商会のもとで日本製の映画
づくりをはじめました。

マキノ省三監督、尾上松野之助主演の時代劇映画が数多く作られて
いきました。

その後マキノ省三は独立して衣笠の等持院の境内に撮影所を建て、
坂東妻三郎などの俳優を育てその名声を博しました。

マキノ省三の銅像は等持院に建てられております。

牧野省三銅像

そうした映画の発展から、今日ではテレビの映像へと変遷して
おりますが、家庭に眠るフィルムを今一度世に出して、家族の
団らんや、町並みの風景を鑑賞する「ホームームービー」の日というのが
2003年から始められております。

もともと米国のフィルム保存の専門家が2003年に始めた運動で
10月の第3土曜日を「ホームムービー」の日として世界中で
昨年は17ケ国で開催上映されているそうです。

今年はここ映画発祥の地で柴田幹太さんが企画され昭和31年頃から
の映像が持ち込まれ上映されました。

懐かしい当時の運動会の模様や町並みが映し出され貴重な映像を
拝見することができました。

実写

このような映像は記録映画としても町の変遷を知る上で貴重なもので
是非捨てないで残されていくことを願うものです。


16 : 35 : 02 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
法金剛院
2013 / 10 / 14 ( Mon )
花の寺 法金剛院

JR花園駅の向かい側に京都では数少ない律宗のお寺「法金剛院」
あります。

山内

山号を五位山と号し、ご本尊は阿弥陀如来坐像が安置されています。

平安時代の初め右大臣夏野清原がこの地で営んだ山荘を没後に寺に
改め、双丘寺と称したのが始まりと伝えられております。

後に文徳天皇が天安寺としてして建立、その後の沿革は不明とされて
いますが、大治5年(1130年)には鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、
寺名を法金剛院と改められました。

石柱

山門


待賢門院が詠まれたとされる歌碑が建てられております。
 「なかからむ 心もしらす黒髪の 乱れてけさは 物をこそおもへ」

また待賢門院を深く慕っていた西行

 「春風が 花を散らしている夢は 目覚めた後まで 胸のときめきが
    やむことなく つづいている」

と夢のなかで逢瀬をとげたことを読んだ歌もあり、平安時代の恋物語が
繰り広げられた舞台でもあった法金剛院であります。

待賢門院の歌碑

本堂前の庭園は平安時代の遺構を残した西方極楽浄土の世界を表す
”浄土の庭園”といわれ、昭和45年(1970年)に発掘復元されました。
初夏には菖蒲が、夏には蓮の花と四季折々の花を楽しむことができます。

蓮池

池の北側には巨石を並べて作られた「青女の滝」は背後の五位山とともに
国の名勝に指定されています。

清女の滝

本堂は元和4年(1618年)に再建されたもので、堂内にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と四本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊菩薩坐像
などが安置され重要文化財に指定されています。

本堂

本堂前には仏足石が置かれています。

法金剛院では仏足石の向きを、他の寺院とは反対の向きに、踵が
参拝者に向くように置かれています。

これは律宗の教えで、お釈迦様の定めた戒律をそのまま守り従い、
追随することが悟りへの道であるということによるものだそうです。

仏足石
22 : 27 : 06 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
唐菓子
2013 / 10 / 07 ( Mon )
唐菓子「清浄歓喜団」

日本のお菓子のルーツは

①最も古いお菓子の原型は・・・・・・・果物や木の実
②儀式などのお供え物として・・・・・・餅や団子
③中国から伝来した・・・・・・・・・・唐菓子(からくだもの)
④喫茶とともに広がる・・・・・・・・・点心
⑤16世紀にヨーロッパから伝来した・・・南蛮菓子

などのルーツをたどりながら日本のお菓子は独自の発展を遂げて今日に
至ります。

その唐菓子(からくだもの)は遣唐使が唐から持ち帰ったもので、小麦粉
などの穀類を加工し、油で揚げる製法がおおかったもので、平安時代には
それらの唐果物は20種類ほどあったといわれております。

その唐果物は当時は天台宗、真言宗などのお供え物として貴族社会にのみ
供されていたものであります。

現在でも神饌として継承されているものもあり、団喜とよばれる唐果物で
清浄歓喜団が現在も継承されています。

「亀屋清永」は京お菓子司として元和3年(1617年)創業と伝えられ、その清浄歓喜団が継承されています。

店舗

京菓子司の「亀屋清永」はもとは寺町三条辺りに住まいし、禁裏御所や諸藩
諸侯、社寺などにお出入りが許され和泉大掾という称号を拝命しておられた
そうですが、明治になって亀屋清永と改称されたそうです。

現在は祇園石段下を南にいったところに店舗があります。


看板

清浄歓喜団の秘法は比叡山の阿闍梨から教わったと伝えられているそうです。

七種の香を入れて包み、そのほのかな香りは仏教の「清め」といわれ、
八つの結びは八葉の蓮華を表し、形は金袋になぞらえて、中には小豆餡が
入れられていて、ごま油で揚げられているようです。

不思議な香りのお菓子です。

清浄歓喜団2

亀屋清永さんでは餢飳(ぶと)と呼ばれる唐果物も作られています。
コメや麦の粉をこねて丸く平らにしたものを折、兜形にしてごま油で
揚げてあるものです。

清浄歓喜団

清浄歓喜団は2個入りで1,155円で21日間日持ちします。
亀屋清永さんでは毎月1日と15日に調製されています。
22 : 23 : 39 | 京菓子 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
女紅場跡
2013 / 10 / 05 ( Sat )
大河ドラマ八重の桜から 「女紅場跡」

大河ドラマ「八重の桜」で今丁度第2代京都府知事の槇村正直が京都の
変革期に奔走する時代が放映されています。

当時の京都は東京遷都でお公家さんや商工業者が東京に移り京都御所は
狐狸の棲家と言われるくらい衰退していましたが、その復興もまた迅速
に行われました。

その打開策として京都の勧業政策がいろいろ行われました。

明治2年には江戸時代の自治組織である町組を基礎として市民提供の運営資金
を基金として日本最初の小学校64校が開校され、

また明治5年(1872年)に女紅場が各学区毎に開校されその後の女子教育の
基礎となりました。

その女紅場のうちの一つが旧九条河原町屋敷を学校として開校いたしました。

その碑が現在の鴨川を挟んで丸太町橋の西南に置かれています。


石碑

碑には
 女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立當初ノ名稱ニシテ明治5年
4月4日舊九条家河原町殿ニ開設
と書かれています。

この女紅場に八重が兄覚馬の勧めで女紅場の権舎長・教導試補として勤務
するようになったという様子が大河ドラマで描かれています。

石碑2

現在は碑だけが残されています。

傍らには1924年に吉田鉄郎設計の電気通信技術資料館があります。
現在は1階はスーパーになっています。

電気通信技術資料館2

この女紅場が設立された九条家は五摂家の一つでこの辺りには
鷹司家の別邸もあったようでかなり広大な敷地であったようです。

その後明治33年には女紅場は旧九条家河原町邸から現在の鴨沂高校の
地に移転されその正門と茶室が移築されました。

鴨沂高校正門 鴨沂高校

女紅場は明治37年(1904年)4月に「京都府立第一高等女学校」に改称
さらに大正12年(1923年)「京都府立京都第一高等女学校」に、昭和23年
には「京都府立鴨沂高等学校」に改称されました。

「女紅場之創始」扁額は槇村正直知事の揮毫によるもので鴨沂高校に
残されております。

女紅場創始扁額

鴨沂高校は学区制が敷かれるまでは「東の日比谷、西の鴨沂」とよばれ
全国区の名門校といわれておりました。
在校生としては久邇宮恭仁子女王や日本画家の上村淳之氏、や京都大学名誉教授
川那辺浩哉等学識経験者や映画俳優(山本富士子、田宮二郎、森光子)など
多くの著名人を輩出しています。
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