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山名宗全邸宅跡
2010 / 09 / 06 ( Mon )
(西陣は歴史の宝庫) 山名宗全邸宅跡

碑2



京の堀川今出川を北に1筋上って西側に入ったところに、山名宗全邸宅跡とされる
石碑が残されております。

由緒がき2 碑

山名宗全は、かって京の都を焼きつくす戦を招いた応仁の乱の西軍を率いた
大将であります。

応永11年(1400年)に生まれ持豊名と付けられ後に宗全と号したと伝えられております。
当時但馬を始め数ケ国を領し、強大な勢力を持っていたそうで、その容姿も
赤ら顔であったので”赤入道”とも呼ばれていたようです。

応仁の乱は、将軍足利義政に子供がいなかったために、義政は弟義視を後嗣にしよう
としましたが、その後に義政の夫人富子に男子義尚が生まれたため、その将軍職
を巡って後継者の争いが応仁の乱(1467年)へと発展していきました。

義尚を擁する山名宗全は西軍、この邸宅跡に軍をはり、義視を擁する細川勝元
は東軍
上御霊神社のあたりに軍をはり、東西に分かれて11年間に及ぶ戦へと
発展していき、京の都は焼き尽くされるほど焦土化してしまったのです。

山名宗全は文明5年(1473年)陣中で没したと伝えられております。

 ”なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落ちる涙は ”
     (飯尾六左衛門尉常房)

という歌も残されております。

西陣の地名も宗全が西に陣を置いたことから西陣と呼ばれるようになったのです。

見過ごしそうな町家の小さな一画にこの碑が守り伝えられ、京の歴史を垣間見る
ことができます。

京の西陣は町に溶け込んだ小さな碑にも大切な歴史が込められております。
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