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京の通り
2012 / 08 / 20 ( Mon )
京の通り 了頓辻子 


京に都(平安京)がおかれ均整のとれた「左京」と「右京」にわかれ
その中心南北に朱雀大路が左右を画しました。

この左右両京は「東京(ひがしのきょう)」「西京(にしのきょう)」とも称され、
さらに東京を「洛陽城」、西京を「長安城」とも称されました。
この両京は同時に大行政区となり、条坊制というシステムによって
ブロックごとに区切られそのブロックごとに大路、小路が張り巡らされました。

この条坊制の町の区画は正方形が基本でありましたが、次第に商業が
発達し、商人が表通りに面して店舗を構えだしますと、正方形の中心部
が空間地となってまいります。
その空間地に新たに道を通せば細い通りでも、通りに面して店舗を構える
ことが出来ます。

このようにして今までの区画内に新たな通りができたりたのが路地であり、
辻子であります。

この路地や辻子の違いは通りが隣の通りまで突き抜けているものを「辻子」
と呼んだり、コの字型になった通りに面して家が並んでいるものを「路地」
と区別したりいたしました。がこの区別はいろいろ節があるようです。

このようにして出来た細い通り、「路地」や「辻子」が京の町には沢山
見られます。
そこにはまたそれぞれの由来があったりいたします。

その内の一つに、京の中心中京区の室町から新町の間で三条通りから六角通に
かけて了頓辻子という細い通りがあります。

駒札

この了頓辻子というのは
江戸時代の初期の地誌『雍州府志』によると足利家の従臣であった廣野家が
この地に領地を有し、その廣野家の末裔で了頓はこの地に茶亭を構え茶道を
広めました。
豊臣秀吉もこの茶亭に訪れて茶を喫したといわれ、徳川家康も訪れて茶を
たしなみ遊んだといわれ、徳川幕府からは四百石を受け厚遇されていたと
記されております。

この了頓亭は広く、了頓の意志によって表門から裏門まで一般の通行が許され
たという逸話が残されており辻子の役目を果たしていたと伝えられております。

今も了頓辻子町という名が残されているのはここに住まいした廣野了頓に由来
すると伝えられております。

通り 了頓邸跡
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