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女紅場跡
2013 / 10 / 05 ( Sat )
大河ドラマ八重の桜から 「女紅場跡」

大河ドラマ「八重の桜」で今丁度第2代京都府知事の槇村正直が京都の
変革期に奔走する時代が放映されています。

当時の京都は東京遷都でお公家さんや商工業者が東京に移り京都御所は
狐狸の棲家と言われるくらい衰退していましたが、その復興もまた迅速
に行われました。

その打開策として京都の勧業政策がいろいろ行われました。

明治2年には江戸時代の自治組織である町組を基礎として市民提供の運営資金
を基金として日本最初の小学校64校が開校され、

また明治5年(1872年)に女紅場が各学区毎に開校されその後の女子教育の
基礎となりました。

その女紅場のうちの一つが旧九条河原町屋敷を学校として開校いたしました。

その碑が現在の鴨川を挟んで丸太町橋の西南に置かれています。


石碑

碑には
 女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立當初ノ名稱ニシテ明治5年
4月4日舊九条家河原町殿ニ開設
と書かれています。

この女紅場に八重が兄覚馬の勧めで女紅場の権舎長・教導試補として勤務
するようになったという様子が大河ドラマで描かれています。

石碑2

現在は碑だけが残されています。

傍らには1924年に吉田鉄郎設計の電気通信技術資料館があります。
現在は1階はスーパーになっています。

電気通信技術資料館2

この女紅場が設立された九条家は五摂家の一つでこの辺りには
鷹司家の別邸もあったようでかなり広大な敷地であったようです。

その後明治33年には女紅場は旧九条家河原町邸から現在の鴨沂高校の
地に移転されその正門と茶室が移築されました。

鴨沂高校正門 鴨沂高校

女紅場は明治37年(1904年)4月に「京都府立第一高等女学校」に改称
さらに大正12年(1923年)「京都府立京都第一高等女学校」に、昭和23年
には「京都府立鴨沂高等学校」に改称されました。

「女紅場之創始」扁額は槇村正直知事の揮毫によるもので鴨沂高校に
残されております。

女紅場創始扁額

鴨沂高校は学区制が敷かれるまでは「東の日比谷、西の鴨沂」とよばれ
全国区の名門校といわれておりました。
在校生としては久邇宮恭仁子女王や日本画家の上村淳之氏、や京都大学名誉教授
川那辺浩哉等学識経験者や映画俳優(山本富士子、田宮二郎、森光子)など
多くの著名人を輩出しています。
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