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春の訪れ
2015 / 02 / 25 ( Wed )
春の訪れ

2月19日は雨水で雪解けが始まった季節を迎えました。

春の訪れをいち早く告げる蕗の薹が春の日差しを一杯受け
すくすくと伸びてきました。

この花が咲いた後に地下より茎が育って香りたつ蕗が出てきます。
蕗は富貴といって縁起がいいとされています。

ほろ苦さは私たちの身体にいい刺激を与え、寒さで縮かんでいた
血流をよくすると昔の人は自然を上手に取り込んだ食生活と生活の
知恵を伝えてきました。

フキはフフキより転訛したともいわれます。

蕗の薹の天ぷら、和え物は珍味でとても美味しいです。

大原勝林院で見つけた蕗の薹です。

蕗の薹

沈丁花も蕾がふくらんできました。

沈丁花は原産は中国で日本では室町時代にはすでに栽培されていた
そうです。

沈丁花の名前の由来は香木の沈香のようないいかおりがして、
丁子のような花をつけるところから名付けられたそうです。

花言葉は栄光、不死、不滅、永遠

通りを過ぎる時、垣根からいい香りがして、春を感じる
日がすぐ近くまでやってきました。

若山牧水は
「沈丁花 いまだは咲かぬ 葉がくれの くれなゐ蕾(つぼみ) 匂ひこぼるる」
とうたっています。

沈丁花

そして今日(25日)は北野天満宮の梅花祭です。
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22 : 01 : 22 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京の冬の旅
2015 / 02 / 21 ( Sat )
京の冬の旅 琳派400年 「妙顕寺」

今回(第49回)の京の冬の旅は「古都京都の文化財 
世界遺産登録20周年記念」と「琳派400年記念」に焦点をあて
文化財が公開されています。

京の冬の旅


琳派は本阿弥光悦が徳川家康から京都鷹峯に土地を与えられ
芸術村を開いて誕生した流派で、その創始は本阿弥光悦と
俵屋宗達で、尾形光琳、乾山兄弟によって発展してきたと伝えられています。

その琳派400年記念として公開されている妙顕寺を訪れてきました。

妙顕寺は正しくは四海唱導 妙顕寺といい日蓮宗の大本山です。

駒札


日蓮上人の孫弟子にあたる「日像上人」が元亨元年(1321)に京都に
おける日蓮宗最初の道場として創建したのが始まりです。

山門

建武元年(1334)に後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨を受け
法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門第一位に認められました。

その後は度々の法難と災禍に遭遇し、天保5年(1834)に再建された
総檜造りの本堂があり今日に至ります。

本堂に掲げられている四海唱導の扁額は光厳天皇の筆によるもの
だそうです。

扁額


妙顕寺には尾形光琳の屏風絵をを元にして作られたといわれる
「光琳曲水の庭」、客殿前の「龍華飛翔の庭」「孟宗竹の庭」と
趣の違う三つのお庭があります。

また尾形光琳の筆による「寿老松竹梅」の掛け軸が三幅や
酒井抱一の「観世音菩薩像」、狩野山楽の屏風などが展示されています。

龍華飛翔の庭
(龍華飛翔の庭) 奥の3つの石組から滝が流れ大海にそそぐ様子です。

隆華飛翔の庭の手水鉢
 (龍華飛翔の庭にある手水鉢)

孟宗竹の庭
 (孟宗竹の庭)

孟宗竹の庭2
  (孟宗竹の庭)

光琳曲水の庭
 (光琳曲水の庭) 赤松が雄大な枝を伸ばしています。

紅梅
 (紅梅がちらほら咲き始めました。)

椿
 (椿も咲き誇っています。)

妙顕寺の塔頭ですぐ隣にある泉妙院には尾形光琳のお墓があります。

泉妙院

尾形光琳墓
19 : 16 : 07 | 京のお寺・神社 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
小浜藩邸跡
2015 / 02 / 14 ( Sat )
小浜藩邸跡&刀剣の開陽堂

京の二条城にほど近いところ(御池通池ノ内町)に刀剣の専門店
「開陽堂」さんがあり、そのお店の前には「小浜藩邸跡」と書かれた
燈籠が立っています。

小浜藩邸跡

説明によれば
二条城の南に神泉苑があり、その南の通りは御池通となります。
この辺りは今ではJR二条駅のすぐ近くになり、
昔、江戸時代は京都所司代を三代にわたって務めた若州小浜藩
酒井家の御屋敷があった処とされています。

当時は2万坪にも及ぶ広大なお屋敷であったようです。
因みに二条城は8万坪に及びます。

このお屋敷は後に第15代将軍徳川慶喜公が文久3年(1863年)に
使用し、慶応3年の9月21日に二条城に移るまで京都における幕府の
活動の拠点となりました。

その間ここで大政奉還の腹案が練られ、幕末の重要な役割を演じ
その決断が下された場所であると記されております。

その証としてここに置かれている灯篭側面に年号と正面に
白須甲斐守源政(?)と書かれています。

小浜藩邸 駒札

この灯篭が置かれているところは
刀剣の専門店「開陽堂」さんのお店の前です。

開陽堂

日本の刀剣が作られたのは古墳時代からといわれておりますが、
刀剣としては平安時代とされています。源頼光が大江山酒呑童子を切った
「童子切」と呼ばれる名刀が現れ、その刀鍛冶で代表される、京の
「三条小鍛冶宗近」と呼ばれる名刀工が現れたと歴史に記されています。

店内

開陽堂さんでは新撰組の土方歳三が所持したとされる刀も保存されています。
その刀はやけに長く、それを腰にさして歩くことが出来たのか?と疑問に思われます。

それにしても昔の武士はこのように危険な刃物を所持していたのですね?

第2次大戦後刀は武器として、GHQによって多くが没収となり、以後登録制となり
現在では美術鑑賞用と武器ではなく、居合道や抜刀道の武具用に限り認められて
います。

この刀の源となる玉鋼が展示されていました。
この黒い塊を日本独特の製法「たたら吹き」という製法でいくつもの工程を経て刀が
出来るそうです。


玉鋼
19 : 16 : 05 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
京の伝説
2015 / 02 / 02 ( Mon )
京の伝説 一条戻り橋

京は堀川通の一条に架かる橋、「一条戻り橋」には伝説があります。

平安の頃は自然の川が流れ物資の運搬や材木を流す筏が組まれたといわれる
くらい川幅も広い河川であったようです。

物資の運搬だけではなく貴族の庭園にひく水や友禅染にも用いられていた堀川は
第2次大戦以後の下水道の整備などによって水流が消滅してしまいました。

現在は琵琶湖疏水の水流を利用した人工の川として紫明通から御池まで流れて
市民の憩いの場とされています。

この堀川の一条通に架かるのが一条戻り橋です。

戻り橋           戻り橋2

一条戻り橋の伝説1

平安時代、文章博士三善清行が没したことを聞いた息子の淨蔵が、
この橋の上で父の葬列に出くわし、棺にすがって泣き崩れると、父が
一時蘇って対面した。
このことから「戻り橋」と呼ぶようになり、「戻り」にこだわって京の都では
嫁ぎ先から戻ってこないよう、婚礼の荷物や、婚礼に出向くときは決して
この戻り橋は渡らないようにする
というものです。

そして伝説2

平安中期、堀川あたりは日が暮れるとひとの気配もなく静まり返っていました。
ある日も暮れたころ、源頼光が用事を思い出し、渡辺綱を一条大宮に派遣しました、
夜のこととて、名剣の「髭切」を持たせ馬で向かわせました。

綱が一条戻り橋付近に差し掛かると、若い女が一人で歩いているのを
見かけました。
するとその女は綱を呼び止め「あのう もし」「五條まで参りますが、暗くなって
しまい怖くて困っていました。ご一緒させてもらえませんか?」と頼みました。

綱は女を馬に乗せ送ろうと走らせました。
一条戻り橋を渡っているとき、雲の影から月が顔を出しました。
その月光は、堀川の水面に馬上の二人を映し出したのです。
一人は渡辺綱、そして後ろにいるものは、まぎれもなく鬼女の姿を
していました。
鬼女は見破られたことに気づくと、さっと形相を変え、恐ろしい鬼となり、
「わがゆくところは愛宕山ぞ」というと、綱の髻をつかんで西北天へと
飛びました。
綱は慌てることなく、「髭切」の太刀を抜くと、自分をつかんでいる鬼女の
腕を一刀両断のもとに切り払ったのです。
鬼は片腕を失いながら、愛宕の方へ飛び去りました。
綱が飛び降りたところは北野天満宮の屋根の上でした。


渡辺綱と鬼

北野天満宮には渡辺綱が振るったとされる太刀が今も保存されているそうです。

後日綱は、無事であったこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、
石燈籠を寄進いたしました。

その燈籠は今も北野天満宮の本殿の斜め前に残されております。

 渡辺綱の灯篭

京の都にはこのように沢山の伝説が語り継がれております。
15 : 36 : 19 | 京の暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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